火狩様と心が通っている。そんな甘い幻想は、ある日突然音を立てて崩れた。
「火狩様。お久しゅうございます」
ある日の午後。別邸の応接間に通されたのは、白粉と薔薇の香水を纏った、艶やかな人だった。
着物を優雅に着こなし、流し目で男を虜にするような空気を放つその女性は『静流』と名乗った。
「よう、静流。久しいな」
「もう、他人事みたいに。お怪我をされたなら教えてくださいな。見舞いに参りましたのに」
静流さんは、火狩様が贔屓にしていた芸者さんで——そういう、関係でもあったらしい。
落ち着いた雰囲気は周りを和ませ、話し上手で聞き上手。言葉を探すときに唇を噛む姿は女の私から見ても色っぽい。
大人な雰囲気のある火狩様が横に並べば、実に絵になる二人だった。
「貴方が、火狩さんのご贔屓?」
「あ、あああああの……わ、私……」
「ああ。俺の一生贔屓にする女だ。いじめてやるなよ」
「まあ、失礼ね」
他愛のない二人の会話が胸を締め付ける。
私は火狩様の『目』にはなれるかもしれない。けれど、静流さんのように隣において恥ずかしい女性にはなれない。
二人が仲睦まじげに話す姿を目に焼き付ける度、火狩様が静流さんに囁くように声をかける度、劣等感を煽られる。
(もし火狩様の目が無事だったら。この契約がなかったら……火狩様は私のことを、選んでくれたのかな……)
ふと、静流さんと視線が合った。
穏やかな微笑みに怪しげな色が宿っていたけれど、それが私の劣等感による嫉妬かもしれない。火狩様に伝えることができず、私はじっと冷たい床を眺めていた。
「お邪魔しました。次は店にも来てくださいね」
「しばらく遠慮しとくよ。いいヒトできちまったもんでね」
「もう、いじわるなんだから」
静流さんは少し話をして、土産を渡すとすぐに屋敷を後にした。
火狩様と他愛のない会話をしながら、ふと私に視線を移す。音を出さず、口だけを動かして私に何かを言っていた。
『おいで』
唇を読み取った時、指先がガタガタと震えた。
この人は私を呼び出している。細い指が、屋敷の裏の道を指示していた。
(私、何かしてしまったのかな……)
火狩様は気づいていない。でも、とても伝えることはできなかった。
小さな嫉妬心と——火狩様への猜疑心が私の心を揺らす。静流さんが私を認めなかったら、この結婚もなくなってしまうのだという恐怖が、口を閉ざした。
私はこの日初めて、火狩様とヨウさんの目を盗んで屋敷を抜け出した。
薄暗い木漏れ日の中、屋敷を離れて裏道に辿り着くと、そこには人影がひとつあった。
「あああああ、あの……っ、ししし、しず、る、さん……?」
恐る恐る声をかける。
しかし、ゆっくりと振り返ったその人物を見て、私は全身の血の気が引くのを感じた。
「——本当に一人で来るとはね。馬鹿な女だ、義姉さん」
「っ!?」
そこに立っていたのは、深月さんだった。
罠だ。そう気づいて後ずさりしようとした瞬間、背後から髪を思い切り捕まれ、地面に引き倒される。
「ああっ!」
「少し良い着物を着せてもらったからって、いい気になってんじゃないよ!」
頭上から降ってきたのは、聞き慣れた、憎悪に満ちた怒声——母だ。
「ど、どう、して……っ」
「黙れっ! あんたが私の邪魔をするからだろうが!」
容赦のない平手が私の頬を打つ。母の金切り声と暴力が恐ろしくて、私は地面に這いつくばって身を守ることしかできない。
「思ったとおり、あの愛人を屋敷に差し向けただけで、ほいほいと付いてきた」
「自分でもわかってるんでしょ。極道の若頭の隣に立つ器じゃないってね」
もう一つの影がゆっくりと歩み出てきた。
私と全く同じ、赤い椿の小袖を着た少女。髪の結い方も、化粧の仕方も、今の私と瓜二つに整えられた——双子の妹、苺だった。
「……いいい、い、ちご……?」
「うふふ。蓬おねえ、その着物、やっぱり私の方が似合うと思わない?」
苺は屈み込むと、地面に倒れる私の頬を冷たい指先で撫でた。
「立派なお屋敷で、良い男に囲われて。クチナシのおねえには過ぎた贅沢よ。これからは、私が『蓬』として、火狩様に思い切り愛していただくわ」
「……っ!」
「目の見えないあの人に、おねえと私の区別がつくかしら?」
苺は口元を押さえて笑う。自分でもぞっとするほど、私たちはよく似ていた。
「アンタの真似なんて、喋らないだけでできるものね」
「じゃあ、要らない方はしまっちゃおうかね……やれ」
深月さんの合図と共に、背後に控えていた屈強な男が私の口元に分厚い布を押し当てた。
「んっ……! んーっ!!」
必死に手足をばたつかせて抵抗するが、男の腕力には敵わない。
息ができない。頭がぐらぐらと揺れ、視界の端から急速に暗闇が迫ってくる。
私の体は完全に力を失い、冷たい泥の上へと崩れ落ちた。
「火狩様。お久しゅうございます」
ある日の午後。別邸の応接間に通されたのは、白粉と薔薇の香水を纏った、艶やかな人だった。
着物を優雅に着こなし、流し目で男を虜にするような空気を放つその女性は『静流』と名乗った。
「よう、静流。久しいな」
「もう、他人事みたいに。お怪我をされたなら教えてくださいな。見舞いに参りましたのに」
静流さんは、火狩様が贔屓にしていた芸者さんで——そういう、関係でもあったらしい。
落ち着いた雰囲気は周りを和ませ、話し上手で聞き上手。言葉を探すときに唇を噛む姿は女の私から見ても色っぽい。
大人な雰囲気のある火狩様が横に並べば、実に絵になる二人だった。
「貴方が、火狩さんのご贔屓?」
「あ、あああああの……わ、私……」
「ああ。俺の一生贔屓にする女だ。いじめてやるなよ」
「まあ、失礼ね」
他愛のない二人の会話が胸を締め付ける。
私は火狩様の『目』にはなれるかもしれない。けれど、静流さんのように隣において恥ずかしい女性にはなれない。
二人が仲睦まじげに話す姿を目に焼き付ける度、火狩様が静流さんに囁くように声をかける度、劣等感を煽られる。
(もし火狩様の目が無事だったら。この契約がなかったら……火狩様は私のことを、選んでくれたのかな……)
ふと、静流さんと視線が合った。
穏やかな微笑みに怪しげな色が宿っていたけれど、それが私の劣等感による嫉妬かもしれない。火狩様に伝えることができず、私はじっと冷たい床を眺めていた。
「お邪魔しました。次は店にも来てくださいね」
「しばらく遠慮しとくよ。いいヒトできちまったもんでね」
「もう、いじわるなんだから」
静流さんは少し話をして、土産を渡すとすぐに屋敷を後にした。
火狩様と他愛のない会話をしながら、ふと私に視線を移す。音を出さず、口だけを動かして私に何かを言っていた。
『おいで』
唇を読み取った時、指先がガタガタと震えた。
この人は私を呼び出している。細い指が、屋敷の裏の道を指示していた。
(私、何かしてしまったのかな……)
火狩様は気づいていない。でも、とても伝えることはできなかった。
小さな嫉妬心と——火狩様への猜疑心が私の心を揺らす。静流さんが私を認めなかったら、この結婚もなくなってしまうのだという恐怖が、口を閉ざした。
私はこの日初めて、火狩様とヨウさんの目を盗んで屋敷を抜け出した。
薄暗い木漏れ日の中、屋敷を離れて裏道に辿り着くと、そこには人影がひとつあった。
「あああああ、あの……っ、ししし、しず、る、さん……?」
恐る恐る声をかける。
しかし、ゆっくりと振り返ったその人物を見て、私は全身の血の気が引くのを感じた。
「——本当に一人で来るとはね。馬鹿な女だ、義姉さん」
「っ!?」
そこに立っていたのは、深月さんだった。
罠だ。そう気づいて後ずさりしようとした瞬間、背後から髪を思い切り捕まれ、地面に引き倒される。
「ああっ!」
「少し良い着物を着せてもらったからって、いい気になってんじゃないよ!」
頭上から降ってきたのは、聞き慣れた、憎悪に満ちた怒声——母だ。
「ど、どう、して……っ」
「黙れっ! あんたが私の邪魔をするからだろうが!」
容赦のない平手が私の頬を打つ。母の金切り声と暴力が恐ろしくて、私は地面に這いつくばって身を守ることしかできない。
「思ったとおり、あの愛人を屋敷に差し向けただけで、ほいほいと付いてきた」
「自分でもわかってるんでしょ。極道の若頭の隣に立つ器じゃないってね」
もう一つの影がゆっくりと歩み出てきた。
私と全く同じ、赤い椿の小袖を着た少女。髪の結い方も、化粧の仕方も、今の私と瓜二つに整えられた——双子の妹、苺だった。
「……いいい、い、ちご……?」
「うふふ。蓬おねえ、その着物、やっぱり私の方が似合うと思わない?」
苺は屈み込むと、地面に倒れる私の頬を冷たい指先で撫でた。
「立派なお屋敷で、良い男に囲われて。クチナシのおねえには過ぎた贅沢よ。これからは、私が『蓬』として、火狩様に思い切り愛していただくわ」
「……っ!」
「目の見えないあの人に、おねえと私の区別がつくかしら?」
苺は口元を押さえて笑う。自分でもぞっとするほど、私たちはよく似ていた。
「アンタの真似なんて、喋らないだけでできるものね」
「じゃあ、要らない方はしまっちゃおうかね……やれ」
深月さんの合図と共に、背後に控えていた屈強な男が私の口元に分厚い布を押し当てた。
「んっ……! んーっ!!」
必死に手足をばたつかせて抵抗するが、男の腕力には敵わない。
息ができない。頭がぐらぐらと揺れ、視界の端から急速に暗闇が迫ってくる。
私の体は完全に力を失い、冷たい泥の上へと崩れ落ちた。

