虐げられたクチナシの乙女は極道の瞳になる

 「はは、アンタは本当に静かだな。これなら丁度いい」

 攫われるようにして連れ去られ、表に控えていた人力車に乗せられる。狭い空間にぎゅうと押し込められ、嫌でも隣に座る火狩様の体温を感じる。
 幌が下がればもう外から私は見えない。声を上げることはもともとできないが、泣いても喚いても助けてくれる人は現れないだろう。

「河岸、変えな」
「へい」

 火狩様が低い声で命じると、屈強な御者が車を進める。この旅館のほかに別の場所を用意していたのだろうか。
 車が揺られる中、私は縋り付くように火狩様の腕の中に抱き留められていた。大きな胸板に頬を寄せるような恰好が恥ずかしい。

「で、アンタ。名前は?」
「……っ……」
「おいおい、取って食おうってわけじゃねえんだ。そんなビビるなよ」
「…………ぁ、あ……」

 名乗らなきゃ、そう思って口を開くけれどうまく言葉にできない。
 いつもなら間抜けな響きと共に発音くらいはできるのに、あまりの恐怖に声がでない。
 必死で言葉を紡ごうとしている努力は伝わったのか、「もういい」と頭をぽんぽんと撫でられた。

「話せない方が姉の蓬だったな。片方はピーチク五月蠅いが、片方は会話ができない。極端な姉妹だねえ」

 呆れたような声は、少しの優しさが滲んでいる。
 怖いだけではないのかもしれない。いや、この甘さこそが極道者の罠かもしれない。
 私は猫につかまった鼠のように、ガタガタと震えることしかできなかった。
 
 人力車が止まったのは、帝都の喧騒から少し離れた、緑の多い静かなお屋敷だった。
 立派な門構えだが、白泉組の家紋ではない。本家、というわけではなさそうだ。
 聞こえるのは風に揺れる木々の音ばかりで、ひっそりとした空気が漂っていた。

「降りな」
「あ……っ」

 火狩様に手を引かれ、屋敷の中へと案内される。
 出迎えもまた屈強な男たちだ。大男たちがずらりと並んで出迎える姿は圧巻で、私の声はまたしても引っ込んだ。

「お帰りなさい! 若!」
「おう、嫁連れて帰ったぞ」
「へい!」
「……あっ、あう……」
 
 突然の報告だろうに、男たちは動揺もしない。
 私だけがあうあうと声をあげて、また俵のように担がれて室内に運ばれてしまった。
 
「降ろすぜ。怪我すんなよ」

 通されたのは、日当たりの良い縁側のある広い和室だった。
 火狩様はふわりと私を下すと、自らも腰を下ろす。春の日の陽光が穏やかに差す、静かな空間だった。

「さて、蓬ちゃん。アンタを連れ帰ったのには訳がある」
「……こ、こここん、こんやく……い、ち、ごとの……ですか?」
「はは、多少喋れはするんだな。そうだ、婚約の話だ」
 
 火狩様の纏う空気が、ふっと鋭いものに変わった。さっきまでの人の好い雰囲気から、極道の若頭としての冷徹な顔に戻る。

「見ての通り、俺は先の抗争で両目をやられちまってな。極道にとって、目が潰れてるってのは致命傷だ。今、組の中じゃあ次に誰が跡目を継ぐかで揉めに揉めてやがる。俺がこのまま上に立つか、それとも弟の深月(みづき)がしゃしゃり出てくるか……ってところだ」

 火狩様が合図をすると、側に控えていた若衆が杯を用意する。とくとく、と音を立てて杯に酒が満たされた。

「俺としては、周囲を安心させるためにも『身を固める』必要があった。伴侶を迎えて、俺はまだ終わっちゃいないと示すためにな。だが、隙を見せれば寝首を掻かれるこの状況で、ギャーギャー喚く頭の軽い女や、裏で何を企むかわからねぇような女を屋敷に入れるわけにはいかねぇ」
「…………」
「そんな時、アンタを見つけた」

 火狩様は、遠くを見ている。といっても、包帯の巻かれた視線の先は見えないけれど。

「アンタは喋らない。ビビりだから余計なこともしなさそうだ」

 あんまりな言い方だが、確かに図星だ。私は大それたことをできる胆力は持っていないし、喋る口もない。
 
「アンタの家での扱いは調べがついてる。あの家に戻りてぇか? 一生、母親と妹の下働きとしてタダ働きさせられる人生がいいか?」

 その言葉に、私は息を呑んだ。
 あの家に、私の居場所はない。父の遺した着物さえ奪われ、いつかボロ雑巾のように捨てられるだけだ。

「俺の『目』になれ。その代わり、アンタに逆らう全てを俺が黙らせてやる。俺がアンタの『口』になる」

 そう言うと、火狩様は杯の酒を少し口に含む。
 それは、恐ろしい極道者からの、甘く危険な契約の持ち掛けだった。
 怖い。けれど、この杯を取れば、私は変わることができる。あの悲しい日々から、逃れることができる。

(変わりたい)

 それは、私が初めて感じた欲だった。惨めな生活から抜け出したい。父の贈り物の着物に袖を通せるような、そんな些細な矜持を持てるようになりたい。
 私は頷き、そっと杯を取った。こくり、と音を立てて中のお酒を飲む。初めて飲むお酒は、喉が焼けるようだった。
 火狩様の口角が、微かに上がる。

「契約成立だ。よろしく頼むぜ、俺のお嫁さん」

 この時の私は、座敷に差す春の陽光のように、この人と歩む人生に仄かな光があると信じていた。
 この契約を、私はこの先、何度も後悔することになる。