虐げられたクチナシの乙女は極道の瞳になる

 深月さんからの陰湿な嫌がらせは、その日から静かに、そして確実に始まった。
 白泉組の若頭候補として、深月さんは本家とは別の屋敷に拠点を構えているらしい。けれど、火狩様が先の抗争で視力を失ってからというもの、彼は『兄の補佐役』という大義名分を得て、頻繁にこの別邸へ入り浸るようになっていた。

「兄貴、例のシマの上がりですがね。少し帳簿と合わない部分がある。俺が手回しして調べ直させましょうか」
「……ああ、頼む」

 応接間には、高級な葉巻の煙と、深月さんが纏う甘い香水の匂いが混ざり合っていた。
 火狩様と組の仕事について話す深月さんの声は、快活で、よくできた弟そのものだ。しかし、書類を見つめるその蛇のような双眸は、火狩様の死角から、常に部屋の隅に控える私へとねっとり絡みついていた。

「蓬、お茶を取ってくれないか」

 火狩様に命じられ、私は火狩様の側から離れてお茶を淹れる。火狩様が口に入れるものは『目』である私の担当だった。
 ヨウさんは火狩様の後ろでじろりとにらみを利かせて警護に当たっている。そして、深月さんの後ろにも屈強な彼の護衛が控えていた。室内の男性の目が私に集中して、緊張して手が震えた。

「ありがとうね、義姉さん」

 私が深月さんの前に湯呑みを置こうとした、その瞬間だった。
 深月さんが書類を捲るふりをして、意図的に肘を大きく外側へ突き出した。

「っ——」

 彼の肘が、私の持っていたお盆の端にガツンとぶつかる。
 バランスを崩した湯呑みが倒れ、淹れたばかりの熱い茶が零れ落ちる。こんな場で粗相はできない。私は熱いお茶を抱え込むようにして、熱湯を浴びた。

「っ……!」

 焼けるような熱さに、声にならない悲鳴があがる。けれど、決して悲鳴を上げない様、痛みを呑み込んだ。
 ここで私が騒げば、大事な会合の空気を壊し、火狩様に恥をかかせることになる。

「どうした、蓬。何の音だ」

 音と気配の変化に気づき、火狩様が鋭い声を上げた。

「おっと、すまない兄貴。義姉さんの手が震えていたもんで、うっかり俺の肘に当たっちまった」

 深月さんは心底心配そうな声を作りながら、そっと濡れた腕に触れてくる。
 しかしその顔は酷薄な笑みに歪んでいた。彼は手巾を取り出して私の濡れた手を拭くふりをしながら、火傷で赤くなり始めた私の手首を、ギリッと爪を立てて強く握りしめた。

「っ……!」
「泣いてみろよ、お嬢さん」

 耳元でぼそりとつぶやかれ、体が震える。ヨウさんが何か動こうとしているのを、必死で首を振って止めた。
 この程度の嫌がらせで騒ぎを起こせば、火狩様の立場が悪くなってしまう。

「うん、大丈夫そうだ。お茶はもういいや、家に帰ってから飲むよ」
「蓬、もう戻れ」
 
 深月さんはにっこりと笑うと私から手を放す。私は赤く腫れ上がった手首を帯の後ろに隠し、深く頭を下げて下がった。

「……深月」
「ああ、ごめんね兄貴。俺がうっかりしてたばかりに」
「次「うっかり」したら、その腕切り落とすぞ」

 空気が、完全に凍りついた。
 白い布で覆われた火狩様の顔は、ただ真っ直ぐに深月さんを射抜いている。目が見えないはずなのに、まるで全てを見透かしているかのような圧倒的な殺気だった。

「今日は終いだ。とっとと帰んな」
「やれやれ、我儘な人だ。また来るよ、兄貴」

 火狩様に気おされながらも、深月さんは飄々とした笑みを崩さない。
 控えている若衆に合図をすると、彼はそのまま立ち去ってしまった。

「若——」
「いい、ヨウ。言わなくてもだいたいわかる。蓬。こっちへ来な」

 静かになった部屋で、火狩様が私を呼んだ。
 おずおずと近づくと、彼はためらうことなく私の隠していた腕を引き寄せた。大きな指先が、茶で濡れ、赤く腫れた手首をそっと撫でる。

「あっ……」
「……火傷してんじゃねえか。バカ野郎、なんで痛ェって言わねえんだ」
「わ、わわわわわたし、が……っ、どんくさ、くく、くて……」
「嘘つくな。あいつがわざとやったことくらい、見えなくてもわかる」

 火狩様の声は淡々としているが、怒りが宿っていることを感じる声色だった。
 彼は懐から清潔な手巾を取り出すと、私の手首にそっと巻き付けてくれた。あの日、私が路地裏で彼に渡したものとは違う、上質で柔らかな布だった。

「だが、よく耐えた。この程度じゃあ、騒いでも奴に有利になるだけだ」

 手首に巻かれた手巾越しに、火狩様の大きな手の熱が伝わってくる。この温かな熱が、私の恐怖を溶かしてくれるようだった。

「……た、たた、たえ、ます。どんな、こ、ことでも」
「ああ、いい子だ」

 火狩様は私の痛む手首を優しく引き寄せると、その上から、祈るようにそっと自分の額を押し当てた。
 深月さんからの嫌がらせは、きっとこれからさらに苛烈さを増していくのだろう。けれど、この温かな言葉があれば耐えられる。そう感じた。