虐げられたクチナシの乙女は極道の瞳になる

 静流が帰った後、屋敷から蓬の気配が消えた。
 裏口から出て行ったと若衆から報告を受けた時、心臓が凍るかと思った。
 どうして一人にしてしまったんだ。逃げる様に家を抜け出す蓬の姿を聞いて、とうとう俺に愛想が尽きたのかと絶望した。
 
(これはただの契約結婚。アイツを縛る鎖にはならない)

 蓬が俺の隣から消えてしまうかもしれない。俺は初めて恐怖という感情を知った。
 暗闇の中でじっと耳を澄ませる、若衆総出で蓬を探させている間、柄にもなく神という奴に祈ってしまった。

「若、姐さんが戻られました」

 ヨウの声と共に、静かに襖が開いた。微かに震えるような、小さな足音がする。

「蓬」

 俺はたまらず立ち上がり、足音のする方へ手を伸ばした。
 細い腕の手首あたりを掴み、そのまま強く、自分の腕の中へと手繰り寄せて抱き込む。

「っ……!」
「すまねぇ。俺が馬鹿だった。静流のことで不安にさせちまったな。俺は、お前が——」

 強く抱きしめると、腕の中の体はビクッと硬直し、それから俺の胸にすがりつくようにして、小さく首を横に振った。

「……」

 小さな体から声は出ない。ふるふると揺れる髪からはいつもと同じ、あの花の香りがした。
 帰ってきてくれた。そんな当たり前のことが、震えるほど嬉しかった。
 
「おかえり、蓬」

 俺は腕の中の体をさらに深く抱き寄せ、その髪に何度も頬を擦り付けた。
 ふわりと香る石鹸と香水の匂いが、張り詰めていた俺の神経をゆっくりと解かしていく。

「外で、怖いことは何もなかったか?」

 俺の問いかけに対し、腕の中の蓬はこくり、と頷いた。
 そして、俺の羽織の胸元をきゅっと小さな手で掴むと、自ら背伸びをするようにして、そっと俺の首筋に顔を埋めてきた。

「……蓬?」

 いつもなら俺に抱きしめられるだけで、ぷるぷると震えるはずだ。だが今日は自分から、俺の体温を求めるようにすり寄ってくる。
 不安にさせた揺り返しなのか。それとも、他の女に居場所を奪われたくないという、アイツなりの必死の独占欲の表れなのか。

(……へえ)

 俺の胸に体重を預け、しなだれかかってくるいじらしい甘え方。
 俺は蓬の背中をゆっくりと撫で、もう片方の手で後頭部を優しく包み込んだ。
 指先に触れる髪はいつもより念入りに梳かれているのか、艶やかで滑らかに感じた。

「……お前に触れて、いいか?」

 いつもより少しだけ大胆な蓬は、おずおずと頷く。
 これ以上は言わなくても伝わるだろう。俺はそっと部屋の中に彼女を引き寄せる。ぱたり、と閉じられた襖の奥にはおそらく月が輝いている。
 今日は満月だと、誰かが言っていた。