虐げられたクチナシの乙女は極道の瞳になる

 翌日。
 白泉組の本家である巨大な日本家屋は、異様なまでの緊張感に包まれていた。
 白泉衆定例会。広い大広間には、数十人の幹部や若衆がずらりと並び、重苦しい殺気を漂わせている。誰もが腹の底を探り合い、少しでも隙を見せれば即座に噛み殺されるような、血生臭い空間だった。

 上座に座る火狩様の斜め後ろ。私は昨日と同じ紅椿の着物を纏い、静かに三つ指をついて控えていた。
 向かいの席には、深月さんが余裕の笑みを浮かべて座っている。

(……怖い。でも、絶対に目を逸らしちゃ駄目だ)

 私は火狩様の『目』なのだから。
 私は伏せた瞳で、大広間の全てを見通す。長年、母や苺の理不尽な暴力から身を守るため、私は常に他人の顔色を窺い、足音や呼吸の変化、場の空気を読んできた。
 まさかこんなところで役に立つとは思わなかったけれど、そのおかげで人の感情や動きの機微は手に取るようにわかる。

(深月さんの後ろの人。さっきから、呼吸が浅い)

 他の極道たちが火狩様の言葉に耳を傾けている中、その男だけが微かに肩を上下させていた。視線が何度も、火狩様の首筋と、自分の懐を往復している。男の手が、ほんの少しだけ震えている。

「昨日の侘びです。今日はうちの衆が茶を淹れますね」

 深月さんが、パンッと一度だけ扇子を鳴らして声をかけた。
 先ほどの若い衆が「お注ぎしやす」と立ち上がり、茶を持って火狩様の右側へと回り込んでくる。
 男が湯呑を置こうとした瞬間――その左手が、不自然に懐へ伸びた。

 何をしようとしているかは見えない。けれど確信があった。私は迷わず、火狩様の帯の結び目の横へと指を伸ばした。

(三回。刃物——!!)

「オラァッ!!」

 男が湯呑を放り捨て、隠し持っていたドスを振り下ろした。
 しかし、その切っ先が届くよりも早く。見えていないはずの火狩様が、私の合図だけを信じ、振り返りもせずに右斜め後ろへと身を翻した。
 同時に、火狩様の懐から抜き放たれた短刀が空中で銀の軌跡を描き、暗殺者の腕と肩口を深く斬り裂いた。

「ぎゃああっ!!」

 鮮血が舞い散った。
 男の絶叫と共に、生温かい血の飛沫が、火狩様の斜め後ろにいた私の頬と、紅椿の着物の袖にべったりと降り注ぐ。

「っ……!」

 刃傷沙汰の凄惨な光景。いつもの私なら、腰を抜かして悲鳴を上げていただろう。

(でも、私は火狩様の『目』だから——!)

 私は奥歯を強く食い縛り、自らの着物の裾を握りしめて、一声も上げなかった。
 血の匂いが充満する大広間で、私はただ静かに呼吸を整え、微動だにせず火狩様の背中を見つめ続けた。

「……チッ。茶を渡そうとしただけの身内に刃物を向けるとは。兄貴も随分と気が立っているようだねぇ」

 大広間が騒然とする中、深月さんが忌々しげに舌打ちをする。彼はじろりと、血を浴びて座り込む私を見た。

「女性がいる場で刃傷沙汰たあ、兄貴も悪い人だ。ご覧よ、哀れにも泣き伏せてしまったじゃないか」

 嘘だ。私は必死に涙をこらえている。
 けれど深月さんは私が喋れないのをいいことに、火狩様が見えないことをいいことに、周りを巻き込んで火狩様に恥をかかせようとしているのだ。
 
「——黙れ、深月」

 火狩様の低く地鳴りのような声が、深月さんの言葉を止めた。
 彼は血に濡れた短刀をスッと懐に納めると、ゆっくりと振り返り、血を浴びた私を大きな手で庇うように背中へ隠した。

「テメェの安い芝居は見え透いてんだよ。俺の『目』を誤魔化せると思うな」

 火狩様は一歩前へ踏み出し、低く唸るように深月さんを威圧する。
 火狩様の言葉に、深月さんの顔が微かに引き攣る。広間にいる幹部たちの視線が一斉に私へと集まった。

「目の前で血飛沫が舞っても、この女は悲鳴一つ上げず、俺を守り抜いた。手前等、今後この蓬は俺だと思って相手しな。無礼を働いたら、命は無いと思え」

 それは、私の沈黙を「無能」ではなく「覚悟」なのだと、誰よりも高く評価し、誇示する言葉だった。
 大広間が、水を打ったように静まり返る。

「今の無礼は『見なかった』ことにしてやる。だが、格付けはついた。だんまり決め込んでた幹部共も、俺と深月、どっちに付いたらいいか、もうわかってんだろ」 
 
 圧倒的な火狩様の気迫の前に、幹部たちは深々と頭を下げる。
 深月さんはそれ以上言葉を返すことができず、ギリッと奥歯を鳴らして倒れた暗殺者と共に部屋を後にするしかなかった。