「一真さん?」
華乃の声に、二人の体がビクッと反応してパッと離れた。
数ヶ月後に結婚の約束を控えていても、まだお互い独身。
婚前に、男女が庭で逢瀬をするなど他の者に知られるわけにはいかない。
「やぁ、華乃ちゃん」
華乃の顔を見ると何事もなかったかのように、にこりと柔らかい笑みを浮かべて挨拶をする一真。
「あら…お姉様も一緒? 何をなさっていたの?」
一真を見る目が、うっとりとしている華乃。
一真は、整った顔立ちをしている。
他国の男性を思わせる様なハイカラでお洒落なスーツがよく似合う背格好。
街でも評判の色男だ。
華乃も彼をよく思っている女性の一人だ。
しかし、すぐ近くに紬がいる事に気付くと顔は笑っているけれど、目は笑っていない。
今すぐ離れろと言わんばかりの視線だ。
「いえ…何も」
視線を逸らしながら言うと、「ふぅん…」と納得していなさそうに答える華乃。
「そうだわ! アタシ、一真さんと話したい事が…きゃあっ!」
一真に近付こうとした瞬間、華乃は紬の足元に目を落とした。
「っ…!」
華乃は何事もなかったかのように笑うと、一真へ駆け寄った。
紬の足を力任せに踏んづけたのだ。
鈍い痛みに、声にならない声を上げる紬。
しかし、それ以上に派手に転んだ華乃の方に一真の視線は向いた。
「だ…大丈夫…?」
一真がしゃがみこみ、華乃に声をかけると大きな瞳からはポロポロと涙が溢れていた。
「うぅっ…痛いわっ。お姉様ったら、酷い…!」
「…えっ?」
覚えのない言いがかりをつけられ、きょとんとする紬。
わんわんと泣く華乃の背中をさすりながら、おずおずと紬を見上げる。
視線が合えば、紬は首を横に振った。
「今…っ。今、お姉様に足をかけられたのっ!」
「ち、違いまーー」
全てを否定する前に、「華乃様っ!?」と慌てた声を上げる使用人達。
泣いている華乃を見て、何人もかけつけてきた。
「きゃっ…」
近くにいる紬を手で押し退ければ、軽い体は簡単に突き飛ばされ尻餅をついた。
華乃の周りには、あっという間に人だかりができた。
突き飛ばされた紬は一人、手をついた際に擦りむいて出来た傷がじんじんと痛んだ。
「お姉様がね、ひどいのっ…! アタシの事、足をかけて…うぅっ…ほら、見て!」
鼻を啜りながら傷を見せ、訴えかける華乃。
その傷を見て、華乃を労る使用人達。
そして、ギロリと鋭い視線を向けられる紬。
「紬! アンタ、何をしてるのさ!」
使用人の一人が怒鳴りつけると、紬の胸はきゅっと締め付けられた。
「待って…! お姉様を、責めないで」
紬が弁明しようとしたが、喉がきゅっと閉まって声が出ない。
先に口を開いたのは華乃だった。
「仕方ないわ…だって、お姉様ーー妾の子だもの…本妻であるお母様の子であるアタシの事、憎くてたまらないの、分かるわ…」
「違…」
ようやく声が出た頃には、完全に出来上がっていた。
『気に入らない妹をいたぶった姉』という姿が。
使用人達は目尻を吊り上げて、紬を睨み付ける。
「紬…キミーー」
「っ…!」
一真にさえ、疑われているような気がした。
名前を呼ばれただけで、肩を震わせると紬はその場から逃げた。
痛む足を引きずりながら、懸命に歩いた。
「紬っ!」
「いいのよ…アタシは、みんなに分かってもらえたら」
健気な妹のフリをして、涙を誘う痛々しい華乃の姿。
ただ一人、一真だけは紬の後ろ姿を目で追っていた。
「紬…」
ぼそりと呟くが、華乃にはその声が届いていた。
「っ、一真さん! アタシ、足が痛いの。治療、手伝ってくださる?」
「え? いや、キミは自分でできるだーーいや、なんでもない」
藤代家の次女として生まれた華乃の実力は、十六歳にしてすでに当主と同等と言われている。
そんな彼女が、自分で手当てができないわけがない。
一真は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「っーー」
擦りむいた手も、体重をかけられて踏まれた足も、心も、全部痛い。
いつもなら、なんて事のない出来事。
けれど、今回はーー意中の一真の前で悪者に仕立て上げられた。
こんな事をされれば、きっと。
井戸から離れた噴水の所までやって来ると、水面に映る醜い自分の姿を見て、はらりと一筋の涙が頬を伝った。
「…こんなのじゃあ、私」
口元は切れ、頬は赤く腫れていた。
着古した着物は何度も繕った跡があり、長い髪も作業で乱れている。
痩せ細った体は、とても名家の令嬢には見えない。
そもそも、一真と恋仲になるのすら烏滸がましいのではないか。
心の中が真っ黒になりかけた時。
水面にもう一つ、人影が映った。
「ーーもし。そこのお方」
低い落ち着いた声音で声をかけられた。
声のする方を見ると、紬は目をまん丸にした。
何色にも染まらない漆黒の隊服に身を包み、腰には刀を携えている。
胸元にはたくさんの徽章がついていることから、役職の高い事が予想される。
すらりと伸びた手足に、鍛えている事で逞しく見える肉体。
そして、思わず息を振るのを忘れそうになるほど吸い込まれそうになるーー思わず見惚れてしまうほど整った顔立ち。
軍人を見るのも、これほど綺麗な男性を見るのも初めてな紬は流していた涙もぴたりと止まった。
「…申し訳ない。込み入っていたとはつゆほども知らずーー」
男性を見つめており、返事をするのを忘れていた紬。
しかし、彼は紬が泣いていたから話せないのだと思うと申し訳なさそうな顔をして目を伏せた。
しかし、紬が慌てて口を開いた。
「い、いえっ…!」
慌てて涙を手で拭えば、パシッと紬の手を掴む男性。
その瞬間、男性は目を見開いて固まった。
まるで、ここだけが時間が止まったようだった。
けれど、それは数秒後にはパッと手を離した。
「ーー擦るのは、よしなさい。目元、冷やした方が良さそうですね」
そう言うと、胸ポケットからハンカチを取り出して躊躇う事なく、噴水に浸けた。
水が滴らなくなるほどに絞れば、紬に差し出した。
「い…いえ。そんな、軍人様のハンカチを使うだなんて…」
首を横に振り一歩退いて断る紬。
「構いません。軍人様、ですか。そんな呼ばれ方は慣れていません」
紬の背丈に合わせて少し屈む男性の目が紬を捉えて離さない。
「も、申し訳ありません…っ。私のような者が…失礼な呼び方でした」
慌てて深く頭を下げて詫びる紬。
しかし、頭上から聞こえたのは小さく、くすりと優しく笑う声だった。
「ーー失礼。言葉足らずでしたね。あくまで俺は、國民を護るために働いている立場で、國民の貴女に崇められるつもりはない、と言いたかったのです。能見 隆臣と申します」
「能見…様?」
ぼそりと呟く紬にこくりと頷く隆臣。
ただ、その名前と職業に一つの噂を思い出した。
(まさか、あの…? いいえ…雲の上の存在のような方が、私などと話すわけーーないもの)
視線を落とした事で、紬の足の違和感に気付くとピクリと眉を動かした。
「足、痛むでしょう」
隆臣に言われれば、使用人達に疑われた事もあり、一歩退いて隠すような素振りをした。
しかし、それにより足に体重がかかり痛みが増した。
「っ…あっ…!」
噴水の淵が紬の膝裏に当たり、よろけて噴水に落ちそうになった。
「危ない!」
隆臣はそう言うと、紬の手をぎゅっと握り、自分の方へ引き寄せた。
鍛えられた厚い胸板に紬がもたれかかる形となり、腕の中に収まった。
隆臣は紬の体勢を確かめるように支えると、尋ねた。
「…ご令嬢。お怪我はないですか?」
声のする方を見上げれば、隆臣とかなり近い距離で見つめ合った。
同時に、紬の顔は茹蛸のように染まった。
「もっ…申し訳ございません…! わ、私っ…その」
「…足、痛むのでしょう。そちら、掛けてください」
紬の反応とは対照的に、隆臣は落ち着いていた。
(私ったら…これだけ素敵な方だもの…女性の扱いにだって、慣れてるに決まっている…)
自分だけが意識しているのが恥ずかしくて、何度も心の中で言い聞かせた。
「ーー失礼」
噴水の淵に腰掛させると、紬にそう声をかけた。
紬が座ると、隆臣は跪いた。
そして、怪我をしている方の足にそっと手のひらをかざした。
じっと数秒、そのままの体勢でいる彼にきょとんと小首を傾げた。
「…やはり、貴女はーー」
少しして顔を上げたその表情は、何かを確信したようだった。
話そうとした瞬間。
「当主様」
隆臣の背後から声をかける長身の男性。
「お話中、申し訳ありません。藤代様のご用意が整ったようですので、参りましょう」
「あぁ…だが、その前に」
家臣に返事をした後、再度紬の方を見た。
「ご令嬢。お名前を伺ってもよろしいか?」
「は、はい…紬、と申します」
名前だけ伝えれば、眉間に皺を寄せて小首を傾げる隆臣。
「差し支えなければ、姓も伺いたいのだが?」
「っ…それは…その…」
『妾の子』『いやしい』『藤代の娘だと思われるのが恥ずかしい』ーーこれまで散々言われてきた。
戸籍上は、藤代家の長女である。
けれど、それを名乗る事を禁じられているーーそんな暗黙の了解があった。
口に出来ず、もじもじとしていた。
けれど、恐る恐る視線を隆臣と合わせれば、真っ直ぐ見つめるその瞳から、目を逸らすことができなかった。
少し時間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「ふ…藤代…です…」
語尾になるにつれて虫の鳴く声のように小さくなり、震える声。
治癒の名門・藤代家に、自分のようなみすぼらしい令嬢がいるなど思われない。
苗字が同じだけーーそう思われるに決まっている。
自信のなさから、膝の上で着物をきゅっと握った。
「藤代家のご令嬢ーーということでよろしいですか?」
「っ…」
尋ねられても、声にすることはできずこくりと頷いた。
(何て…おっしゃるのかしら…)
これまで卑下された言葉ばかりが、頭をよぎる。
この人だって、きっとーー。
そう思ったが、隆臣が口にしたのは意外な言葉だった。
「…さすがは名門のご令嬢だ」
「えっ…?」
「貴女とは、また会える事を願っています」
隆臣が目を細めて笑った。
その言葉に、紬は息を飲み目を丸くした。
「いや。ぜひ、またお会いしたい」
立ち上がり「今日はこれで失礼」と紬に頭を下げた。
(おかしな方…ダメダメ。私なんかがそんな事を思うなんて…あっ)
これまで受けた言葉の中で、一番意外なものに呆然とした。
しかし、ハッとするとかれのハンカチを持ったままな事を思い出した。
けれど、隆臣と家臣は屋敷の中へ入っていってしまった。
「一真さんからもハンカチをお借りしたまま…後日お返しする事、お伝えしないと」
噴水の淵に腰掛けてしばらく経つと、足の痛みが引いた。
地面をトントンと踏み、立ち上がると井戸の方へ向かった。
きっとまだ、いるはずーーそう信じて。
「ーー、ーー…」
井戸の方へ向かえば、話し声が聞こえた。
ひょっこりと井戸の方を覗くと、見えた光景に目を丸くした。
「…えっ?」
そこには、一真と華乃が二人で仲睦まじく話しているだけでなく、指を絡めてしっかりと手を握っている。
まるで、恋人のよう。
「ねぇ。一真?」
呼び方も、紬の前で呼ぶ時よりも親しげだった。
「どうしたんだい。華乃」
それは、一真も同じだった。
「本当に…お姉様と結婚するの?」
華乃が尋ねると、くすりと笑った。
「あぁ。そのつもりだけど?」
その言葉を聞くと、紬の胸はほっと落ち着いた。
きっと、目の前に映る光景は何かの間違い。
そう違いないと思った。
「どうして…っ。アタシ達は、愛し合ってあるのに!」
声を荒げ一真をじっと見る華乃。
すると、華乃の顎を捉えてそっと唇を重ねた。
「だからそこ、だ」
「えっ…?」
一真の言葉に小首を傾げる華乃。
「俺が紬を妻に迎えれば、次期当主は華乃になるだろう?」
「そんなの…っ、今だって! お姉様は無能だから! 当主になんて、なれるわけがない! それに、妾の子よ! あり得ないわ!」
理由にならない、と声を荒げる華乃。
「ふっ…それもそうだ。俺だって、家の後継として勤めを果たさねばならない…それは、分かってくれるか?」
華乃の反論に、笑みを浮かべながら答える一真。
「それは…っ」
お家騒動が話題に上がると、何も言えなくなる華乃。
家を繁栄させることの大切さは、次期当主の彼女も知っているからだ。
「お互い、違う伴侶を迎えたって上手くやれるさ。特に俺は…紬だぞ?」
どくん、と胸が大きく鳴った。
結婚前から不貞を考えている彼をおぞましくも思った。
「ふふん。それもそうね…? お姉様だもの」
そう告げると、二人はまた唇を重ねた。
ーーパサっ
「っ、誰だ!」
紬が一真のハンカチを落として微かに出た音に、一真が反応した。
「っ…」
紬は落としたハンカチを拾うことなく、二人に見つかる前に駆け出した。
(うそ……そんな、うそ……)
紬の頭には、先ほどの光景が脳裏に焼き付いて離れなかった。
ここに、紬の味方なんてーーいなかったのだ。

