背の高い木々に囲まれた緑豊かな土地。
そこは、帝都中心部から少し外れており閑静な住まいではあるけれど、生活に不自由しない便利な場所。
しかし、そのような場所の一角にある高い塀に囲まれた屋敷・藤代邸では、穏やかでない日々が続いていた。
「ちょっと! 何を見てるの! 気持ち悪いわねっ!」
ドアからひょっこりと顔を出している長女、紬に怒鳴りつけるのは継母の桂子。
紬の肩はびくっと跳ね上がった。
「もっ…申し訳ございません…お茶をお持ちしたのですが…」
震えた声で怯えながら言うと、桂子の話し相手であり紬の二つ下の妹、華乃が振り返った。
「あら。それなら早く持ってきて下さらない? お茶が冷めるでしょう?」
ニコッと柔らかく笑いながら言うが、目は笑っていない。
「は、はいっ…あぁっ…!」
二人の元へお茶を運びに行くと、手前側にいた華乃に足をかけられて派手に転ぶ紬。
盆から手が離れてしまうと、ガチャン!と音を立てて割れるティーカップ。
カップから溢れた茶が、桂子の白い毛皮のスリッパを茶色く染めていく。
「あらあら…」
母を憐れむように言うけれど、目尻を下げ口角は上がって笑いを堪えている。
まるで、これから何が起こるか分かっており、期待しているようだ。
「もっ…申し訳ありません…! あの、お召し物…は…」
割れた破片より先に、桂子の足元を見た。
慌てて顔を上げると、桂子の目尻は吊り上がり歯をギリッと噛み締めていた。
その表情を見ると、体が小刻みにカタカタと震えて何もできなくなってしまう紬。
「何するのよ! アンタ…わざとでしょう?」
「えっ…! ち、ちがっ…!」
桂子が決めつけ、紬が否定するより先にテーブルに置いていた扇子で力任せに頬を殴った。
紬の細い体は、殴られた方向へ横たわった。
話している途中でぶたれたことにより、紬の口の中は切れて鉄の味が広がる。
「お姉様? いつまで寝てるの? 早くそれ、片付けてくださらない?」
横たわる紬の頬へ、そっと足を乗せる。
そして、そのままぐっと力を込めた。
「ぐっ…」
起きあがろうとしても、華乃の足がそれを阻止する。
まるで、弱った虫のように悶える紬。
「本当気味の悪い…いつまでいるのよ。妾の子のくせに!」
紬の頭上から聞こえる桂子の暴言。
「っ…」と息を漏らしてじんわりと目を潤ませる紬。
(そんな…っ。お母様は、私を生んだせいで…亡くなったっていうのに…!)
声には出来ないけれど、自分が生まれた事で亡くなった母を思い、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「お前達。何をしている」
二人が紬をいたぶっていると、ドアの方から落ち着いた男の声が聞こえた。
深い緑色の着物を身にまとったこの家の主人ーー宗近だ。
「お父様。お姉様ったらひどいのよ? わざとお母様のスリッパに紅茶をこぼしたの。ほら、見て?」
華乃がそう言うと、爪先の所が少し染まったスリッパを指差した。
その光景に、はぁ、とため息を溢す宗近。
「ちょっと。どうしてため息をつくの? 私が完全に被害者なのに!」
「それくらい、洗わせれば落ちるだろう。休みの日くらい、静かに過ごさせてくれ」
日常茶飯事の光景にため息をつくと、宗近は新聞を広げた。
その反応が面白くない桂子。
宗近は、このやりとりにとことん関わりたくないのだ。
「あら。お姉様…口から血が出てるじゃない」
「えっ…」
いびりが終焉に近付いている事を内心、面白くないと思いながら紬の頭に乗せている足を下ろした。
そして、口が切れた事で滴る血を見てくすりと笑いながら指摘した。
「アタシが治療してあげるわ」
「い、いえ…私、自分で…」
「えぇっ!? 無能なお姉様が治癒!?」
大袈裟に身振り手振りを加える華乃。
「どうやってなさるの〜?」
明らかにバカにする意図のある言葉にまた、紬は辛くなった。
紬は静かに血を拭った。
この屋敷に、自分の居場所などないことを知っているから。
「あらあら。それじゃあ、まだ血は出るわよ? 傷口を塞ぐには…少し、火が必要じゃないかしら?」
「っ…! な、何を…! た、たす…け、っ…!」
にやりと口角を上げる華乃。
よろよろと立ちあがろうとする紬を羽交締めにすると、華乃はニヤリと口角を上げて桂子の方を見た。
すると、桂子もニタァっと笑い人差し指からポッと小さな火を出した。
その火が自分へ近付いてくると、紬は狼狽えて宗近へ視線を向けた。
しかし、このやりとりを聞いても新聞から目を逸らさない宗近。
近付いてくる火の恐怖に、ぎゅっと強く目を閉じた。
けれど、想像している熱さや痛みはいつまでも襲ってこない。
「…? お母様? どうしたの?」
華乃の力が緩んだ一瞬の隙で紬は一生懸命に腕を振り払い、リビングから走り去った。
「チッ…おかしいわね。火が…消えたのよ」
「えぇっ?」
不機嫌に人差し指をブンブンと振る桂子。
桂子は炎の異能に秀で、その力を見込まれて藤代家へ嫁いできた。
それにも関わらず、火が不発になった。
その事実に、華乃は目を丸くした。
「どうして…あっ」
もう一度、確かめるように指先に力を込めると今度はポッとちゃんと火が出た。
桂子はただ、首を傾げた。
「紬。遅いじゃない。何をやってるの」
ようやくリビングから抜け出せて、他の使用人も作業をしている中庭へとやって来た。
今日は、皆で庭の草抜きをすることになっていたが、先程までの事が原因で、集合より数分遅れた。
その事で、使用人を牛耳るボスが放った。
「も…申し訳ありません…さきほどーー」
「言い訳しないで! 全く…あの女に似て、無駄話と媚を売るのだけは上手いんだから」
「っ…」
ボスの言葉に、体が震えた。
あの女というのは、紬の母でありこの屋敷で働いていた使用人の一人だ。
「ほら、アンタも掃除にかかりな。ったく」
「っ…はい…」
顔を暗くさせ、こくりと頷いて作業にとりかかった。
ボスがこのような態度のため、他の使用人の紬を見る目も白い。
この家に、紬の味方はただ一人としていない。
「やぁ、紬。今日は庭掃除かい? 精が出るね」
しゃがんで草を抜いていると、ふいに、紬の視界へ影が落ちた。
「か…一真さん…」
紬の頬がぽっと赤く染まった。
唯一の心の拠り所である一つ年上の幼馴染、一真を見上げると柔らかい笑顔を浮かべていた。
「紬…これ。どうしたんだい?」
紬と話す為に、同じように隣に腰を落とす一真。
距離が近くなると、紬の顔の違和感に気付き尋ねた。
「えっ…? あっ…」
紬が一真の方を見れば、大きく角ばった手がそっと紬の頬に触れた。
その行動に、紬の心臓は止まりそうになった。
「口の中…切れてる? それに、頬…また、おばさん? それとも、華乃ちゃん…?」
「っ…」
優しく尋ねる一真。
頷いてしまいそうになるが、紬は視線を逸らして小さく首を横に振った。
「…あちらへ行こう。菌が入るし、頬だって…冷やさないと痕が残るだろう」
「で、でも…」
優しい一真だけれど、今はそれよりも周りの視線の方が気になった。
掃除の時間に遅れてやって来て、まだ数分しか作業をしていないのに、この場を離れるという選択を紬ができる訳がなかった。
「まぁまぁ、一真様。今日はいかがなさいましたか?」
先程まで紬に辛く当たっていたボスが、一真を見るなり揉み手をしながら近づいて来た。
「あぁ、少しね…それより、彼女を手当てしてあげたいのだけれど…良いかな?」
「えっ…?」
一真がそっと紬の肩を抱く。
支えられるように、紬の体はゆっくりともたれかかった。
この距離では、一真に心臓の音を聞かれそうで一層心拍が上がった。
藤代家に並ぶ名門の家の出である一真の申し出に、使用人が断れるはずもない。
「…え、えぇ。どうぞ。紬様の事よろしくお願いします」
歯切れ悪く言う使用人。
紬をゆっくりと立たせる一真。
二人で井戸の方へ向かった。
その後ろでーー。
「本当…男への媚び方が上手い売女ね…」
そんな事を言われているとは、つゆほども知らない紬。
☆☆☆
井戸までやって来ると、水を汲み上げてハンカチを濡らした。
「ほら、コレで口元を拭いて。頬もちゃんと冷やすんだ」
濡れた白いハンカチを差し出されれば、紬は控えめに首を横に振った。
「そんな…! 汚れてしまいます…!」
「構わないさ。紬の怪我を治せるなら…ね?」
優しく微笑み、ハンカチを紬に握らせれば「…申し訳ありません」と謝り、そっと口元を拭った。
「っ…!」
傷口に水がしみれば、声にならない声を上げる紬。
「痛むだろう…本当、可哀想に…」
自分の事のように目を潤ませて、じっと見つめる一真。
この優しさに、これまでの酷い仕打ちを受けても何とか乗り越えてこられた。
「一真さんのお手を煩わせてしまい…申し訳ありません」
「気にする事はない…おや、紬」
口元を拭った後、赤くなった頬にハンカチを当てた。
すると、手元を見ていた一真が目を見開いた。
突然、紬の手をぎゅっと握った。
「かっ…一真さん…!」
突然の行動に、顔に熱が集まるのが分かった。
紬の手を握るなり、一真は目を細めてじっと手を見つめた。
「一真さん…?」
黙ったまま紬の手を握り続ける一真に、小首を傾げた。
「水仕事も随分頑張ってるんじゃないか?」
「えっ…」
声をかけると、手の甲をそっと撫でる一真。
あかぎれができていて、妙齢の令嬢とは言えない手を指摘されると、恥ずかしくてすぐに引っ込めた。
「…申し訳ありません。お見苦しい手を見せてしまって」
「そんな事はない。それより、紬」
「わっ…」
手を離せば、今度はぎゅっと抱きしめられた。
突然のことに、目を丸くして固まってしまう。
「あと少し…本当、あと少しだから。もうちょっと頑張ってくれ。俺は、紬の事を早く迎えたいけれどーー年齢だけはどうしようもない」
「…はい」
一真の言葉に、こくりと頷いた。
一真は幼い頃から紬が虐げられる様子を見て、ずっと「紬が十八歳になったら、迎えに行く」という約束をしている。
紬にとって、その言葉だけが唯一の光だった。
あと数ヶ月で十八歳。
そうなれば、婚姻できる年齢になる。
控えめにぎゅっと、一真の背中に腕を回した。
ただ、この時の紬はー一真が抱く想いが、自分とはまるで違うものだとは、少しも気付いていなかった。

