虐げられたクチナシの乙女は極道の瞳になる

 息を切らして家に辿り着いた私を待っていたのは、温かい風呂でも、労いの言葉でもなかった。

「遅い! どこをほっつき歩いていたの!」

 家に着くなり、母の鋭い声が飛んできた。びくりと肩をすくめた私の頬を、容赦のない平手が打つ。

「す、すすすすい、ま、せせ……っ」
「ああもう、イライラする! はっきり喋ったらどうなんだい!? 本当に(よもぎ)は出来が悪いったら!」

 私は昔から上手く喋ることができなかった。喋ろうと焦る度にどもる声は、周りの人間を不快にさせるようだ。亡き父はそれも個性だと慰めてくれたけど、母は許してはくれなかった。

「少しは苺を見習ったらどうだい? 双子だっていうのに、こんなに違うものかねえ」
「……ご、ごごごごめっ……なさっ……」

 苺は私の双子の妹だ。かつては母にすら見分けがつかなかったけれど、父の死後私たちの運命は大きく変わった。
 母は甘え上手で快活な苺にのみ愛情を注ぐようになった。
 文豪だった父が遺した財産はすべて母と苺の贅沢に使われ、底を尽きかけている。私は暇を出した女中の代わりに下女として家事をこなし、そして亡き父の代わりに稼ぎ柱として針子の仕事で家を支えていた。

「ほらっ、今日は給金の日だろ!? とっととよこしな!」
「……は、はい……」

 けれどそれを感謝されたことはない。手を傷だらけにして針子の仕事をこなしても、煤だらけになって家事をしても、それらは母と妹に吸われていくだけ。
 
「お母様、見て! 長持ちの奥からこんないいものが出てきたわ!」
 
 母の愛情を得て、苺は名前の通り瑞々しく美しい娘になった。艶やかな黒髪、傷のない白魚のような手、甘える猫のようなかわいらしい声。何もかも、私にはないものだった。
 華やいだ声を上げた苺の手に握られていたのは、見覚えのある淡い水浅葱色の布地だった。
 息が止まった。
 それは、亡き父が私のためにあつらえてくれた、たった一つの、大切な着物だった。いつか私が嫁ぐ日に着るようにと、病床の父が震える手で撫でてくれた宝物。

「だ、だだだだめ……っ! そそそそ、れ、だけっ、は……!」

 慌てて手を伸ばす。けれど苺は汚いものでも見るかのように私の手を蹴り払った。

「汚い手で触らないでよ。どうせあんたは一生着る機会なんてないでしょ」
「そうだよ。来週、この子には白泉(はくせん)組の若頭、火狩(かがり)様との縁談が控えているの。あんたみたいなのが持っているより、よっぽど役に立つわ」

 白泉組。帝都の裏社会を牛耳る、血も涙もないと恐れられる極道の家。
 そんな恐ろしい場所に嫁ぐというのに、妹の顔には歪んだ欲と笑みが浮かんでいた。

「ご、ごごごごく、どうの、い、いえに?」
「お頭様が、お父様の熱烈なフアンなんですって。私たちが苦労してるって知って、縁談の話をくれたの」
「で、でも……」
「火狩様は任侠を重んじる義人って有名じゃない! そんな人に嫁げるなんて! 女学校のやつら、きっと悔しがるわ」
「お父さんの本が好きだって言うんなら、その着物を着てお行き。めずらしくあの人が選んだ反物だ。その話をしたらお頭さん喜んでくれるよ」
 
 ああ、この人たちは欲に目がくらんで恐怖すら失ってしまったのだ。
 確かに白泉家は義侠者として有名だ。けれど根はあくまで極道者。火狩という人だって、女子供にも容赦はしない冷徹な若頭、と有名な人間だ。

「あ、あぶ、あああ、ぶない……」
「うるさいね!」
 
 苺を心配して必死に絞り出した声は、母の冷たい一声にかき消された。

「あんたには関係ないだろ! 出来損ないのあんたなんか、誰ももらっちゃくれないよ!」
「あはは! お母様ったら、ひどい!」

 苺は高らかに笑うと、私の宝物の着物を抱いて奥の部屋へと去っていく。
 私は冷たい床をじっと見ることしかできなかった。ぽたり、ぽたり、と瞳から静かに雫がこぼれた。