ワケアリ当主様との契約結婚 〜生贄婚と呼ばれる治安軍最強の軍神の元で、本当の愛を知りました〜


翌日、紬は昨日のことが頭から離れず、心ここに在らずという状態だった。

ーーガシャンッ!

流し場で洗っていた湯呑みを落とせば、大きな音が響いた。

「何やってんだい! この愚図!」

落としたのが、紬だと分かればボスの怒号が飛んだ。

「も、申し訳…あっ」

謝り、割れた湯呑みの破片を集めようと手を伸ばせば切ったしまった。
じわり、と指先から血が滲む。

「チッ…ほんと鈍臭い…外からほうき! さっさととってきな!」

紬に起こった事に、険しい表情で怒鳴りつけた。

「…はい」

紬は小さく返事をし、指から血が滴るのに構う事なく裏庭の蔵へ向かった。
蔵に行くまでには、井戸がある。
井戸を見るとーー昨日のことを思い出してしまう。
ふと、足を止めると「紬様」と、呼ばれた。
誰かから様をつけて呼ばれるのは、滅多にない。

「はい…?」

声の方を向けば、宗近の側近として仕える男が立っていた。

「当主様がお呼びです」
「…私を、ですか?」

尋ねると、こくりと頷き案内をする男。
父に呼ばれるのは、初めての事だ。
何だろう、と首を傾げながら、案内されるまま後をついていった。

「当主様。紬様をお連れしました」

襖越しに男が声をかけると、中からは「…入れ」と宗近の声がした。
襖を開けると、中には宗近、桂子、そして華乃が既にいた。
最後にやって来た紬が入ってすぐの場所にちょこん、と座れば宗近はすぐに口を開いた。

「紬。お前に縁談が来ている」
「えっ!?」
「はぁっ!?」

紬は驚いて声が出なかった。
しかし、紬以上に驚いて声を上げたのは桂子と華乃だった。

「この女に…!?」

桂子は目を丸くした。
しかし、宗近は話を止めることなく続けた。

「結納金は、相場のーー五倍、払うそうだ」
「ご…五倍!? お姉様にそんな大金を払うなんて…物好きな方もいるのねぇ…」

驚きながらも、笑顔を崩さないようにする華乃。
しかし、頬がぴくぴくと引き攣っている。

「嫁ぐのは明日だ。紬、良いな。明日の昼前に先方が迎えに来る。準備をしておきなさい」

ここまで、紬の意見や話は誰も聞かない。
ただ、決まった事を淡々と話すだけ。

「あらぁ…随分と急ぐのね。それってもしかして…お姉様に早く世継ぎを生んで欲しいと思っているとか?」

クスクスと小馬鹿にしたように笑いながら言う華乃。

「まぁ。華乃ったら、はしたない…でも、妾の子だから…男の扱いは上手いんじゃない?」

桂子は扇子で自分の口元を隠しながら、目で笑った。

「明日嫁ぐようおっしゃってるなら…よほど、早く結婚したい不男かしら?」
「ふふっ。まだ見ない方の事そんな風に言ってはいけないわ。こんな女に結納金を相場の五倍…金だけはあるようね?」
「明日が楽しみっ…ね? お姉様?」

桂子と華乃がバカにしながら言う。
紬はただ、誰とも目を合わせる事なく畳の一点をじっと見つめて着物をきゅっと握った。

「…分かりました」

三つ指ついて頭を深く下げてぼそりと呟けば、それ以上は何も言わなかった。

「よかったわねぇ、お姉様! お姉様でも嫁ぎ先が見つかるなんて!」
「そうねぇ。感謝しないと。すぐに追い出されるんじゃないわよ? 妾の子とはいえ、藤代家の子…この家の顔に泥を塗らないでちょうだい」

クスクスと笑いながらそう言い捨てると、桂子と華乃は部屋から出ていった。
襖が閉まった後も、廊下からは二人の楽しげな笑い声が聞こえた。

「それと、紬」
「…はい」

宗近に呼ばれると、ゆらりと顔を上げた。
顔を上げると、紬の前には見事な藍色の着物が置かれていた。

「明日、お前は藤代家の娘として嫁ぐんだ。今のような、みっともない格好でわざわざ来てくれる相手を迎えていいわけがないだろう」

父はそう吐き捨てるように言うと立ち上がった。

「それと、今日はもう家のことはいい。荷物をまとめておきなさい」

それだけ付け加えると、部屋から出た。
その態度はまるで、『さっさと出て行け』と言わんばかりだ。

紬は、着物をぎゅっと大事そうに抱きしめた。
今、着ているのは古着同然ではあるがーー母が着ていたもの。
紬は上等な着物なんて、一着も持っていなかった。
そして、父に召物について言及されたのは初めてだった。
これまで、どれだけ身なりが悪くても何も言われなかった。

他所へ娘を出す為に、整えさせるというのは父の体裁のためだろう。

ーーそれでも、新しい着物を貰えたのは嬉しかった。

「荷物なんて…そんなもの」

思い出として持っていきたい物も、ほとんどなかった。

父に言われた通り、自室に戻って荷物をまとめた。
部屋は、日当たりが悪く日中でも電気を点けなければ真っ暗になる。
広さは三畳程度で、布団を敷けばスペースはほとんどなくなってしまう。
ここは、紬が使う前に物置として使われていた。
そんな所に、物を置ける場所は少ない。
小さな風呂敷一枚で荷造りが完了した。
しかも、その風呂敷も随分と軽く、持ち手に余裕がある。

(明日ーー私は、どのような方のところに嫁ぐのだろう…)

ぼんやりと壁のシミを見つめながら、考えていた。

そして迎えた翌日。
紬の内心は、不安ばかりであまり眠りにつけなかった。
それでも、時間は刻一刻と迫っている。
貰ったばかりの着物に身を包んでみるけれど、似合っているのか分からない。
髪も見よう見まねで結ってみたけれど、これもーー。

狭い自室の隅に座り、膝の上で手をもじもじと動かした。

そして、昨日隆臣から借りたままのハンカチを着物から取り出し、ぎゅっと握った。
あれほど優しくされたのは、初めてだった。

(…いつか、お返ししなくちゃ)

そう思い、大切に懐へしまった。
ふわりと、どこか落ち着く香りがした。

「紬様」

襖から女性の声が聞こえると、紬の肩がビクッと震えた。
襖をゆっくりと開ければ、そこには昨日まで同じように仕事をしていた使用人がいた。

「そろそろお見えになるそうです。客間の方へお越し下さいと、当主様より仰せつかりました」
「…わかりました」

使用人の言葉に、こくりと頷けば荷造りした風呂敷を持って客間の方へ向かった。
そこには、すでに桂子と華乃が座っていた。
紬が入ると、頭のてっぺんから爪先まで品定めするようにじっと見た。

「アンタ、そんな着物を買う金なんてなかったでしょ? 男にでもねだったのかしら?」

桂子が、口元を扇子で隠しギロリと睨みつけながら言う。
怯えている紬は、小さく首を横に振った。

「もう、お母様ったらぁ…でも、たしかに。そのお着物…お姉様には似合わないんじゃないの?」

くすり、と笑えばすっと立ち上がる華乃。
貼り付けたような笑顔を浮かべる彼女が一歩、また一歩と近付けばそれに合わせて退く紬。

「っ…!」

しかし、部屋には限りがある。
トン、と紬は壁に当たった。

「逃げることないじゃない…お姉様に似合う格好にしてあげる…そう思ってるだけよ?」

そう言うと、テーブルに置いてあった裁ち鋏をチョキチョキと音を立てて紬の喉元数センチのところまで近付けた。
ごくりと生唾を飲み、一筋の冷や汗が首元を伝う紬。
鋏の切っ先が、ゆっくりと紬の胸元へ近付いていく。

その瞬間ーー。

「や、やめてっ…」

紬が体を捩らせると、華乃の体に触れ尻餅をついた。
鋏は宙を舞い、桂子が座っている畳の数センチのところにぐさり、と深く刺さった。

「っ! 危ないじゃない!!」

その言葉は、華乃ではなく紬に向けられた。

「いっ…たぁい…! 何するのよ…!」

畳に横たわる華乃が、鋭く紬を睨む。

「あっ…ご…ごめ…っ」

華乃に謝ろうとしたが、それよりも先に桂子の扇子が紬の頬を殴打した。

「あっ…!」

細い紬の体が殴られた方向へと転ぶ。

「本当憎たらしいっ! 華乃のことを突き飛ばして…許せない!」

桂子の誤った見え方により、もう一度扇子で殴られそうになった瞬間ーー。

「紬様。お見えになりました。玄関の方へお越し下さい」

襖越しに聞こえる使用人の声。
紬よりも先に華乃が答えた。

「えぇっ? ここまで上がるんじゃないの?」
「先方が、迎えに来ただけだから玄関で良いーーとの事です」

使用人の返事に、機嫌悪く舌打ちをして再度紬を睨みつける桂子。

「当主様より、早くするようにーーとの事です」

宗近の言葉を代弁する使用人に、また舌打ちする桂子。

「まあまあ、お母様。良いじゃないですか。そのウサはお姉様の不男な縁談相手で晴らせば」

くすくすと意地の悪い笑みを浮かべる華乃。

「…それもそうね。ほら早くしな」

苛立ちから早口で紬に言うと、紬はこくりと頷きゆっくりと立ち上がった。
襖を開け、使用人、紬と続きその後ろに華乃と桂子が並んで歩いた。

玄関へ向かう廊下でも、桂子は扇子で背を小突き、華乃は何度も足を掛けた。

そして、玄関に立つ男性ーー彼に、皆目を奪われた。

「先日ぶりですね。紬さん」

つい一昨日に話した隆臣が玄関に立っていたのだ。
にこり、と爽やかな笑顔を浮かべて紬に一礼する彼。

「えっ…能見…様…?」

目を丸くして、確認するように名前を呼ぶ紬。

「覚えててくださったのですねーー良かった」

忘れられるはずがなかった。
話を続けようとしたけれど、割って入ったのは紬以上に驚いている桂子だった。

「能見…って、あの…精神干渉の異能を持つ…!?」
「えぇ。俺は精神干渉の異能を使えます。けれど、まだ若輩者でして。それじゃあ紬さん。参りましょうか」

桂子との話を切り上げ、紬の方に視線を向ければ「は、はい…」と控えめに返事をして一歩前に出た。
しかし、簡単に屋敷を出る事はできない。
紬の後ろにいたはずの華乃が身を乗り出すと、進路を妨げた。

「待って! どうして能見様がお姉様と…!?」

普段、客人の前で取り乱す事など絶対にない華乃。
しかし、『能見 隆臣』という、雲の上のような存在の彼が見下していたはずの姉を迎えに来たという事実に抵抗をしないわけにはいかなかった。

「縁談を受け入れてもらったからです。あの、紬さんがこちらへ来られませんから… その手を、離していただけますか」

華乃に優しく言うが、引き下がる事はない。

「ねぇ、お父様ーーこの縁談。アタシが受けても良くてよ?」
「…はい?」

華乃の言葉に、笑顔の隆臣の眉がぴくりと動いた。

「華乃。これは、紬に来た縁談だ」

静かに断るが、華乃はそれに引き下がるような令嬢ではない。

「それは、アタシが当主になる為ーーでしょう? 能見様の話は聞いた事があるけれど、これほどのお方なら…アタシの方がふさわしいわ。お姉様だって…妾の子ではあるけれど、長女だもの。当主の座を虎視眈々と狙っていたのでしょう?」

ふふん、と得意げに言う華乃。

(…そう。きっと、能見様だって…)

華乃の言葉に、強く否定できるほどの自信など持ち合わせていなかった。
伏目になり、俯いて手をぎゅっと握った。

隆臣が短く息を吐くと、きゅっと目を瞑った。

やっぱり、私なんてーー。

心がもう持たない。
壊れてしまいそうだった。

「…先程から戯けた事ばかり抜かす喧しい娘だ」

隆臣の声がワントーン下がり、物言いも雑になった。
前髪をかきあげながら、ボソリと呟いた。

「えっ…?」

優しい彼から出た言葉に、思わずパッと顔を上げる紬。
場の空気が氷のように冷たくなった。

「の…能見様…?」

隆臣のただならぬ空気に、この家で一番偉いはずの宗近の声が震えた。

「俺は紬さんに縁談を申し込んだと言っている。貴女ではない」
「なっ…!」

初めて向けられる男性からの冷たい言葉に、華乃の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「…さぁ、参りましょうか」

再度、紬に声を掛けると、紬はこくりと頷いて近付いた。

「の、能見様! お姉様なんかを妻にしたら…能見家が没落するなんて、時間の問題よ! ほらっ!」

紬が下駄を履こうとすれば、なおも負けじと華乃が声を張り上げた。
先程絡んだ際、畳に擦れて出来た小さな傷を見せた。
家の不吉な未来について言われると、隆臣の視線が一層険しくなった。

「…おい。物の言い方には気を付けろ。紬さんの家族だから堪えているが、違えば名門だろうとなんでも地に落とすぞ」

ドスの効いた声で言うと、隣に並んだ紬の肩を優しく抱く隆臣。
男性の強い力に抱かれると、紬の体は隆臣にもたれかかる形となった。

「その暴力女が付けた傷ですよ! これ! 気に入らない事があればすぐに手を出す! 本当…嫌な女なんです!」

隆臣が傷について触れない為、自ら言う華乃。
しかし、隆臣はフッと鼻で笑った。

「バカバカしい…そのようなもの、唾でもつけておけ」
「なっ…!」

隆臣の返しに、目を丸くした。

「それに、暴力女と申したが…言う相手、間違えているのではないか?」

隆臣はそう言うと、桂子の方に視線を向けた。

「っ…」

突然のことに言葉が出ず、視線を逸らす桂子。

「な、なによ…! お母様が何をーー!」
「俺を侮るなよ」

華乃の言葉を遮った短く、迫力のある言葉に緊張感が走った。

「お前。俺の事を知っているようだな?」

華乃に確認すると、こくりと頷いた。

「え? えぇ…そもそも、能見家を知らない異能の家なんて…」
「それなら、俺が精神干渉ーー他人の心を読み、記憶も辿れるということーー知った上で、先ほどから戯けた事を抜かしているのか」

隆臣に精神干渉の効力について触れられると、ビクッと体を震わせる華乃、桂子、そして宗近。
三人とも、これまでの紬への行いで心当たりがあるからだ。

「これで分かっただろう? お前のような小賢しい手解きをする女を嫁に迎えるほどーー俺は、愚かではない」
「っ…!」

悔しそうに奥歯をギリッと噛み締める華乃。

「それと、当主殿」

隆臣が宗近に声を掛ければ、「は、はい…?」と小さくなりながら答えた。

「名門と呼ばれているが…落ちたものだな。紬さんを蔑ろにするとは」
「…は?」

隆臣の言葉の意味が分からず、眉間に皺を寄せる宗近。
特に言及する事なく、隆臣は紬を連れて出て行ってしまった。

「何よあれ!」
「本当…! ちょっと顔がいいからって、あんな失礼な態度! あれが、嫁を貰いに来た男の言い方!?」

隆臣達が出て行った後、華乃と桂子が地団駄を踏みながら言った。

「…もう放っておけ。まだ先を入れていないが、結納金は貰った。金で厄介払いが出来たと思いなさい」
「あなた…!」
「もうよせと言ってるんだ…! 能見家への悪い事など…誰が聞くか分からん」

初めて宗近に怒鳴られた事で、悔しそうに唇を噛み締める桂子。
宗近は何事もなかったかのように、茶の間へ行った。

「でも、お母様…能見家って…良い話ばかりではないじゃない?」
「まぁ…ねぇ?」

二人でくすりと悪い顔をして笑う。

「あそこ、前々から色々な家の令嬢が行っているけれど…みんな、逃げ出すみたいじゃない?」
「ふふっ。そりゃあ、そうでしょ! さっきので確信したわ。あんな男、性格悪すぎ! お姉様にピッタリじゃない!」

ニコニコと上機嫌に言う華乃。
そして、さらに言葉を続けた。

「生贄婚…って、言われてるそうよ。お姉様…何日持つのかしら?」
「一度嫁に出た女に、帰る家なんてあるものですか…家に入れるわけないでしょう?」
「やだ〜。お母様ったらひどーい! アタシ、後で一真さんに話を聞いてもらおっと!」

玄関に響く下品な笑い声など、能見家へ向かう紬の耳には届かなかった。