最初、蓬のことは、ただ都合のいい駒だとしか思っていなかった。
極道の跡目争いなんてものは、血で血を洗う泥沼だ。そんな中、ヘマをして目を失った。
深月との跡目争いが苛烈さを増していくことを案じた親父に、『目』の代わりとして縁談を持ちかけられた。
極道の争いに女は要らない。だが親父の顔を立てなきゃならない。だから、とにかく静かで大人しい女が欲しかった、それだけだった。
(だが、蓬はそれだけの女じゃなかった)
本家での会合の刃傷沙汰。蓬の判断がほんの一秒でも遅ければ俺は死んでいた。
迷いもなく、油断もなく、蓬は『目』を全うした。細くて折れそうな体のどこに、極道の男に対峙するほどの覚悟を持っているのか。
親父の顔を立てるためだけの契約結婚。それなのに、俺はだんだんとあいつを見えない目で追うようになっていった。
「……っ」
小さな吐息と共に、ぽん、と膝に柔らかな手が触れる。
縁側で煙草を吹かしていた俺は、見えない目をそちらへ向けた。
「ん、どうした」
俺が問いかけると、蓬は俺の手をそっと引き、開け放たれた縁側の外——庭のほうへと向けさせた。
途端に、肌を撫でる春の風と、ぽかぽかとした太陽の熱を感じる。鼻腔をくすぐったのは、微かな沈丁花の香りだった。
「温かい。いい天気なんだな。庭に花が咲いてるのか」
嬉しそうな気配と共に、蓬の小さな手が俺の指をぎゅっと握り返す。
言葉を上手く紡げない蓬と、目が見えない俺。俺たちは、普通の夫婦のように他愛のない会話を楽しむことはできない。
だが、蓬は俺が「見えない」代わりに、ほかの感覚で世界を楽しめるようにと、毎日甲斐甲斐しく動き回るようになっていた。
今日のように天気が良ければ、窓を開けて俺の手に風を当ててくれる。俺が座る文机の横には、仄かに香る花を生けてくれる。俺の羽織からは、いつもお天道様と同じ匂いがした。
(……いじらしい女)
言葉の代わりに、匂いと熱で俺の世界を彩ろうとしてくれる。
その不器用で真っ直ぐな献身に触れるたび、どうしようもなく胸の奥が甘く疼いた。俺みたいな血生臭い極道には勿体ないくらい、綺麗な女。
その日も、俺は別邸の廊下を歩いていた。ふと、奥の座敷から微かな声が聞こえて足を止める。
「——♪」
それは、針仕事でもしているのか、規則正しい衣擦れの音に混じって聞こえてくる、小さな鼻歌だった。
流行りの歌ではないが、思えば彼女の父の雁金先生は文豪であり、どこかの校歌の作詞もしていたと聞く。その歌なのだろうか。
言葉を喋ろうとすると極度に緊張して吃ってしまうアイツだが、無意識に紡がれるその歌声には、一切の淀みがなかった。鈴を転がすような、澄んだ春の陽だまりのような声。
俺は息を潜め、その心地よい響きに耳を傾けていた。
「……いい声だ」
思わず零れた俺の呟きに、座敷の奥でビクッと何かが跳ねる気配がした。
「ひゃっ!?」
「おやバレちまった。いいんだぜ、歌ってて」
俺がゆっくりと座敷に入っていくと、蓬は恥ずかしさで縮こまっているのか、気配を小さくして震えていた。俺は腰を下ろすと、布を握りしめているであろう小さな手を探す。少しの躊躇いの後、蓬の方から小さな手を差し出してくれた。
「なぁ、蓬。俺のために歌ってくれないか」
「……っ」
俺の頼みに、アイツは大きく息を呑んだ。髪が擦れる音がする。大方、大きく首を横に振って断っているんだろう。
「頼むよ。他に娯楽がねえんだ」
俺は包み込んだ蓬の手の甲に、そっと唇を落とした。
びくっと手が震え、そしてふと力が抜けた。しばらくの沈黙の後、やがて、ぽつり、ぽつりと小さな声が紡がれ始めた。
最初は震えていたその声は、俺が手を握りしめると、次第に安心したように滑らかになり、優しく、温かい唄となって部屋を満たしていった。
目を閉じれば、蓬が生けてくれた花の匂いがする。
俺の手の中には、蓬の確かな体温がある。
そして耳には、俺のためだけに歌ってくれる、世界で一番美しい声。
(ああ……俺はもう、こいつ無しじゃ生きられねぇな)
暗闇の世界で、俺は静かに微笑んだ。
愛しているなどという陳腐な言葉では足りない。俺の命を、極道としての全てを懸けて、このいじらしくて愛おしい女を守り抜く。
歌声に身を委ねながら、俺は誰にも見えない瞳の奥で、そんな静かな、けれど決して揺らぐことのない誓いを立てていた。
極道の跡目争いなんてものは、血で血を洗う泥沼だ。そんな中、ヘマをして目を失った。
深月との跡目争いが苛烈さを増していくことを案じた親父に、『目』の代わりとして縁談を持ちかけられた。
極道の争いに女は要らない。だが親父の顔を立てなきゃならない。だから、とにかく静かで大人しい女が欲しかった、それだけだった。
(だが、蓬はそれだけの女じゃなかった)
本家での会合の刃傷沙汰。蓬の判断がほんの一秒でも遅ければ俺は死んでいた。
迷いもなく、油断もなく、蓬は『目』を全うした。細くて折れそうな体のどこに、極道の男に対峙するほどの覚悟を持っているのか。
親父の顔を立てるためだけの契約結婚。それなのに、俺はだんだんとあいつを見えない目で追うようになっていった。
「……っ」
小さな吐息と共に、ぽん、と膝に柔らかな手が触れる。
縁側で煙草を吹かしていた俺は、見えない目をそちらへ向けた。
「ん、どうした」
俺が問いかけると、蓬は俺の手をそっと引き、開け放たれた縁側の外——庭のほうへと向けさせた。
途端に、肌を撫でる春の風と、ぽかぽかとした太陽の熱を感じる。鼻腔をくすぐったのは、微かな沈丁花の香りだった。
「温かい。いい天気なんだな。庭に花が咲いてるのか」
嬉しそうな気配と共に、蓬の小さな手が俺の指をぎゅっと握り返す。
言葉を上手く紡げない蓬と、目が見えない俺。俺たちは、普通の夫婦のように他愛のない会話を楽しむことはできない。
だが、蓬は俺が「見えない」代わりに、ほかの感覚で世界を楽しめるようにと、毎日甲斐甲斐しく動き回るようになっていた。
今日のように天気が良ければ、窓を開けて俺の手に風を当ててくれる。俺が座る文机の横には、仄かに香る花を生けてくれる。俺の羽織からは、いつもお天道様と同じ匂いがした。
(……いじらしい女)
言葉の代わりに、匂いと熱で俺の世界を彩ろうとしてくれる。
その不器用で真っ直ぐな献身に触れるたび、どうしようもなく胸の奥が甘く疼いた。俺みたいな血生臭い極道には勿体ないくらい、綺麗な女。
その日も、俺は別邸の廊下を歩いていた。ふと、奥の座敷から微かな声が聞こえて足を止める。
「——♪」
それは、針仕事でもしているのか、規則正しい衣擦れの音に混じって聞こえてくる、小さな鼻歌だった。
流行りの歌ではないが、思えば彼女の父の雁金先生は文豪であり、どこかの校歌の作詞もしていたと聞く。その歌なのだろうか。
言葉を喋ろうとすると極度に緊張して吃ってしまうアイツだが、無意識に紡がれるその歌声には、一切の淀みがなかった。鈴を転がすような、澄んだ春の陽だまりのような声。
俺は息を潜め、その心地よい響きに耳を傾けていた。
「……いい声だ」
思わず零れた俺の呟きに、座敷の奥でビクッと何かが跳ねる気配がした。
「ひゃっ!?」
「おやバレちまった。いいんだぜ、歌ってて」
俺がゆっくりと座敷に入っていくと、蓬は恥ずかしさで縮こまっているのか、気配を小さくして震えていた。俺は腰を下ろすと、布を握りしめているであろう小さな手を探す。少しの躊躇いの後、蓬の方から小さな手を差し出してくれた。
「なぁ、蓬。俺のために歌ってくれないか」
「……っ」
俺の頼みに、アイツは大きく息を呑んだ。髪が擦れる音がする。大方、大きく首を横に振って断っているんだろう。
「頼むよ。他に娯楽がねえんだ」
俺は包み込んだ蓬の手の甲に、そっと唇を落とした。
びくっと手が震え、そしてふと力が抜けた。しばらくの沈黙の後、やがて、ぽつり、ぽつりと小さな声が紡がれ始めた。
最初は震えていたその声は、俺が手を握りしめると、次第に安心したように滑らかになり、優しく、温かい唄となって部屋を満たしていった。
目を閉じれば、蓬が生けてくれた花の匂いがする。
俺の手の中には、蓬の確かな体温がある。
そして耳には、俺のためだけに歌ってくれる、世界で一番美しい声。
(ああ……俺はもう、こいつ無しじゃ生きられねぇな)
暗闇の世界で、俺は静かに微笑んだ。
愛しているなどという陳腐な言葉では足りない。俺の命を、極道としての全てを懸けて、このいじらしくて愛おしい女を守り抜く。
歌声に身を委ねながら、俺は誰にも見えない瞳の奥で、そんな静かな、けれど決して揺らぐことのない誓いを立てていた。

