藤代家を出た紬と隆臣。
敷地の外に停めてある黒の高級車に、隆臣が会釈すれば運転手が降りてきた。
「お待ちしておりました。当主様。そしてーー奥様」
「へっ…!」
運転手が柔らかい雰囲気でそう伝えると、紬の頬は赤く染まった。
(わ、私…本当に今日からこのお方の…)
そう思い、隆臣の方を見ると小さく笑みを浮かべた。
「この者は、青柳。先代当主の時から能見家に仕えてくれている」
「青柳さん…初めまして、紬と申します」
「えぇ、えぇ。もちろん、存じ上げております。さぁ、どうぞ。お乗り下さい」
紬に何度も頷き、丁重すぎるサポートで後部座席に乗せる。
隆臣も続けて乗ると、運転手は走り出した。
紬は、『妾の子』『みすぼらしい見た目』という理由から、藤代家の恥とされてきて、外に出る事は滅多に許してもらえなかった。
その為、車に乗るのは初めての事。
進むに連れ、速度が上がって流れていく景色。
外の景色自体、珍しいがそれが速く通り過ぎていくのが面白くて、口角が緩んだ。
「紬さんは、そのようにして笑うのですね」
紬は慌てて口元へ手を当てた。
「も、申し訳ありません……」
車窓越しに笑った事を見た隆臣。
くすりと笑いながら指摘すれば、慌てて視線を窓から逸らした。
「不快にさせてしまったなら申し訳ない」
紬の態度を見て、眉を下げて伝えれば慌てて伝えた。
「い、いえ…! 私は…その…っ!」
慌てて否定しようとしたが、車がキキィーッ!と音を立てて急停止した。
その事で、紬の体が前に倒れそうになるのを隆臣が咄嗟に判断して守るように抱きしめた。
「…おい、青柳。紬さんが乗っているのに、何だその運転は」
「申し訳ありません。しかし、当主様ーー」
運転手が言葉を続けるよりも先に、隆臣が口を開いた。
「…鬼陰か」
目つきを鋭くさせ、前方をじっと見据える隆臣。
前方へ視線を向けたまま、小さく呟いた。
「鬼陰…?」
初めて聞く言葉に、聞き返すように呟けば紬の方を見る隆臣。
「いいですか。俺が帰ってくるまで、絶対に出ないで下さい。青柳、危険と察したら俺を置いて車を後退させろ。絶対、紬さんを守れ」
「かしこまりました」
それだけ言うと、隆臣は車を降りた。
トランクを開け、刀を取り出せば腰に携えた。
「えっ…!?」
「奥様ーー大丈夫ですから」
何が起こったのか分からず、目を泳がせている紬に青柳が落ち着かせるように言った。
「で、でも…! あんなの…!」
紬の目に映るのは、十メートルほど先にゆらゆらと揺れる黒い立体の影のようなもの。
背丈は長身な隆臣よりも頭三つ分くらい大きい。
それが三体もいる。
「キェエエエエエッ!!!」
雄叫びを上げながら、右往左往彷徨っている。
周りに人がいないから良いものの、人がいたら大パニックだ。
「っ…!」
雄叫びに怯え、体を小さく丸める紬。
(いや…いやいやっ…こんなの、何っ…!?)
初めて見る鬼陰と軍人の戦い。
青柳の言葉を受けたものの、どうなるかなんて分からない。
ぎゅっと目を閉じて時が過ぎるのを待つ事でしか、紬にできることはなかった。
そして、しばらく経つとガチャっーーと、車外から、最後に金属が鳴るような音が響いた。
後部座席のドアが開いた。
「っ…!」
声にならない声を出すと、開いたドアの方を見た。
「…戻った」
息をあげる事もなく、何事もなかったように車に乗る隆臣。
体制を元に戻せば、道にはもうなにもなかった。
「青柳。出してくれ」
「はい」
そして、隆臣と青柳も何事もなかったようにしている。
まるで、怯えている紬が異常なようだ。
(外では…こんな事があるの…?)
不安に思うと、ぎゅっと拳を握った。
「…鬼陰を見るのは、初めてですか?」
怯える紬に尋ねると、こくりと頷いた。
「は、はい…。あ、あのっ…さっきのみたいなのって、どこにでもいるのですか…?」
震えた声で尋ねる。
すると、隆臣は首を横に振った。
安心したのも束の間、口を開いた。
「本来は、人里になど降りてこないはず…先程の鬼陰も、弱過ぎる。もしかしたらーーあの話は本当なのやもしれん」
隆臣が顎に手を添えて、真剣な表情をして放った。
紬が小首を傾げると、青柳が「こほん」と咳払いをした。
「当主様。そのお話…奥様におっしゃって大丈夫でしょうか? 先程、初めて鬼陰を見たばかりだというのに…」
「むしろ、話さねばならないだろう。紬さんは、鬼陰と戦うーー軍人の妻となるのだから」
「っ…」
青柳が紬を心配しながら尋ねるが、キッパリと答える隆臣。
そして、紬は自身が妻と呼ばれる立場である事を再認識すると耳まで赤くした。
「紬さん。鬼陰とは、人を襲う化け物です」
「化け物…?」
尋ね返すと、こくりと頷く隆臣。
そして、言葉を続けた。
「その鬼陰は、大昔に存在した”鬼”という存在が生み出した災いだと伝えられています」
初めて聞く言葉のオンパレードで、紬の頭にははてなマークがたくさん浮かんだ。
「…難しい話なので、今すぐにすべて分かる必要はありません。ゆっくりと、知ってもらえれば大丈夫ですから」
「は、はい…?」
こくりと頷きながらも、紬の頭の中は聞いた言葉で埋め尽くされていた。
「今は、鬼陰は人を襲う存在なんだと知っておいてもらえれば十分です」
「わ…分かりました…」
隆臣の説明にこくりと頷けば、景色はだんだんと緑豊かな場所へと移っていった。
そして、大きな山が見えた。
麓に、広大な敷地を囲う柵のある立派な屋敷に近づけば速度はだんだんと落ちていった。
「ーーここです。今日から俺と貴女の家になる能見家」
「えっ…!」
帝都一の敷地の広さと大きさを誇る能見家。
あまりの大きさに、紬は目をまん丸にした。
車から降りると、待ち構えていた使用人達がぞろぞろと出てきた。
「「「お帰りなさいませ。旦那様、奥様」」」
出てきたのは十五名ほどの使用人達。
皆が隆臣と紬が帰ってくるのを心待ちにしていたのだ。
「あぁ。ただいま」
使用人達に答える隆臣。
すると、十五人の視線が、一斉に紬へ向けられた。
「あ、あの…! 紬、と申します…! ふ…不束者ではございますが、今日からどうぞ…よろしくお願いします…!」
深々と頭を下げれば、シンと静まる。
その無言に、紬は不安になった。
「「「はい。よろしくお願い致します」」」
皆の声が揃い、一斉に受けると風圧を感じた。
しかし、受け入れてもらえた事にホッと安堵した。
「随分と可愛らしい奥様だこと」
「本当…すごく良い子そう…」
ヒソヒソと話しているが、使用人達が口々に話している事が聞こえると、恥ずかしくて頬が赤らんだ。
「はいはい。お前達、奥様が驚くからおやめなさい」
一番右端にいた高齢の女性が、パンパンと手を叩くと皆が口をつぐみ、シンとした。
「奥様。お帰りなさいませ。私、ここの使用人長を務めております。シマと申します」
「シマさん…! はい。よろしくお願い致します」
紬が丁寧に挨拶をすると、目を丸くするシマ。
これまで、この家に来た令嬢が使用人にこれほど態度が良かったことはなく、紬が初めてだった。
「…えぇ。それではまず、奥様の付き人をご紹介致します」
「付き人…?」
紬が小首を傾げたが、シマの言葉で一人の女性が前に出た。
紬と歳が変わらない見た目の女性。
(私に……付き人?)
そう思い、女性をじっと見ていると目が合った。
彼女はにこりと笑って会釈した。
「初めまして。奥様。本日より、付き人としてお世話を担当させて頂きます。高園と申します」
「よ…よろしくお願いします」
高園に合わせて紬も慌てて頭を下げた。
「旦那様。奥様をお部屋へご案内してもよろしいでしょうか?」
高園が隆臣に尋ねると、こくりと頷いた。
「紬さん。まずは高園から屋敷のことを聞いてください。そのあと、落ち着いたら俺の部屋へ来ていただけますか」
「わ、わかりました…」
こくりと頷けば、高園は早速「奥様。こちらです」と案内を始めた。
敷地の中は、とても広く建物も藤代家とは比べ物にならないほど大きい。
慣れるまで迷子になってしまいそうだ。
「奥様のお屋敷からこちらまで、遠かったでしょう?」
「えっと…そう、なのでしょうか…?」
世間話で距離を縮めようとした高園だったが、紬の返事がぎこちない。
その後も「奥様」「奥様」と、何度も話しかけてくれるけれど、会話はいつも紬で止まってしまう。
それが申し訳なくて、口を開いた。
「すみません…高園さん…」
「? どうされました?」
「あの…私、あまり話がその…得意ではなくて…」
たくさん話を振ってくれる彼女に言いにくそうに伝えたが、彼女の反応は意外なものだった。
「えぇっ? そうですか? 可愛らしいなぁ、と思いながら聞いてますよ? あっ。こちらが奥様のお部屋です」
「か…可愛い…?」
ここへ来てから調子が狂う発言ばかりされてしまう。
そんな中、部屋の前に着くと襖を開ける高園。
「わっ…! 広い…!」
襖の奥に広がっていたのは、とても広い和室。
藤代家のリビングほどの広さがある。
とても、一人が使う部屋とは思えない。
さらに、家具はどれも新しく、上質なものばかりだった。
部屋に入った瞬間、紬は周囲を見渡した。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す紬に、高園はパァッと目を輝かせた。
部屋を見るだけで、紬がこれほど感動すると思わず、説明に力が入った。
「奥様…! 今は和室ですけれど、洋室がよろしければ変更もできます。あと、一旦は必要になるものを揃えたのですが、ご不便があったり、必要なものがあればなんなりとお申し付け下さい」
「そ、そんな…これほど良くしていただいてるのに…あっ。あの、高園さん…その…」
高園の説明を聞き終えると、視線が落ち着かず、何度も部屋を見渡した。
しかし、これほど良すぎる待遇を受けられることに、申し訳なさがあった。
『私なんかが、贅沢をして良いわけがない』
これまでの生活で身に染み付いてしまったしがらみだ。
「このお部屋…本当に、私が使ってよろしいのですか…?」
「えぇ、もちろんでございます。そのために、旦那様が手配なさったのです」
「旦那様が…」
高園から話を聞くと、頭に彼の顔が浮かび頬を赤らめ、ぶんぶんと首を横に振った。
「ふふっ。そのご様子だと、お気に召していただけたのですね?」
紬の反応を可愛らしく思い、くすくすと笑う高園。
「あっ…も…申し訳ありませんっ…その…」
笑われると、癖で謝ってしまう紬。
そんな紬を見ると、口元を手で押さえる高園。
「失礼しました。それでは、続いて衣装部屋をご案内いたします」
「…衣装部屋?」
小首を傾げると、高園はこくりと頷いて隣の部屋へ案内した。
襖を開けると、中にはずらりと衣服が並んでいた。
大人しい色味の着物から華美なドレスまで、和洋問わず色々な服が並ぶ。
まるで、お店のよう。
「わっ…! す、すごい…」
瞬きを繰り返した。
こんなにもたくさんの服を見るのは、生まれて初めてだった。
「それと、あちらには化粧台を置いております。奥様がご贔屓にされている化粧道具が分からなかったので、老舗のものから街で流行りのハイカラなものまで一通り揃えております」
「お化粧…」
紬の胸がちくりと痛む。
十七年生きてきて、化粧をしたことなどなかった。
高園が化粧台の前まで案内して、引き出しにびっしりと詰まっている化粧道具。
まるで、宝石のように煌びやかで初めて見る紬は虜になった。
けれど、化粧台に設置されてある鏡に映る姿が目に入ると、あまりに醜い顔に視線を逸らし、長い髪で顔を隠すようにした。
(私なんかが…浮かれちゃ、ダメ…)
そう言い聞かせた。
「奥様、お化粧ーーなさいませんか?」
紬の様子を見て、高園が優しく微笑んだ。
「いえ…私なんかがそのような事をしてもーー」
(きっと、笑われてしまう)
続く言葉は決まっていた。
けれど、明るく気を使う彼女にこれ以上余計な気をまわさせたくなくて唇をきゅっと噛み締めた。
藤代家を出る前にぶたれた事で赤くなった頬。
見よう見まねで結った髪は、ボサボサ。
顔色なんて、死を彷徨っている事を彷彿とさせるような白さ。
鏡に映る自分を見るたび、醜いという思いだけが胸の奥から湧き上がってくる。
(よく恥ずかしくなかったわね…こんな姿で、あの能見様の隣を歩いた、なんて…)
長い髪の隙間から見える自分の姿に心でそう呟いた。
「たしかに、そうですよねぇ…」
「っ…」
否定されるとは思っていなかった。
けれど、高園に改めて言われるとちくりと胸が痛んだ。
そして、高園は言葉を続けた。
「奥様はお顔立ちがはっきりされていますし、色白で透明感があります。お化粧しなくても…あぁっ…でも…あの、奥様。不躾だとは思うのですけれど…申し上げてもよろしいですか?」
じっと紬を見ながら言う事は、思っていた事と百八十度違うものだった。
紬を見て、何か言いたそうにもぞもぞしている。
「は、はい…?」
どのような言葉が出てくるのだろう。
不安を抱えながら返事をすると、前のめりで迫られた。
「ぜ・ひっ! お化粧、させてくださいっ…!」
鼻息を荒くさせ、頬は紅潮している。
目は限界まで開けて、ギラギラと輝いている。
紬という、磨けばどこまでも輝きそうな原石を見つけて感情を抑える事ができなくなっている。
「…えっ?」
「お化粧しなくて良いのかもしれない。けれど、お化粧をすればーー奥様、ダイヤモンドになれます…!」
「えっ…えぇっ…!?」
グッとガッツポーズをして確信を得る高園。
対照的に戸惑いを隠せない紬。
「あと、もう家なのですから着替えましょう。洋服をお召しになった奥様も見てみたいです」
そう言えば、衣装部屋の中にあるワンピースを掲げてまた目を輝かせる高園。
「それと、髪も…! 私、女性を綺麗にする術には少し自信がありまして…ぜひ、奥様に施させていただけませんかっ…!?」
尋ねてはいるものの、その勢いに「いいえ」と答えられる空気ではなかった。
勢いに押し負けて、こくりと頷けば満面の笑みになる高園。
「お任せください…! 奥様を能見家の…いえ。誰もが見惚れる奥様ににいたしましょう…!」
高園はそう宣言をして、紬改革に臨む。
☆☆☆
高園に身を任せて小一時間が経とうとした頃。
化粧の為に、紬はそっと目を閉じていた。
「ーー奥様。目を開けてください」
高園がそっと紬に言うと、ゆっくりと目を開けた。
そこに映っていたのは、自分とは思えないほど華やかな女性だった。
(これがーー私?)
化粧をした事により、華やかになった顔。
高級なブランドの若者に流行りのハイカラなワンピース。
髪も整えられ、一つに纏めている髪飾りは紬にぴったりな淡い色のもの。
初めて、鏡でじっと自分の姿を見つめた。
「うん…うん…! やはり、奥様は仕上げ甲斐があります…! 奥様、次はこれなんてーー」
鏡にうっとりとしている紬の姿を何度も頷きながら見つめた。
紬を着せ替え人形のように扱おうとしている。
他の服を手に取り、勧めようとすれば「こほん」と咳払いが聞こえた。
すると、襖の隙間からギロリと光る目が覗いた。
「はっ…!」と声を漏らす高園。
「…高園。お前、何をしているのです」
「ひぃっ…! シ…シマさん…!」
使用人長のシマがドスの効いた低い声で襖から目を光らせて言った。
「奥様、失礼いたしますーー旦那様はお前に、奥様にお部屋の案内をするよう言っただけでしょう。それをまた…」
一言、紬に断りを入れてから部屋に入った。
こんこんと説教が始まれば、先ほどまで活き活きとしていた高園は、シマの前で正座をして小さくなった。
「あ、あの…シ…シマ、さん…」
こんこんと説教をするシマと口を尖らせ不貞腐れる高園。
(私がーーちゃんとしていないから…)
そう思うと、きゅっと拳を握り、意を決して声をかけた。
「はい、奥様。いかがなさいましたか?」
説教しながらも、紬に声をかけられれば凛とした態度に戻るシマ。
「あ、あの…私が、お願いしたのです…高園さんに…その、化粧や服…それに、髪を…」
嘘ではない。
けれど、こう放つのは勇気がいる。
目を泳がせ、伏目がちに伝えればシマは高園の方を見た。
「ーー本当ですか?」
「えっ…いやーー」
高園が自分から申し出ようとしたが、その前に紬が口を開いた。
「ほ、本当です…! 私が、無理にお願いしたのですっ…」
怒られることには、慣れている。
そう思っていたが、シマは短く息を吐くだけだった。
「承知しました。しかし、奥様。お気をつけください。高園は若い娘を捕まえては、自分の玩具のごとく女性を次々に着せ替えますので」
「は、はい…」
「高園。旦那様がお待ちです。ご案内しなさい」
「はいっ」
説教が終わりを迎えると、高園はケロッとしていた。
襖が閉まるや否や、高園は勢いよく紬を振り返った。
「奥様ーっ! なんてお優しいんですかっ!」
紬の前までやってくると、嬉しそうに擦り寄った。
まるで、懐いた犬のよう。
「優しい…? 私が、ですか…?」
優しいと言われたことなど、一度もなかった。
「そうですよっ! もう、ぜーったい! シマさんにめちゃくちゃ怒られると思ってましたもん! 奥様の一言があったから、すぐに終わったんですよっ」
不思議そうに首を傾げる紬に、こくこくと頷きながら言う高園。
「奥様っ」
「はい…?」
「絶対、ずーっとこの家にいてくださいねっ!」
紬に完全に心を掴まれた高園は、くだけた話し方をした。
(ずっとーー私は、他の令嬢のように出ていくのではなく…追い出されるかもしれないのに)
彼女の言葉に、素直に頷く事はできず小さく笑みを浮かべた。
「あっ! またシマさんに怒られる…! 奥様、旦那様のお部屋までご案内いたしますね?」
先ほど受けた命を思い出したようにハッとすると、立ち上がり廊下に出る高園。
その後ろをついて歩く紬。
廊下に出ると、高園はまた口を開き世間話を始めた。
「そういえば、奥様は十七歳と伺っておりますが?」
「は、はい…」
「わぁ…! それでは、私と同じ年ですねっ。私、今年十七になりましたので」
共通点を見出すと、嬉しそうに話す高園。
しかし、紬は否定する為におずおずと口を開いた。
「あっ…いえ。私は、あと数ヶ月で十八になるので…」
「あっ! そうなのですね。それではーー“お姉様”ですねっ」
貴子がニコッと笑って言うが、紬の言葉でビクッと体を震わせた。
華乃の事が頭をよぎった。
ワンピースをぎゅっと握り、脳裏には華乃にされた事がフラッシュバックされ、胸が締め付けられ、動悸が激しくなる。
胸に手を当てて、呼吸を整えた。
呼吸が浅くなり、顔色はみるみる青ざめていく。
(ダメーーダメよ。こんなのじゃ、私…っ)
手には汗をかき、伏目がちになっていると、高園が深く頭を下げた。
「ーーえっ?」
ピタリ、と時が止まったようだ。
「申し訳ありませんーーいくら、奥様がお優しいからとはいえ、失礼な発言でした」
真面目な顔をして、真剣に謝罪する高園。
「そ、そんな…! 高園さん、頭を上げてください…!」
慌てて伝えた。
(私ったら…目の前にいるのは、高園さん…華乃じゃ、ないのに…)
「申し訳ありません…」
「謝らないでください。高園さんは悪くありません…私が、未熟だからです」
笑って話を終わらせようとした。
けれど、紬の眉はハの字で無理に笑っているということは、高園には明白だった。
「奥様…あっ! そうだ…」
表情に翳りのある紬。
高園は思い出したように、コロッと表情を変えて話しかけた。
「今日の朝ごはん、異国から届いた『ソーセージ』という物を食べたのです! 細長く、見た事が無いので食べるのを躊躇ったのですけれど、食べたらすっごく美味しくて!」
「それは…よかったです」
まだ無理して笑う紬。
しかし、この話には続きがあった。
「でも、もう一個食べようとしたら…落としてしまって! あんなに美味しい物、食べられないんだと思ったらすごく…悲しくて、悲しくて…」
肩を震わせ顔を逸らしながら話す高園。
励まそうと高園の方を見るが、彼女は勢いよくパッと振り返った。
「もう…こぉんな顔、しちゃいましたよぉ」
高園は、頬を両手に当てて引っ張り、白目をむいている。
紬を笑わせようと、全力で変顔をしたのだ。
「わっ…! ふ…ふふっ…」
驚いて、目を見開く紬。
けれど、彼女がした表情に思わず笑ってしまった。
「人の顔を見て笑うなんて…ごめんなさい」
謝ったが、高園は楽しそうに笑った。
「いえいえ。笑わせたかったので! 奥様が笑ってくださって良かったです。それとーーここが、旦那様のお部屋です」
話しながら到着した隆臣の部屋の前。
「ーー旦那様。奥様をお連れしました」
「あぁ。入ってくれ」
隆臣の返事を聞けば、紬にアイコンタクトをしてこくりと頷く紬。
「し…失礼いたします」
「あぁ。固くならず、気楽にーー」
紬の声に、文机から視線を上げて紬と視線を合わせると、目を見開いた。
華やかになった顔、可愛らしい流行りのハイカラなワンピース、整えられた髪型。
どこから見ても、名家の淑女。
息をするのも忘れるくらい、麗しくなった紬に見惚れていた。
「まぁ…!」
初めて見る隆臣の表情に、嬉しそうに声を漏らす高園。
しかし、その声で隆臣はハッとして高園に目を向けた。
「…お前。またか」
「えっ!? いや、あの…あはは…あっ! でも、旦那様っ。奥様、喜んでくださって…ねっ!?」
この屋敷の全員が、高園の仕業だと分かる行為。
鋭く目を光らせると、高園がビクッと肩を震わせた。
目を逸らしながら笑い、紬を引き合いに出すため相槌を求めた。
「あ…は、はい…。私には…少し、立派すぎる服だと思うのですが…」
否定的になる紬に、高園が口を挟んだ。
「そんな! とてもお似合いです! 明日からも、私が奥様のお召し物の選定、お手伝いさせていただきますからねっ」
「ーー分かった。高園、紬さんと話があるから外れてくれ」
「はい。かしこまりました」
勢いよくいう高園に、ため息混じりで伝える隆臣。
彼の一声により、襖は閉められて部屋に二人きりとなった。
「申し訳ない。あのように騒がしい者で…あぁ。その辺りにでも楽に座ってください」
「は、はい…失礼いたします」
隆臣が指した方に正座する。
隆臣は、隊服ではなく着物に着替えている。
家での姿を初めて見て、胸が高鳴った。
(やはり、とても綺麗な方ーー私なんかが見ていいわけがないのに)
隆臣の整った顔。
浮世離れした青と緑が混ざり合った宝石のような綺麗な瞳。
無意識のうちに、彼の顔に吸い込まれていた。
「ーー失礼」
そう一言断ると、隆臣は先に視線を逸らした。
じっと見つめすぎてしまい、逸らされたのだと思うと慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません…人様の顔をジロジロと見るなんて…失礼でした」
怒られる、そう思って語尾になるにつれ声が小さくなる。
けれど、隆臣から返ってきた言葉は、意外なものだった。
「あぁ、いえ。俺があまりにも貴女を見てしまったからーーそれで、俺を見ているのかと思いまして」
「えっ…?」
隆臣の言葉に目を丸くし、すぐにポッと顔を赤らめた。
まさか、隆臣に見られていたとは思わなかった。
「紬さん。貴女をお呼びした理由ですがーー先に、お話したいことがありまして」
「お話…?」
紬が小首を傾げると、隆臣は口を開いた。
「今回のーー契約結婚について、です」
紬は、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「契約…結婚…」
紬は声を震わせながら言った。
(そう…よね。私なんかを愛してくれる方がいるわけないのに…何を浮かれていたのかしら)
藤代家から守ってくれた隆臣。
使用人からは、手厚く歓迎された。
高園からは見違えるほど、綺麗にしてもらえた。
だから、勘違いをしてしまったーーそう思うと、恥ずかしくなった。
隆臣の顔を見られなくなり、畳の一点をじっと見つめて膝の上で手をぎゅっと握った。
「その様子だと…伺ってませんか?」
「…はい。でも、大丈夫です。私の事をーー」
『愛して欲しいなんて言いません』
そう続けようとしたが、目の前でパサッと何かが落ちたような音がした。
その音に顔を上げると、隆臣が着物をはだけさせて背を向けていた。
顔だけ紬の方を見ている。
「きゃっ…!」
視界に飛び込んできたのは、鍛え上げられた男性の背中だった。
紬は慌てて目元を両手で押さえ、見ないようにした。
「申し訳ない。変な事をするつもりではなくーー見てもらった方が早いと思いまして」
「み、見てって…! な、何を見るのですか…!」
そういう癖でもあるのかと思い、紬は顔を真っ赤にして嫌々と首を横に振った。
「このーー呪術です」
その言葉に、紬の動きはピタリと止まった。
「呪術…?」
「はい…我が能見家は、『精神干渉』という異能の中で特別とされている力を持つ代わりに、代償があります。それが…これです」
そう言って、彼は背中を晒したまま話した。
紬はゆっくりと、指の間に隙間を開けてそこから確認した。
けれど、恥ずかしさなどすぐに消え去った。
目に入った呪術がーーあまりに痛ましく、彼を苦しめているように見えたからだ。
「こ、これ…! 痛い…のですか…?」
まるで、意思を持っているかのように、刻まれた呪術の中でドクドクと何かが動いている。
「いえ。痛みはないのですが…というより、これを見て第一にそれですか?」
くすくすと笑う隆臣に紬は小首を傾げた。
見せられた呪術は、グロテスクで生々しい。
内臓が飛び出ていると言っても、信じるものがいそうだ。
「えっ…? だ、だって…火傷、のようにも見えますし…」
「これを見て、逃げ出す令嬢もいたというのにーー随分と肝がすわっている」
目を細めて笑う隆臣。
「それは…私がおかしい…のでしょうか…?」
「いえ。おかしくなんてありません。俺からすれば、都合がいいだけです」
「おかしくない」と言われたことが嬉しくて、胸を撫で下ろした。
「話を戻します。この呪術てすが、ある一つのことをすれば解消します」
「一つのこと…?」
小首を傾げれば、隆臣はこくりと頷いて着物を整えて紬に向き直った。
「えぇ。それがーー結婚です」
「結婚ーーあっ」
納得しかけた時、どうにもならない壁を思い出して声が漏れた。
「どうしました?」
「あの…私、まだ十七歳で…結婚、できません…」
きゅっと服を握った。
早くても、十八歳にならなければ婚姻を結ぶ事ができない。
(私ーー捨てられるの、かな…)
不安できゅっと唇を噛み締めていると、ふっと柔らかく笑う声が聞こえた。
「安心してください。それは俺も分かっています」
「えっ…? それなら、どうして…?」
十八歳になるまで待てばよかったはずなのに。
隆臣の言葉に、小首を傾げると突然真面目な顔をした。
「それはーー貴女の異能に関係しています」
「異能…?」
心当たりがない言葉に、首を傾げた。
紬は十七年、『妾の子』としてだけでなく治癒の名門、藤代の血を継いでおきながら異能を持たない『無能』として蔑まれてきた。
それが染み付いた彼女に、隆臣の言葉は自分とは別の誰かの話をしているようにしか思えなかった。
「あの…それ、私ではありません」
首を横に振って否定するが、隆臣は言葉を続けた。
「いえ。貴女で間違いない」
「でもーー!」
「これも、実践して試した方が理解してもらえそうだ」
隆臣は紬の言葉を遮ると、手のひらに力を集めた。
すると、彼の手の中には多数の桜の花びらが現れて風に舞っている。
「少し手荒ではありますが、怪我をすることはありません」
「な…何をっ…!」
断りを入れると、花びらが舞い上がる手のひらを紬に向けた。
すると、花びらは紬に向かっていった。
勢いと無数の花びらに紬は思わず身を縮め、ぎゅっと目を閉じた。
何が起こっているのか、一切分からなかった。
「…紬さん」
「っ…」
隆臣から声をかけられるけれど、声を漏らすだけだった。
「…目を開けてください」
「っ、そんな、こと…」
どうなるか分からない恐怖から、首を振って拒んだ。
「異能、使っていますよ」
信じられない言葉に、ゆっくりと目を開けた。
そして、目の前で起こっている現象に息を飲んだ。
「えっ…?」
花びらは紬に当たることなく、見えない壁のようなものに弾かれている。
その光景を紬に確認させると、隆臣は花びらを舞わせるのをやめた。
「申し訳ありません。確かめるためとはいえ、突然このような事をして」
隆臣は紬に頭を下げ、言葉を続けた。
「これ…私が…?」
信じられない光景に、息を呑む紬。
「えぇ。貴女のその異能ーー『無効』です」
「えっ…!? そ、それって…!」
異能を持たないとされ、勉強をしていない紬でも知っている特別なもの。
「そうです。異能の中でも特別なものとされる二つのうちの一つ、無効です」
「っ…!」
驚きのあまり、思わず自分の手をじっと見つめた。
「あの日、初めてお会いした噴水の前…覚えていますか?」
「えぇ…あっ!」
隆臣の言葉に頷くと、思い出したようにポケットからあの日借りたままのハンカチを取り出した。
「あの日は、本当にありがとうございました」
「これ…持っていてくれたんですか?」
「はいっ…まさか、またお会いできると思っていなくて…お返しできて、よかったです」
丁寧にハンカチを渡されると、隆臣は目を細めて笑みを浮かべた。
「やはり、貴女で良かった」
「えっ…?」
紬が小首を傾げると、隆臣は言葉を続けた。
「今日から、よろしくお願いしますーー紬」
「はい…旦那様」
籍はまだ入れられない。
けれど、この日から二人の夫婦生活は始まった。
偽りの契約から始まるその日々が、やがて互いにとってかけがえのない愛へと変わっていくことを、まだ二人は知らない。

