囮の花嫁と女たらし天狐の陰謀婚

 瘴気に悩む夜、孤月は忍んでやって来るようになった。
 色めいた逢瀬ではない。ただ灰禰に新たな利用価値が生まれたから利用しているだけ。
 だから。
(どうして昼間にこの男と街を出歩いているのだろう)
 ある休日、帝都の街並みを孤月と歩きながら、灰禰は首を捻っていた。
 車道には馬車が行き交い、一段高くなった石畳の歩道には楽しげな人々が歩いている。
 灰禰は手首に巻かれた組紐を引っ張った。
「外に出るなと言っていたのは?」
 隣を歩く孤月は洋装だ。道行く女達の視線を集めているが、本人は慣れているのか平然と歩みを進めている。
「土雲美紅が現れないから、餌を外にぶら下げてみようかと思って」
「方針転換か、いいと思う」
 頷き返す灰禰は綺麗なワンピースを着ている。いつもの絣で出かけようとしたところ、孤月が巴に命じさせて着替えさせたのだ。滑らかな絹の感触が心地よく、着物よりも軽くて動きやすい。
 レースのついた裾が風になびくのを気にしていると、孤月の視線を感じた。
「何か」
「君、洋装が似合うね。綺麗だよ」
「ありがとう」
 飾り気のない返事に孤月が苦笑する。
「全然照れないねえ」
「他の女性にも同じことを言っているだろう。照れる意味がない」
 通りに面した店を眺めながら言い返せば、ぐいと肩を引き寄せられた。
 前からやって来た賑やかな一団とぎりぎりですれ違う。気づかなかった。ぶつからないよう注意してくれたらしい。
 孤月が身を屈め、耳元で低く囁いた。
「灰禰ちゃんは綺麗な娘だよ」
 灰禰はわずかに目線を動かした。思いのほか近くに孤月の顔があり、なんとなく息をひそめてしまう。
「……知っている。姉も綺麗な人だった。そしてわたしも姉に似ている。だから造形はまあまあなんだろう。だからわたしは最初、あなたが若い女目当てのすけべじじいなのだと思っていた」
「は……はあ!? そんなわけないだろ、風評被害だ!」
 のけぞって喚く孤月は本当に心外なようで、なぜかずっと灰禰の肩を抱いたまま「そう思ってたら嫁いじゃだめだろ」だの「自分で自分の身を守れ」とぼやいている。
 微妙に灰禰の身を案じている台詞なのがおかしい。
 心臓の裏側をくすぐられたような心持ちでいると、孤月が灰禰の顔を覗きこんできた。
「本当に、僕は君を可愛いと思ってるよ」
「……ありがとう」
 二度目のお礼は、先ほどよりもしみじみとした響きになった。孤月が妙ににやにやした顔つきになるので灰禰は話題を変える。
「それで、囮としては何をすればいい」
「特に決めてないけど、灰禰ちゃんは何かしたいことあるかい」
「わたしが……?」
 ふと香ばしい匂いが漂ってきて、道に面した店の一つに視線が吸い寄せられた。孤月もそちらを向く。
「たい焼き屋が気になる?」
 西田家のお使いとして帝都に来たときに、ときどき横目で窺っていたのだ。そんな金子はもらっていなかったので食べたことはなかったが。
「気になら、ない……」
 とはいえそんな事情を話すのもはしたない。けれど孤月は気軽な調子で歩いていって、たい焼きを一つ買った。
 当然のように手を引かれて、店の前に置かれた長椅子に並んで座る。
「ほら」
 包み紙にくるまれ、白い湯気を立てるたい焼きが差し出された。「ありがとう」と灰禰はおずおずと受け取る。どこから食べるか迷い、頭の部分をちぎってかじった。
「美味しい」
 小麦粉を焼いた生地は柔らかく、餡子の優しい甘さがふわっと広がる。
 灰禰はすっとたい焼きを差し出した。
「あなたも食べた方がよい」
「僕はいいよ」
「でも、美味しいものは分け合って食べるともっと美味しい」
 西田家の粗末な食事でも、槇と食べるとそう悪くなかった。美味しいたい焼きならさらに美味しくなるだろう。
 孤月は迷うように視線をうろつかせたのち、一口分だけちぎって食べた。
 もぐもぐと咀嚼した後、驚いたように目を見張る。
「……甘いね」
「もしかして、甘いものは苦手?」
「そんなことはないけど。……うん、温かくて美味しいよ」
 素直に頷いて気に入った様子なので、灰禰はほっと息をついた。
 晴空の下、穏やかな日差しが帝都を包んでいる。隣に座る孤月の髪が風に揺れるたび、黄金色にちらちら瞬く。
 人通りを眺めていた孤月がぼそりと言った。
「灰禰ちゃんは僕の名前を知ってる?」
 灰禰は食べ進めながら答える。
「天ヶ崎孤月だろう」
「でも君は僕の名前を呼ばないよね」
 単なる事実の指摘なのに、声音の底にじっとりしたものが滲み出ていた。恨みがましげな半目を向けてくる孤月に、灰禰はたい焼きを飲み下す。
「孤月様と呼ばせたいならそう言えばいい。契約書に付け加え……」
「そうじゃなくて」
 孤月は足元に目線を落とし、落ち着かなげに長い足を組んだ。
「僕の親しい人は呼び捨てにする」
「はあ」
 孤月の目元に髪が被さり、表情が窺えない。
 辺りには店の呼びこみや人々の足音がひしめき、かすかに口を動かした孤月の声は届かなかった。「え?」と聞き返すと、孤月の唇がきゅっと引き結ばれる。
 それからもう一度、一言ずつ区切るように呟かれた。
「灰禰ちゃんも、そうしても、いいよ」
 灰禰はきょとんとした。
「孤月?」
 ただ名を呼んだだけだ。けれど孤月はこわばった頬の線を緩め、満足そうに頷いた。
「うん」
 通りを吹き抜けた風が孤月の前髪を翻す。
 きっと彼自身も髪で隠されていると油断していた一瞬。
 孤月の顔つきは無防備に和らいでいた。たった今、世にも美しい音楽を聴いたとでもいうように、目を細めて。
 灰禰は食べ終えたたい焼きの包み紙を折り畳む。不必要なほどに小さく。たった今見たものと与えられたばかりの権利をどうすればいいのかわからなくてそわそわする。
「なら、わたしも呼び捨てにして。親しい人だけではなく、わたしを見下す人間も灰禰と呼んだけれど」
 それが公平な気がした。
 孤月が組んだ足に肘をつき、掬い上げるように灰禰の顔を見る。
「へえ。灰禰、僕の場合はどっちだと思う?」
 名を呼ぶ声は柔らかく、鼓膜にすっと染みこんでくるようだった。姉に呼ばれたときと似ているが、別の何かが混ざっている。
 体温が上がるような感覚を覚え、灰禰はふいと顔をそらした。
「わたしにはわからない」
「わかってるだろ、僕に言わせるなよ」
 孤月の指が伸ばされる。戯れのように顎の下を撫でられる。こそばゆさに「ふふっ」と息を漏らして笑うと指が止まった。かと思えば両手で頬を包まれて、強引に目を合わせられる。
「どっち?」
 孤月の両目は奇妙な熱を帯びていた。今まで灰禰が他人の面上に見たことのない、地上の全てを焼き尽くしてしまいそうな熱だった。
 包み紙が掌中でくしゃりと音を立てる。落ち葉が踏み砕かれる音に似ていた。決して答えを間違えてはいけない問いだと、本能が告げた。
「……親しいほう」
「よくできました」
 不穏な陰を拭い去り、孤月がぱっと笑顔を作る。組んだ足の爪先が弾むように揺れていた。こんなにご機嫌なのは珍しい。灰禰はたいてい孤月を怒らせるか呆れさせるかしているので。
 口の中には、たい焼きの甘さがまだ残っている。
 真意はよくわからないが、孤月が嬉しそうなのでよしとした。