私は無心で針を動かしていた。
「——っ」
ささくれた指先に針が刺さり、ぷくりと血が滲む。慌てて指を咥え、膝の上の水浅葱色の生地に染みがつかないように息を呑んだ。
父が私のために遺してくれた着物は、母の言いつけにより、苺の背丈に合わせて仕立て直されている。
(私の大切な着物を、私の手で……)
胸が締め付けられる痛みを必死で無視した。逆らっても意味がない。母の言うとおり、こんな私には晴れの着物を着る機会など訪れないのだから。
私の知らぬうちに縁談の話は進んでいて、忙殺される日々の中ですぐに場が設けられた。
これまで一度も顔を合わせたこともない相手との縁談だというのに、苺は無邪気に出会いを楽しみにしていた。
「で、でででき、できまし、た……」
「遅いわねえ! 早くちょうだい!」
苺は私から着物をひったくって袖を通す。私とうり二つの顔で、楽しそうに笑う姿が眩しい。
(ごめんねお父様……でも、苺が着たほうが、綺麗だよね……)
思うところはあるけれど、妹の門出の日には違いない。
姉として少しでも綺麗に飾ってあげることができたのなら嬉しい。
「お母様、どうかしら。相手は天下の白泉組よ、これなら見劣りしないわよね?」
「これをつけなさい、欧羅巴物の高級な香水だよ。お前の美しさに、極道の若頭もきっとひれ伏すはずさ」
母は、苺の首筋や手首に香水を振りかけた。狭い土間にふわりと匂いが漂う。春の日の花の匂いだった。
『……花の匂いがする……女の子かい?』
ふと、先日出会った男を思い出す。思えばあの人も極道者だった。
(無事だったかな……)
彼の顔は血にまみれ、顔を見ることはできなかった。一枚の手巾を渡しただけの縁だけれど、どこかで無事生き延びてくれていると嬉しい。
「——蓬、あんたは何をぼんやりしているんだい! とっとと荷物を持ちな!」
「は、はい……っ」
思考が思わぬところへ飛んでいると、母にきつく呼び止められる。怒声に肩を跳ねさせ、私は慌てて大きな風呂敷包みを背負い込んだ。
苺が私の着物を着飾っているのに対し、私が着せられているのは、色褪せた木綿の着物だった。可愛い苺の縁談。万が一にも同じ顔の姉に興味が向かないようにと、長い前髪で顔を隠すように命じられている。
(どうか、何事もなく無事に終わりますように……)
私は針仕事で痛んだ指先を隠すように重ね、華やぐ二人から少し遅れて、重い足取りで家を出た。
「こちらへ。若は少々遅れております」
案内されたのは、高級料亭の奥座敷だった。
静かな庭から響く鹿威しの澄んだ音が響く。本日は快晴。澄み切った青空の下の静寂は心地よいはずなのに、襖の奥で警護をしている極道者たちの威圧感で部屋の中は殺気に満ちていた。
「遅いねぇ。極道ってのは時間に厳しいもんだと思うけどね」
「まあ、いいじゃないお母様。うふふ、それにしても楽しみだわ。こんな羽振りのいい組だもの、何を買ってもらおうかしら」
「何でも買ってもらいな。もうあんなケチな生活とはおさらばだよ」
「おねえの稼ぎじゃ頭打ちだったもんね。やっぱ駄目ね、あの出来損ない」
予定の時刻を過ぎても現れない相手。だんだんと緊張が緩んできたからか、母と苺の口は止まらなかった。
ぺちゃくちゃと好き放題喋るふたりにはらはらするが、私に止めることはできない。私は室内に入ることを許されず、ほかの警護の方と同じように、襖の外の冷たい板間に座っているからだ。
母も怖いが、極道者の怖さはその比ではない。息をするだけでも恐ろしくて、早くこの時間が終わるようにと祈るしかなかった。
——その時、廊下の空気が唐突に凍りついた。
重く、静かな足音が近づいてくる。四隅に控えていた若い衆が一斉に居住まいを正した。私も慌てて床に頭をつけてひれ伏す。
ピタリと、母たちの笑い声が止む。
顔を上げた先に見えたのは、上質な漆黒の羽織。両目は白い絹の布で覆われているが、そこから放たれる凄まじい気配と覇気に、部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
「——あっ」
思わず漏れた声に、男がぴくりと反応する。
「……襖の外に、誰かいるのか?」
「お相手の侍女さんがひとり、控えておりやす」
「そうか」
間違いない。この人はあの日、雨の路地裏で血を流して倒れていた男だ。
思わず出てしまった声を必死で抑える。彼は何らかの問題を抱えていて、私はそれを見てしまっているのだ。そのことがばれればどうなってしまうかわからない。
言葉を発さない私に興味がなくなったのか、男はそのまま室内へと入っていった。
「……待たせたな。白泉組若頭、白泉火狩だ」
「お初にお目にかかります、母の雁金滝にございます。さあ、苺、ご挨拶を」
「初めまして! 雁金苺と申します。この度はご縁をいただき、嬉しく思っております」
「ああ、話は聞いてる。親父が突然すまなかったな」
母と苺の胆力は大したものだ。ただの無知がなせる業かもしれないが、これだけの圧を気にもせずぺらぺらと口をまわしている。
「大作家の雁金先生とご縁をいただけるなんて、こちらこそありがたい限り」
「いえいえ。生憎夫は亡くなりましたが、夫が遺した娘は大事に育ててまいりました」
「はい! これからはあなた様の世界で私も——」
「ああ、別にアンタの話じゃあないんだ」
「えっ——」
どういうことだろう、襖の奥で聞き耳を立てていた私と苺の声が重なる。
その瞬間、襖が乱暴に開けられたかと思うと、腕をぐいと引っ張られた。
「この子をもらおう」
腕を強く引かれ、私は前のめりに座敷の中へと引きずり込まれた。
「ひっ、あ……っ!」
畳に倒れ込む寸前、力強い腕が私の体を抱きとめる。
鼻を掠めたのは、ほのかな葉巻の香りと、大人の男の体温だった。
「な、何をなさるんですか火狩様! そいつはただの下働きで——」
母の金切り声が響く。だが、火狩は私を腕の中に閉じ込めたまま、冷ややかな声を放った。
「下働き? 雁金先生の娘は『双子』だと聞いているがね」
「っ……!」
母と苺が同時に息を呑む気配がした。極道の情報網を甘く見ていたのだ。相手の素性など、とうの昔に調べがついているに決まっている。
「悪いな嬢ちゃん。アンタはちょいと五月蠅くてな。それに、香水は付けすぎないのが粋ってもんだ」
「そ、そんなの! アンタなんかに言われたくないわよ!」
苺の声が怒りに染まる。本当に気の強い子だ。ある意味では極道者にお似合いな気がするが、肝心の火狩様は私の腰をつかんで離してはくれなかった。
そのまま俵を担ぐようにぐいと持ち上げられ、「ひぃ」と情けない悲鳴が上がる。
「そういうわけだ。これ、もらっていくぜ。奥さん、嬢ちゃん、好きなだけ飲み食いしたら帰っていいぜ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 蓬おねえ! アンタもなんか言いなさ——」
喚く苺の声を遮るように、パシャリと襖を閉じる。
背の高い火狩様に持ち上げられると、床があまりも遠い。落とされたら怪我をしてしまう。しかも相手は盲目なのだ。私は逃げたい気持ちよりも恐怖が勝って、ぷるぷると震えることしかできなかった。
「——っ」
ささくれた指先に針が刺さり、ぷくりと血が滲む。慌てて指を咥え、膝の上の水浅葱色の生地に染みがつかないように息を呑んだ。
父が私のために遺してくれた着物は、母の言いつけにより、苺の背丈に合わせて仕立て直されている。
(私の大切な着物を、私の手で……)
胸が締め付けられる痛みを必死で無視した。逆らっても意味がない。母の言うとおり、こんな私には晴れの着物を着る機会など訪れないのだから。
私の知らぬうちに縁談の話は進んでいて、忙殺される日々の中ですぐに場が設けられた。
これまで一度も顔を合わせたこともない相手との縁談だというのに、苺は無邪気に出会いを楽しみにしていた。
「で、でででき、できまし、た……」
「遅いわねえ! 早くちょうだい!」
苺は私から着物をひったくって袖を通す。私とうり二つの顔で、楽しそうに笑う姿が眩しい。
(ごめんねお父様……でも、苺が着たほうが、綺麗だよね……)
思うところはあるけれど、妹の門出の日には違いない。
姉として少しでも綺麗に飾ってあげることができたのなら嬉しい。
「お母様、どうかしら。相手は天下の白泉組よ、これなら見劣りしないわよね?」
「これをつけなさい、欧羅巴物の高級な香水だよ。お前の美しさに、極道の若頭もきっとひれ伏すはずさ」
母は、苺の首筋や手首に香水を振りかけた。狭い土間にふわりと匂いが漂う。春の日の花の匂いだった。
『……花の匂いがする……女の子かい?』
ふと、先日出会った男を思い出す。思えばあの人も極道者だった。
(無事だったかな……)
彼の顔は血にまみれ、顔を見ることはできなかった。一枚の手巾を渡しただけの縁だけれど、どこかで無事生き延びてくれていると嬉しい。
「——蓬、あんたは何をぼんやりしているんだい! とっとと荷物を持ちな!」
「は、はい……っ」
思考が思わぬところへ飛んでいると、母にきつく呼び止められる。怒声に肩を跳ねさせ、私は慌てて大きな風呂敷包みを背負い込んだ。
苺が私の着物を着飾っているのに対し、私が着せられているのは、色褪せた木綿の着物だった。可愛い苺の縁談。万が一にも同じ顔の姉に興味が向かないようにと、長い前髪で顔を隠すように命じられている。
(どうか、何事もなく無事に終わりますように……)
私は針仕事で痛んだ指先を隠すように重ね、華やぐ二人から少し遅れて、重い足取りで家を出た。
「こちらへ。若は少々遅れております」
案内されたのは、高級料亭の奥座敷だった。
静かな庭から響く鹿威しの澄んだ音が響く。本日は快晴。澄み切った青空の下の静寂は心地よいはずなのに、襖の奥で警護をしている極道者たちの威圧感で部屋の中は殺気に満ちていた。
「遅いねぇ。極道ってのは時間に厳しいもんだと思うけどね」
「まあ、いいじゃないお母様。うふふ、それにしても楽しみだわ。こんな羽振りのいい組だもの、何を買ってもらおうかしら」
「何でも買ってもらいな。もうあんなケチな生活とはおさらばだよ」
「おねえの稼ぎじゃ頭打ちだったもんね。やっぱ駄目ね、あの出来損ない」
予定の時刻を過ぎても現れない相手。だんだんと緊張が緩んできたからか、母と苺の口は止まらなかった。
ぺちゃくちゃと好き放題喋るふたりにはらはらするが、私に止めることはできない。私は室内に入ることを許されず、ほかの警護の方と同じように、襖の外の冷たい板間に座っているからだ。
母も怖いが、極道者の怖さはその比ではない。息をするだけでも恐ろしくて、早くこの時間が終わるようにと祈るしかなかった。
——その時、廊下の空気が唐突に凍りついた。
重く、静かな足音が近づいてくる。四隅に控えていた若い衆が一斉に居住まいを正した。私も慌てて床に頭をつけてひれ伏す。
ピタリと、母たちの笑い声が止む。
顔を上げた先に見えたのは、上質な漆黒の羽織。両目は白い絹の布で覆われているが、そこから放たれる凄まじい気配と覇気に、部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
「——あっ」
思わず漏れた声に、男がぴくりと反応する。
「……襖の外に、誰かいるのか?」
「お相手の侍女さんがひとり、控えておりやす」
「そうか」
間違いない。この人はあの日、雨の路地裏で血を流して倒れていた男だ。
思わず出てしまった声を必死で抑える。彼は何らかの問題を抱えていて、私はそれを見てしまっているのだ。そのことがばれればどうなってしまうかわからない。
言葉を発さない私に興味がなくなったのか、男はそのまま室内へと入っていった。
「……待たせたな。白泉組若頭、白泉火狩だ」
「お初にお目にかかります、母の雁金滝にございます。さあ、苺、ご挨拶を」
「初めまして! 雁金苺と申します。この度はご縁をいただき、嬉しく思っております」
「ああ、話は聞いてる。親父が突然すまなかったな」
母と苺の胆力は大したものだ。ただの無知がなせる業かもしれないが、これだけの圧を気にもせずぺらぺらと口をまわしている。
「大作家の雁金先生とご縁をいただけるなんて、こちらこそありがたい限り」
「いえいえ。生憎夫は亡くなりましたが、夫が遺した娘は大事に育ててまいりました」
「はい! これからはあなた様の世界で私も——」
「ああ、別にアンタの話じゃあないんだ」
「えっ——」
どういうことだろう、襖の奥で聞き耳を立てていた私と苺の声が重なる。
その瞬間、襖が乱暴に開けられたかと思うと、腕をぐいと引っ張られた。
「この子をもらおう」
腕を強く引かれ、私は前のめりに座敷の中へと引きずり込まれた。
「ひっ、あ……っ!」
畳に倒れ込む寸前、力強い腕が私の体を抱きとめる。
鼻を掠めたのは、ほのかな葉巻の香りと、大人の男の体温だった。
「な、何をなさるんですか火狩様! そいつはただの下働きで——」
母の金切り声が響く。だが、火狩は私を腕の中に閉じ込めたまま、冷ややかな声を放った。
「下働き? 雁金先生の娘は『双子』だと聞いているがね」
「っ……!」
母と苺が同時に息を呑む気配がした。極道の情報網を甘く見ていたのだ。相手の素性など、とうの昔に調べがついているに決まっている。
「悪いな嬢ちゃん。アンタはちょいと五月蠅くてな。それに、香水は付けすぎないのが粋ってもんだ」
「そ、そんなの! アンタなんかに言われたくないわよ!」
苺の声が怒りに染まる。本当に気の強い子だ。ある意味では極道者にお似合いな気がするが、肝心の火狩様は私の腰をつかんで離してはくれなかった。
そのまま俵を担ぐようにぐいと持ち上げられ、「ひぃ」と情けない悲鳴が上がる。
「そういうわけだ。これ、もらっていくぜ。奥さん、嬢ちゃん、好きなだけ飲み食いしたら帰っていいぜ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 蓬おねえ! アンタもなんか言いなさ——」
喚く苺の声を遮るように、パシャリと襖を閉じる。
背の高い火狩様に持ち上げられると、床があまりも遠い。落とされたら怪我をしてしまう。しかも相手は盲目なのだ。私は逃げたい気持ちよりも恐怖が勝って、ぷるぷると震えることしかできなかった。

