私は契約をしたそのままの状態で、荷物すら持たずにここで暮らすことになった。
といっても、実家では私の物は殆ど売り払われて、何も残ってはいないが……
(夢、じゃない……)
あれよあれよという間に一日が過ぎ、私はふかふかの清潔な布団の中で目を覚ました。
薄い煎餅布団でもなく、夜明け前に叩き起こされる母の怒声もない。穏やかな朝だった。
「起きているか」
「ひゃあっ!」
「はは、立派な悲鳴じゃないか」
ふすま越しに声がして、火狩様が部屋に入ってきた。その手には、上質な絹の小袖を複数抱えている。
「好きな柄選びな。若衆のイロが選んだもんだから、流行りの柄だと思うぜ」
「……は、いっ……」
受け取った着物は、信じられないほど滑らかで、手を通すのが躊躇われるほど美しい品だった。
鮮やかな紅色に椿、清楚な薄水色に百合など、様々な柄が用意されている。突然来た私のために、様々な柄を取り揃えてくれたのだろう。
派手な柄は恥ずかしいので、見た中で一番控えめな色を選んだ。これにする、という意味でそっと手に触れると、大きな手が握り返してきた。
「これは何色だ?」
「……うううう、す、む、むらさき……」
「いいね。清楚なアンタに似合いそうだ」
屈託のない誉め言葉に頬が赤くなる。極道者だし、女性の扱いは慣れているのだろうか。真っ赤になった私の顔を見られない火狩様は、ぽんぽんと頭を撫でると、そのまま部屋を去っていった。
「着替えたようだな」
着替えを済ませると、火狩様は私を連れて屋敷の中を案内してくれた。
外から見た時よりもずっと広い。磨き上げられた長い廊下、海外趣味なのか、高価な欧羅巴物の家具が並ぶ応接間。どれも、かつて実家が裕福だった頃にすら見たことがないほどの贅沢な造りだった。
「ここは俺の私邸だ。本家ほど人の出入りは激しくねぇから、気楽に過ごせ」
火狩様は煙草を持つと、どこにいたのか、若衆が無言で火を差し出す。他の若衆ほど大柄ではないが、鍛えぬかれた体には無数の傷がちらほらと見えた。
「若衆のヨウだ。アンタにこいつを付ける。アンタはもう俺の嫁——こいつらの姐だ。欲しいもんがあったらこいつに言え。服でも化粧品でも何でもいい、遠慮はすんな」
「よろしくお願いしやす、姐さん」
慌てて頭を下げる私に対して、ヨウさんはさらに深く頭を下げる。何してんだ、と火狩様はからからと笑った。
しかし、火狩様はふと声を低くし、見えない瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。
「だが、条件は忘れんな」
「——っ」
「アンタは俺の『目』だ。俺が傍に置くときは、すべてを見逃さず俺に伝えろ。それが、この家で生きるためのアンタの仕事だ」
甘い生活の裏にある、極道としての厳しい契約。
私はごくりと唾を飲み込み、深く頷いた。言葉が出ない代わりに、彼の袖をきゅっと握って覚悟を示すと、火狩様は満足そうに口角を上げた。
「ヤボ用で出てくる。まずは屋敷の作りを覚えな」
私は彼に命じられた通り、少しでも屋敷の造りを覚えようと、ヨウさんをつれて縁側を歩く。
喋れない私と無口なヨウさん。一切の会話はないが、気の利いた会話などできないのでそれが逆に助かった。
「へえ。兄貴が女連れ込んだってのは、本当なんだね」
不意に、背後から声をかけられた。
びくりとして振り返ると、庭の飛び石の上に、見知らぬ若い男が立っていた。
仕立ての良い着物をだらしなく着崩し、甘い香水を漂わせた男。整った顔立ちをしているが、その瞳は蛇のように冷たく、ねっとりとした光を帯びていた。
「深月の兄さん。いらしてたんですか」
「これが火狩兄貴の嫁かい? ヨウを付けるなんて、だいぶ可愛がっているみたいじゃないか」
「あああああ、あの……っ、あ……っ」
深月——火狩様が言っていた、跡目を争っているという対立候補。
怯える私の反応を楽しむかのように、深月さんは私の顔をのぞき込んできた。
「顔は悪くないが……それだけだねえ。大方あの兄貴に『俺の目になれ』とでも言って口説かれたんだろ?」
「ひっ……」
「どうした? 旦那の弟がいるんだ、挨拶くらいしてみたらどうだい?」
深月さんの手が、私の頬に伸びてきた。
蛇に睨まれた蛙のように体が硬直し、声も出ない。庇うようにヨウさんが半歩前に出た、その瞬間だった。
「——俺の嫁に気安く触んじゃねぇよ、深月」
低く、地を這うような凄みのある声が響いた。
ピタリと深月さんの手が止まる。そこには、火狩様が音もなく立っていた。
白い布で覆われた目は見えないはずなのに、その顔は正確に深月さんの方を向いている。
「急に乗り込んできたと思ったら……兄貴の女に手ェだすたあどういう了見だ?」
「怖い怖い。ただの挨拶だろ? なあ、義姉さん?」
火狩様はゆっくりと歩み寄り、私と深月さんの間に割り込んだ。
大きな背中が目の前を覆う。微かな葉巻の匂いに、張り詰めていた緊張が少しだけ解ける、その場にへたり込みそうだったけれど、火狩さんの『目』の役目を果たすためにぐっとこらえた。
「そう睨むなよ。怖い夫婦だねえ」
悪びれる様子もなく肩をすくめ、深月は屋敷の奥へと去っていった。
姿が見えなくなったころに、そっと火狩様の手に触れる。恐怖に震えていたけれど、私の意を汲みとってくれたのか、火狩様がぎゅっと手を握り返してくれた。
「申し訳ありやせん、若。深月の兄さんを近づけてしまいました」
「いや、いい。あいつ相手じゃ、仕方ねえさ。よく耐えた」
火狩様はヨウさんを短く労うと、ゆっくりと私の方へ向き直った。
「言った通り、アイツと俺の仲は悪い……が、俺はこの目でな。面倒見るつってアイツは屋敷の出入りが増えてきた。ああいった嫌がらせはこれからも続く」
「……っ」
「だが耐えろ。これは契約だ。アンタが言いたいことは俺がすべて言う、その代わり、アイツの企みはアンタが『目』として暴くんだ」
これが、極道の世界。
泥の中からはい出したという甘い幻想は、あっという間に終わりを告げた。
私はこの日から、深月さんの標的となってしまったのだ。
といっても、実家では私の物は殆ど売り払われて、何も残ってはいないが……
(夢、じゃない……)
あれよあれよという間に一日が過ぎ、私はふかふかの清潔な布団の中で目を覚ました。
薄い煎餅布団でもなく、夜明け前に叩き起こされる母の怒声もない。穏やかな朝だった。
「起きているか」
「ひゃあっ!」
「はは、立派な悲鳴じゃないか」
ふすま越しに声がして、火狩様が部屋に入ってきた。その手には、上質な絹の小袖を複数抱えている。
「好きな柄選びな。若衆のイロが選んだもんだから、流行りの柄だと思うぜ」
「……は、いっ……」
受け取った着物は、信じられないほど滑らかで、手を通すのが躊躇われるほど美しい品だった。
鮮やかな紅色に椿、清楚な薄水色に百合など、様々な柄が用意されている。突然来た私のために、様々な柄を取り揃えてくれたのだろう。
派手な柄は恥ずかしいので、見た中で一番控えめな色を選んだ。これにする、という意味でそっと手に触れると、大きな手が握り返してきた。
「これは何色だ?」
「……うううう、す、む、むらさき……」
「いいね。清楚なアンタに似合いそうだ」
屈託のない誉め言葉に頬が赤くなる。極道者だし、女性の扱いは慣れているのだろうか。真っ赤になった私の顔を見られない火狩様は、ぽんぽんと頭を撫でると、そのまま部屋を去っていった。
「着替えたようだな」
着替えを済ませると、火狩様は私を連れて屋敷の中を案内してくれた。
外から見た時よりもずっと広い。磨き上げられた長い廊下、海外趣味なのか、高価な欧羅巴物の家具が並ぶ応接間。どれも、かつて実家が裕福だった頃にすら見たことがないほどの贅沢な造りだった。
「ここは俺の私邸だ。本家ほど人の出入りは激しくねぇから、気楽に過ごせ」
火狩様は煙草を持つと、どこにいたのか、若衆が無言で火を差し出す。他の若衆ほど大柄ではないが、鍛えぬかれた体には無数の傷がちらほらと見えた。
「若衆のヨウだ。アンタにこいつを付ける。アンタはもう俺の嫁——こいつらの姐だ。欲しいもんがあったらこいつに言え。服でも化粧品でも何でもいい、遠慮はすんな」
「よろしくお願いしやす、姐さん」
慌てて頭を下げる私に対して、ヨウさんはさらに深く頭を下げる。何してんだ、と火狩様はからからと笑った。
しかし、火狩様はふと声を低くし、見えない瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。
「だが、条件は忘れんな」
「——っ」
「アンタは俺の『目』だ。俺が傍に置くときは、すべてを見逃さず俺に伝えろ。それが、この家で生きるためのアンタの仕事だ」
甘い生活の裏にある、極道としての厳しい契約。
私はごくりと唾を飲み込み、深く頷いた。言葉が出ない代わりに、彼の袖をきゅっと握って覚悟を示すと、火狩様は満足そうに口角を上げた。
「ヤボ用で出てくる。まずは屋敷の作りを覚えな」
私は彼に命じられた通り、少しでも屋敷の造りを覚えようと、ヨウさんをつれて縁側を歩く。
喋れない私と無口なヨウさん。一切の会話はないが、気の利いた会話などできないのでそれが逆に助かった。
「へえ。兄貴が女連れ込んだってのは、本当なんだね」
不意に、背後から声をかけられた。
びくりとして振り返ると、庭の飛び石の上に、見知らぬ若い男が立っていた。
仕立ての良い着物をだらしなく着崩し、甘い香水を漂わせた男。整った顔立ちをしているが、その瞳は蛇のように冷たく、ねっとりとした光を帯びていた。
「深月の兄さん。いらしてたんですか」
「これが火狩兄貴の嫁かい? ヨウを付けるなんて、だいぶ可愛がっているみたいじゃないか」
「あああああ、あの……っ、あ……っ」
深月——火狩様が言っていた、跡目を争っているという対立候補。
怯える私の反応を楽しむかのように、深月さんは私の顔をのぞき込んできた。
「顔は悪くないが……それだけだねえ。大方あの兄貴に『俺の目になれ』とでも言って口説かれたんだろ?」
「ひっ……」
「どうした? 旦那の弟がいるんだ、挨拶くらいしてみたらどうだい?」
深月さんの手が、私の頬に伸びてきた。
蛇に睨まれた蛙のように体が硬直し、声も出ない。庇うようにヨウさんが半歩前に出た、その瞬間だった。
「——俺の嫁に気安く触んじゃねぇよ、深月」
低く、地を這うような凄みのある声が響いた。
ピタリと深月さんの手が止まる。そこには、火狩様が音もなく立っていた。
白い布で覆われた目は見えないはずなのに、その顔は正確に深月さんの方を向いている。
「急に乗り込んできたと思ったら……兄貴の女に手ェだすたあどういう了見だ?」
「怖い怖い。ただの挨拶だろ? なあ、義姉さん?」
火狩様はゆっくりと歩み寄り、私と深月さんの間に割り込んだ。
大きな背中が目の前を覆う。微かな葉巻の匂いに、張り詰めていた緊張が少しだけ解ける、その場にへたり込みそうだったけれど、火狩さんの『目』の役目を果たすためにぐっとこらえた。
「そう睨むなよ。怖い夫婦だねえ」
悪びれる様子もなく肩をすくめ、深月は屋敷の奥へと去っていった。
姿が見えなくなったころに、そっと火狩様の手に触れる。恐怖に震えていたけれど、私の意を汲みとってくれたのか、火狩様がぎゅっと手を握り返してくれた。
「申し訳ありやせん、若。深月の兄さんを近づけてしまいました」
「いや、いい。あいつ相手じゃ、仕方ねえさ。よく耐えた」
火狩様はヨウさんを短く労うと、ゆっくりと私の方へ向き直った。
「言った通り、アイツと俺の仲は悪い……が、俺はこの目でな。面倒見るつってアイツは屋敷の出入りが増えてきた。ああいった嫌がらせはこれからも続く」
「……っ」
「だが耐えろ。これは契約だ。アンタが言いたいことは俺がすべて言う、その代わり、アイツの企みはアンタが『目』として暴くんだ」
これが、極道の世界。
泥の中からはい出したという甘い幻想は、あっという間に終わりを告げた。
私はこの日から、深月さんの標的となってしまったのだ。

