虐げられたクチナシの乙女は極道の瞳になる

 ぽたり、ぽたり。
 灰色の雲から涙のような雫が流れる。雨が降ってきた、私は足早に家路を急ぐ。
 早く帰らなければ叱られてしまう。もう、殴られたくはない。

 ぽたり、ぽたり。
 水の下たる音が大きくなる。
 血と泥の混じったような生臭い匂いが鼻を突いた。

「——誰かいるのか」

 薄暗い路地の奥。ひとりの男が、壁に背を預けるようにして倒れていた。
 上質な漆黒の羽織は泥に汚れ、乱れた着物の襟元からは赤黒い染みが広がっている。なにより異様なのは、男の顔の上半分が、べったりと赤く濡れていたことだ。

「……花の匂いがする……女の子かい?」
「——っ」 
 
 極道者だ。大方抗争でもあって、やられてしまったのだろう。
 すぐにでもこの場から逃げたかったけど、滴る血の音が私の足を止める。彼は苦しんでいる。このままでは死んでしまう。
 
「へましちまってね。お嬢さん、手巾(ハンカチ)をもっていないかい?」

 それは、血の海に沈む男が発するには、あまりにも静かで余裕のある響きだった。
 震える手で、懐から手巾を取り出した。そっと近づき、男の大きな掌に手巾を押し付ける。
 その瞬間、男の熱い指先が、私の冷たい指に微かに触れた。

「……いい匂いだ」

 低い声は甘く響き、心臓を優しくなぞられたかのような感覚が走る。

「若! ご無事ですか!?」

 溶けるような美声に呆けていると、遠くから男たちの必死の声が聞こえてくる。
 これ以上問題に巻き込まれるわけにはいかない。幸い男は目が見えていないようだし、私の存在は誰にもばれていないだろう。
 
「あ、あ、あげる……っ、それ……」

 それだけをどうにか絞り出し、その場を走り去った。
 決して出会ってはいけない、極道者。
 その出会いは、雨と共に鳴る春雷のように唐突で、何かを知らせる合図だった。