囮の花嫁と女たらし天狐の陰謀婚

 与えられた離れは隙間風が入りこみ、雨が降ったら雨漏りしそうなあばら屋だった。
 とはいえ西田家の使用人部屋と比べれば広いし、小さな庭もあって仮住まいとしては悪くない。
 囮の花嫁となってから二週間、灰禰はせっせと離れの修繕や掃除に励んでいた。
「奥様、お昼ご飯を持って来ましたよー」
 明るい声が離れの庭に響いて、灰禰は種蒔きをしていた手を止めた。
 見れば、天ヶ崎家のお仕着せを着た少女がにこにこと手を振っている。もう片方の手には風呂敷包みを持っていた。
「ありがとう、巴」
 当主夫人付きという名目で付けられた女中の巴だった。灰禰よりも二、三歳下だろう。おそらく灰禰が逃げ出さないよう監視する役割も担っているのではないかと思う。この結婚が訳ありなのは知っているようで、一応当主の妻である灰禰が離れで暮らしていても何も言わない。孤月から放置された灰禰の世話を焼いてくれて助かっている。
「今日は梅干のおにぎりですよー。あと漬物ももらってきました!」
「最高」
 庭の隅にある石に座りおにぎりを分け合った。庭仕事で疲れた体に梅の酸味が染み渡る。
 森を抜ける風は冷たいけれど、青空から注ぐ日差しのおかげで日向は暖かい。
「今日は寧々子様がいらしていて、お屋敷の方は賑やかでしたよー」
「寧々子?」
「野田家のご令嬢です。すごくお綺麗な猫又の妖憑きで、とても力が強いんだそうです。当主様にぞっこんなんですよ」
 初日以来、灰禰は屋敷に足を踏み入れていないが、巴によると孤月を慕う女たちがひっきりなしに出入りしているらしい。孤月は毎日違う女と過ごすのだという。
「ふーん」
 夫である孤月の華やかな生活を聞かされても、灰禰の心は全く動かない。おにぎりを食べ続ける灰禰に、巴が苦笑した。
「奥様は何かお困り事はありますか?」
「壁を修繕するための木材が足りない」
 隙間風を塞ぐために板を打ちつけているのだが、とうとう手持ちが一つもなくなってしまった。深刻に告げた灰禰に、巴が呆気に取られたような顔をする。
「木材ですか? ええと、お屋敷の廃材置き場ならあるかもしれません。もらって来ますよ」
「なら一緒に行こう」
 午後の予定が決まった。
 二人で大八車を転がして屋敷へ向かうと、そこかしこから賑やかな話し声が届いてきた。
 外から見える廊下には綺麗な着物を着た女たちが行き交い、いくつもの足音が屋敷を押し包んでいる。厨からは炊事の煙が立ち上り、料理の匂いが漂ってきた。二人しかいない離れとは大違いだ。
「廃材置き場はどこ?」
「屋敷の裏手にあります。庭からぐるっと回っていけば……」
 巴が説明してくれたとき、甲高い声が割りこんだ。
「あら、あんたが孤月様の花嫁とかいう女?」
 縁側に女が立っている。顔面には美しく化粧を施し、身にまとう薔薇柄の振袖も相まって、一際華やかな雰囲気だった。
「はい、そうです」
 素直に頷いた灰禰に、巴が囁きかける。
「先ほどお話しした寧々子様です」
 なるほど、と灰禰は寧々子を見返した。きゅっと釣り上がった眉と目には、こちらを蔑む色がありありと浮かんでいる。自信家で気が強そうだ。
 寧々子は灰禰のつむじから爪先まで眺めると、紅で塗られた唇を歪ませた。
「あの孤月様が選んだというからどんな女かと思えば、全然大したことないわね。貧相だし、無愛想だし、陰気だわ。孤月様はあんたのどこが良かったのかしら」
 馬鹿正直に話すわけにもいかない。灰禰は黙って頭を下げた。使用人時代から慣れた仕草だ。偉い人間の理不尽な叱責は、ただ頭を低くして嵐が通り過ぎるのを待つに限る。
 それが神経を逆撫でしたのか、寧々子の声はますます尖った。
「なんであんたなのよ。私だって孤月様の妻になりたかったのに! この屋敷で私が一番愛されてたのよ? 孤月様と過ごした日数だって一番多かったの! あの方が何回愛してると囁いてくださったか! なのに、なのに!」
 騒ぎを聞きつけたらしく、辺りに人々が集まり始める。着飾った女に、使用人たち。寧々子を止める者はなく、物見高い様子で見物している。
「私の方が花嫁にふさわしいわ! 血筋も美貌も、全部私が上回ってるもの! あんたが私より優れている所って何よ! 答えなさい!」
 命令に呼応するように、灰禰の頭がひとりでに持ち上がった。妖術だろうか。見えない手で顎を掴まれたように、灰禰は寧々子を見上げていた。
「ほら、何か言ってみなさいよ。言えるもんならね」
「ぐっ……」
 気道を絞められたように息が苦しくなってくる。喉を掻きむしる灰禰に、寧々子の嘲笑が浴びせられた。
「あっはは、こんな力にも抵抗できないなんて、あんたみたいな女は孤月様にふさわしくないわ!」
 寧々子が片手を振り上げた。風が逆巻いたかと思うと、鎌鼬となって灰禰を襲う。
「うっ」
 絣の袖が切り裂かれ、肌にも一文字の傷が走る。寧々子が優雅に手を下ろすと、鎌鼬はかき消え、灰禰の首を絞める力も消え去った。灰禰は庭に敷かれた白砂の上に崩れ落ち、げほげほと激しく咳きこんだ。
「あらあら、ごめんなさいね。これくらい避けられるかと思ったのよ」
 さも心配げに言うが全く心がこもっていない。周囲を囲む人々もひそひそ囁き合うばかり。
 けれど一人だけ、灰禰を心配してくれる人がいた。
「奥様、大丈夫ですかっ」
 後ろに控えていた巴が灰禰に駆け寄り、背中をさすってくれる。背を何度も往復する小さな手のひらが温かい。
 寧々子が柳眉を逆立てた。
「あんたその女を庇うわけ⁉︎」
 風が渦巻くや否や、「きゃあっ」と巴が悲鳴をあげる。突風に薙ぎ倒されそうになりながらも、灰禰の目にははっきりと刻まれた。巴の手の甲にできた、長い切り傷が。
 瞬間、目の奥がカッと熱くなった。
「やめてください」
 震える膝を叱咤して、巴を背中に庇っていた。
 まだ呼吸は整わない。それでも目尻に浮かぶ生理的な涙を拭い、縁側に立つ寧々子を睨め上げた。
「わたしを攻撃するのは構わない。でも、巴を巻きこむな」
 敬語が剥がれ落ち、ぶっきらぼうな素の話し方になってしまう。
 寧々子はフンと鼻を慣らし、「本性を表したわね。なんて野蛮なの。怖ぁい」と袖で口を覆う。
 灰禰は懐に手を突っこみ、離れから持ってきた物を取り出した。
「あら、そんな枝で歯向かう気かしら。平民が逆らったって、意味なんてないのよ?」
 灰禰の手元にあるのは何の変哲もない枝だ。寧々子はあからさまに小馬鹿にし、周囲の賛同を求めるように両手を広げた。
「華族教育を受けてないから、頭も悪いのね。皆さん、ご覧なさいよ。あんな棒切れで、どうにか、なると……」
 周りの人々の眼差しが訝しげになってゆく。話すうちに彼女の目はとろんとしてきた。語尾もあやふやで、呂律が回らなくなっている。白い頬が赤く染まり、呼吸が荒い。
 灰禰は枝に息を吹きかけ、思い切り放り投げた。
 枝は綺麗な弧を描いたが、寧々子には届かず庭にぽとりと落ちる。反抗には何の意味もない。
 ——はずだった。
「にゃーーーんっ!!」
 庭に響いたのは猫さながらの鳴き声。寧々子の頭から猫耳が生えたと思うと、彼女は庭に転がった。振袖が白砂にまみれるのも構わず地面を這うと、両手で枝を握りしめてふんふんと匂いを嗅いでいる。顔は酔ったように真っ赤だ。突然の狂乱に人々が大きくどよめく。
「な、何が……?」
 どん引きしている巴のそばに、灰禰は膝をついた。
「あの枝、またたびなんだ。猫又にもよく効く」
 かつて読んだ土雲の術書に書いてあった。そこで枝を森で拾ってきて、さらに術をかけて匂いを強くしたのだった。念の為持っておいてよかった。
「それより、腕を出して」
「え?」
 人の目が寧々子に集中しているうちに、灰禰は巴の傷口にふっと息を吹きかける。白い光とともに、瞬く間に傷が塞がる。
「痛みはない?」
「え、奥様、今のは……?」
 灰禰は無言で唇の前に人差し指を立てた。あまり出自を詮索されたくない。
 その気持ちを汲んでくれたのか、巴はぱっと両手で口を押さえて頷いてくれた。交わった視線の中に、共犯者めいた色があったのはきっと気のせいではないはずだ。
 またたびに夢中になって手のつけられなくなった寧々子は、使用人によって外へ運び出されていった。
 灰禰と巴が大八車のそばに戻ろうとすると、他の女達が集まってくる。一様に顔を明るくして、きらきらした目で灰禰を見つめてきた。
「あなた、すごいわね。胸がスッとしたわ」
「寧々子さんってまるで当主様の特別みたいに振る舞っていて嫌だったの」
「自分より格下の華族や使用人に横柄だし、本当に雰囲気を悪くする方だったわ」
 どうやら寧々子の評判は悪かったらしい。巴もうんうんと頷いている。灰禰としては我慢できなかっただけなので、手放しに褒められると居心地が悪い。
 首を縮めて賛美の嵐に耐えていると、一人の女が「それにしても」と寧々子の運ばれていった先に顔を向けた。
「あの方、自分が一番当主様に愛されているなんて言っていたけれど、お笑い種よね」
 どういう意味かと視線を巡らせれば、女達は心得顔で頷き合っている。口火を切った女が、儚く笑って呟いた。
「孤月様は誰も特別になんかしないもの」
 あまた向けられた褒め言葉は耳を通り過ぎていったけれど。
 なんとなく、その言葉だけは胸にするりと落ちてきた。

 *

 夕刻、国の中枢である大極殿で、天ヶ崎家当主として会議を終えたばかりの孤月はため息をついていた。
 大極殿の回廊は蓮池をぐるりと囲んでいる。回廊から池に突き出た露台に、孤月はふらりと足を向けた。夏になると桃色の花を咲かせ、仕事に疲れた目を楽しませてくれる蓮池だが、冬の今は枯れた茎がまばらに水面に顔を出すばかりで寒々しい。
 欄干に肘をついていた孤月は、背後から近づいてくる足音に頭だけで振り向いた。
「たそがれているな。女たらしの孤月にしては冴えない顔色だ」
「……うるさい」
 話しかけてきた黒髪の青年は同じ妖憑きの百目鬼市倉。苗字の通り鬼を先祖に持つ名家の嫡男で、孤月とは同い年だ。昔から家ぐるみで親交があり、友人といってもよい。
「結婚したと聞いた。おめでとう……でいいのか?」
「どうだろうね」
 生真面目な市倉の問いに、孤月は肩をすくめる。この結婚が真に寿がれるべきなのは、尾を取り戻した時だろう。
 夕暮れの冷ややかな風が水面を渡り、孤月のまとう正装の袴の裾を揺らしていった。普通の人間なら寒がるのだろうが、孤月は平気だった。尾を奪われてから感覚が鈍麻しており、暑さも寒さも分厚い膜を隔てた程度にしか感じられない。どれほど豪勢な料理を出されても砂を噛むのと同じだし、どんな美女に触れても熱も上がらない。
 市倉が一歩距離を縮め、声をひそめた。
「お前は奥方をひどく冷遇していると聞く。だが考えなしにそんなことをする男ではないだろう。奪われた尾と関係があるのか」
 見事言い当てられても孤月は眉一つ動かさなかった。唇に微笑さえ湛えてみせる。
「どうして急に?」
「もうすぐ妖夜祭があるだろう」
 帝の前で妖憑きの力を披露し、家同士の格を決める儀式だ。今までは百目鬼家が最上位だったが、孤月が数年前に当主になってからは天ヶ崎家が頂点に君臨している。八尾でもそれくらいは容易かった。
「そうだったね。市倉の御尊父は張り切っているかい」
「孤月を打倒するとそればかりだ」
 昨年の一夜祭では、百目鬼家の当主である市倉の父親を孤月があっさり下して頂点が決まった。人目も憚らずに悔しがっていた彼を思い出し、市倉と顔を見合わせて苦笑する。
「今年も僕が勝つよって伝えておいて」
「よしてくれ。父上は憤死しかねない」
「市倉が当主になればいいのに」
 淡紫と橙の入り混じった夕空を背景に、市倉の笑顔がぼやけた。
「俺は未熟の身だ。幼い頃から将来を嘱望されていた孤月とは違う」
 市倉は眩しそうに目を細める。遠い星を眺めるような、憧れを宿した瞳だった。
 繰り返し告げられてきた言葉に、孤月は池の水面に目を移す。
「僕は市倉と競うのも楽しそうだと思うけど」
「まあ、いつかはな。……そういえば」
 これもいつも通りの受け答えをした市倉が、思い出したように話頭を転じた。
「大極殿の門番が苦情を言っていた。門前にお前目当ての娘達が集まって迷惑だと」
 孤月の心にはさざなみ一つ立たない。
「あー、ごめんね? 僕ってば人気者だから」
 軽やかに片目を瞑ってみせると、市倉が腕組みして孤月を見返した。
「孤月は俺の友人だと思っているが、本当にその悪癖だけは治した方がいいぞ。……あまり自暴自棄になるな」
 心配げに付け加えられた最後の一言がどうにも鬱陶しくて、顔をしかめたくなるのを唇に力をこめて耐えた。市倉は友人だ。悪意がないこともわかっている。代わりに口がすらすら回った。
「いいじゃないか。人生は短い。本当は、美しい女性と遊ぶくらいの時間しかないのさ。市倉も恋人の一人や二人作ったらどうだい」
「なっ……! あと、恋人は一人で十分だ!」
「純情だねえ」
 耳の端を赤くした市倉を置き去りにして門前へと向かう。
 ときどき手を振ってくる女官に愛想よく振り返しながら、頭には十二年前のことが思い出されていた。
 自分にとって土雲美紅とはなんだったのだろう。
 八尾でも最上位になれるのだ。一尾くらいなくても構わないではないかと家中の人間からやっかみ混じりに言われることがある。
 いいわけがない。力の根源である尾を奪われたのだ。必ず取り返さなければ気が済まない。犯人である土雲美紅は地獄に叩き落とす。
 だが時折、もう一度会ってみたいだけではないのか、とも思う。
 土雲美紅は優しいふりの上手い女だった。
 鍛錬で傷ついた幼い孤月に薬を塗り、眠れない夜には子守唄を歌った。妹にも聞かせたというそれは、真夜中に打ち寄せる波みたいな響きの歌だった。
 決して、恋、などではなかったが。
 天ヶ崎家の当主の座を巡り、殺伐とした環境にいた自分にとって、心安らげる場所だったのは確かだ。
 門前に到着すると、着飾った女達が群れをなしていた。色とりどりの着物を着て、思い思いに髪を結っている。恐らく最も美しく見える装いなのだろう。誰も区別がつかないが。
「孤月様〜!」
 口々に呼ばれる己の名に笑顔を返していると、一人が孤月の手に触れた。やけに艶かしい手つきで指を絡めてくる。
 冷たい。
 鈍麻した五感ではわかるはずもないのに、心臓に氷でも押し当てられたごとく産毛が逆立った。
 ふと、あの娘の瞳がよぎる。土雲美紅の妹——灰禰。
 明らかに一方的な婚姻を強要したというのに、泣くでも嘆くでもなく、ただ底なしの夜空に火花が爆ぜるような目つきでこちらを見つめてきた、奇矯な女。
 信頼できないだの、権利と義務を書面に残せだの好き勝手言っていた。第一、いたぶるといいとはなんなのだ。こちらを嗜虐癖のある野蛮人とでも思っているのか。
 顔は姉に似ているが、あの図太さは似ても似つかない。
 しばらく会っていなかったが、どう過ごしているのだろう。
 冬の太陽は急速に暮れかかり、空は深い藍色に染まり始める。道の両脇に連なる官衙の軒先には灯籠が吊るされ、役人たちが火を入れていた。
 ろくに手入れもされておらず、行灯の一つもない離れを思う。
 どうせあの娘は暗闇で泣いているに決まっている。裏切り者の土雲美紅の妹なのだ。いくら強気な発言をしたとて、行動は伴わないはずだ。
 女たちと連れ立って歩き出しながら、髪を乱す風に顔を上げる。夜を欺く街明かりの遥か上、西の空には宵の明星がぽつんと浮かんでいた。
 けれど、もしそうではなく、彼女が言葉通りの人間なら……。
「孤月様、何か楽しいことでもありましたか?」
 女に聞かれて、知らず口角が上がっていたことに気づく。
「もちろん、お前達に会えたから機嫌がいいのさ」
 甘い言葉を吐いて屋敷に帰った孤月は、奇妙な事件の顛末を聞くことになったのだった。

 *

 すっかり日が落ちた頃、離れに珍しい客人がやって来た。
「帰宅した当主を迎えに来ないなんて、ずいぶん良いご身分だね」
「本当にいい身分なんですよ。こんな素敵な住まいをご用意くださりありがとうございます」
 離れの座敷には、薄銀色の羽織に正絹の袴をあわせた孤月が座っていた。
 偉そうに腕組みし、室内をぐるりと見渡している。隅には火鉢が置かれ、その上で鉄瓶が静かに湯を沸かしていた。鴨居には森から摘んできた薬草が乾燥のためにぶら下がり、清々しい香りを漂わせている。
 巴は屋敷に帰ってしまったので二人きり。灰禰は一応頭を下げてから孤月に主張した。
「出迎えが必要なら契約書に付け加えてください。そうしたら次からきちんとやります」
「いらないよ。帰って最初に君の顔を見るのはぞっとする」
「そうでしょうね。ところで、何か御用ですか」
 言い争っても仕方がない。受け流して問えば、孤月の双眸がこちらを捉えた。
「今日、野田寧々子を庭に転がしたんだって?」
 灰禰は首を傾げた。
「あの方が勝手に転がったんですよ。わたしは棒切れを投げただけです。彼女があなたのお気に入りだったなら謝った方がよいですか」
「いや、別にいいけど。顔も覚えてないし」
 本当になんの頓着もなさそうに言われるので拍子抜けしてしまった。てっきり愛人を無様な目に遭わせたと怒られるのかと思ったのに。
「では、何をしにここへ?」
「君が怪我をしたと聞いたから」
「わたしが怪我をしたからなんです?」
 治癒の術は自分自身には使えない。とりあえず腕にはすり潰した薬草を塗り、包帯を巻いている。
 しばらく孤月は口を固く閉ざしていた。灰禰の腕と干した薬草を見比べたあと、苦いものでも飲んだように顔をしかめ、懐から小さな陶器を取り出した。
「薬でも必要かと。君が死ぬと囮の役目を果たせなくなるから」
「そういうことでしたか。ありがとうございます」
 素人の治療より、きちんとした薬がもらえるのはありがたい。受け取った陶器を開けると、よく効きそうな苦いにおいのする軟膏が入っていた。
「せっかく持ってきてあげたんだから早く塗れ」
「では、お言葉に甘えて」
 寝巻きの袖を捲り、包帯を外す。あらわになった腕に孤月の視線を感じた。傷口は真っ赤なみみず腫れになっている。
 孤月が一瞬、体を乗り出すように身じろぎして、すぐに薄い座布団に座り直した。
「……君がまたたびを投げたのは、女中が傷つけられた後のことらしいね。自分が襲われたときは何もしなかったとか」
「わたしが黙っていれば済む話ですから」
 軟膏を塗りつつ答える。孤月の顔は見なかった。どうせ呆れているに違いない。
 案の定、孤月はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「それなら女中だって同じじゃないか」
「全然違います。誰かが傷つくのは嫌です」
 少なくとも、灰禰にとってはそうだった。誰に何を言われても譲るつもりはない。
 火鉢にかけた鉄瓶の中で、湯の沸く音だけがかすかに響く。
「言っておくけど」
 妙に真剣な声が灰禰の耳を打った。
「結婚した以上、君の命も体も僕のものだ。勝手に損なうことは許さない」
 顔を上げると、真摯な表情をした孤月と目が合った。灰禰は小さく息を飲みこむ。こんな顔をした彼を初めて見た。
 囮が失われては意味がない。それだけの話だ。
 だというのに、まるで心配されているかのように錯覚しそうになる。
 灰禰は呼吸を整えて包帯を巻き直し、きゅっと結び目を作った。
「わかりました。わたしも姉に会うまでは五体満足でいる必要がありますからね」
 姉に話題が及んだ途端、孤月の顔が憎々しげに歪む。
「土雲美紅は全然現れないね。君って愛されてなかったんじゃない?」
「そんなことはありません。姉はわたしをとても可愛がってくれていました」
「どうだか。全部演技だったんじゃないのかい。だって君を置いていったんだろ」
 凍りついたはずの心が、握り潰されたみたいに軋んだ。
 最後に会った姉の顔がちらつく。必ず戻ってくる、と言ったのだ。
「土雲美紅を信じてるわけ?」
 せせら笑いに似た、露悪的な口調だった。けれど相変わらず目は少しも笑っていなくて、反応を見定めるように冷静な光を宿している。
 灰禰はうつむき、自分の手首を掴んだ。
「信じたい、です。でも、そんなことより、わたしは……」
 十二年前から胸に打ちこまれている、墓標のような願いを告げた。
「もう一度だけでいい、ただ大切な家族に会いたいだけなんですよ」
 はっ、と息を詰めるような音が聞こえた。
 灰禰の手首には指の痕が赤く残る。
 孤月の表情を確かめようと顔を上げる。その一瞬前、ふっと行灯が消えた。
「あれ、蝋燭はまだあったはずなのに」
 今夜は月もなく、丸窓は夜に塗りこめられている。火をつけ直すために腰をあげたとき、低い呻き声が闇を伝って聞こえてきた。
「どうしました?」
 孤月の方へ問いを投げても返事はない。ただ、四囲を押し包む闇が粘度を増した。肌を這い上り、じりじりとした痛みさえ感じさせる不吉な気配に、灰禰はハッと息を呑む。
「これは、瘴気……?」
 力の安定を失った妖憑きが放つとされる禍々しい陰の気だ。放置しておけば本人の体を蝕み、命を失うこともあるという。
 苦しげな息遣いがした。
「尾を切られた影響だ。ときどきこうなる」
 体がこわばり、灰禰は声も出なかった。嘘とは思わなかった。九尾を持っていたという孤月が瘴気を放つなんて、それ以外には考えられない。姉は知っていたのだろうか、この影響を。
 今、初めて、彼女の犯した罪の重さを正確に測った気がした。
 横たわる闇の向こう、孤月が立ち上がる気配があった。
「僕は帰る」
「……えっ?」
「瘴気に触れれば妖憑きだって体が弱まる。ただの人間ならなおさらだ」
 重い足音が出口の方へ向かう。言葉の意味を理解した瞬間、灰禰は声を上げていた。
「待ってください」
 手探りで伸ばした手が、何か柔らかなものをもふっと掴んだ。獣の尾だ。おそらく力が暴走して、天狐の性質が顕在化しているのだろう。
 ほっとしたのも束の間、孤月が激しく身をよじった。
「離せ!」
 孤月の怒鳴り声が部屋に轟いた。少し驚いて、荒らげた声を初めて聞くからかと気づく。この人はずっと冷たかったけれど、仇の妹である灰禰に、一度も暴力は振るわなかったから。
「そんなわけにはいかない」
 敬語で繕う余裕も失われる。暴れる尾を押さえながら、気づけば口に出していた。
「わたしが瘴気を祓う」
 手の中で、尾がうねった。
 孤月が薄く笑う。この世の全てを諦めたような、もの悲しい響きだった。
「そんなことができるものか」
「できる」
 言い切ったけれど、自信はなかった。治癒の術の応用だとは思うが、瘴気なんて祓ったことがない。
 でも、と今は痛みの引いた己の傷を思う。もらった薬はしっかりと胸元に収まっている。
 できるできないではない。
 やるのだ。
 暗闇に目が慣れてきた。痛みを堪えるように片手で顔を覆う孤月がうっすら見える。尾が両手からすり抜けた。立っているのが辛いのか、孤月が座りこんだのだ。
「……好きにしろ」
「そうする」
 背に触れた瞬間、手のひらの下で筋肉が反応する。嫌がるように尾がべしりと灰禰の顔を叩いた。
「暴れないで。わたしはあなたを傷つけない」
 治癒と同様に、背中の真ん中辺りに息を吹きかける。たいていの力の源は心臓だ。けれど瘴気が弱まる様子はなく、かけた術は闇に絡め取られる。
 孤月の肩が苦しげに上下した。着物越しにも体が発熱しているのがわかる。焦りで灰禰のこめかみに汗が滲む。
 ふと、今まで孤月から聞いた話が浮かんだ。
(……天狐の力の源は尾)
 迷っている暇はない。尾にえいやっと抱きつき、霊力をこめて息を吹きかけた。
 ぴん、と霊力が糸のように張った。不思議な体験だった。いつもは相手に流れてゆくだけの霊力が、光る糸となって孤月と繋がる。初めて抱いた感覚だ。
 戸惑っているうちに真っ白な光が尾から広がり、孤月を包みこんでいった。繋がりを介して霊力が孤月へ怒涛のごとく流れこみ、輝きが増してゆく。
 光が消える頃には、孤月の息はだいぶ落ち着き、熱も下がっていた。
「まさか、本当に瘴気を抑えこんだのか……?」
 唖然とした風情の孤月に、灰禰は額の汗を拭う。謎めいた術を使ったせいか、体がだるい。
「な、なんとかなった」
「なんとかなるものじゃない。瘴気はどんなに優れた妖憑きの妖術でも祓えないんだ」
「土雲の術だから効いたのかもしれない」
 元を辿れば妖に対抗して編み出された術だ。妖憑きに効くのは当然とも言える。
「また瘴気が出たら、ここに来て。わたしが祓う」
 孤月が無言で片手を振る。行灯に火が灯り、部屋が淡く照らされた。
 眩しくて何度か瞬いていると、思案げに押し黙っていた孤月がこちらへ顔を向ける。
「よく僕を助けようと思ったね。君にとっては憎い男だろう。囮にして、こんな離れに閉じこめて。それなのにまた祓う? 何を考えているんだ?」
 何をと問われれば答えは一つ。灰禰は懐に収めた陶器の感触を確かめた。
「目の前で苦しんでいるあなたを放っておけない。それだけ」
 孤月はしばらく灰禰を見つめていた。榛色の両目の底で、行灯の明かりがさゆらぐ。
 灰禰も見つめ返す。先にそらしたのは孤月だった。目元に落ちかかった髪を払う仕草で、交わった視線を断ち切った。
「そう。僕は一応、天ヶ崎家の当主で、この国の妖憑きで一番強いんだけど」
「知っている、急に自慢してどうしたの」
「……君に助けられるほど弱くない」
 拗ねたような口ぶりに、灰禰は真面目に頭を振った。
「あなたが弱いから助けたわけじゃない。わたしは誰かを助ける力を持っている。なら、その力を使わないと。それに、そもそもあなたが先にわたしを助けた。善行には報いがあってほしい」
 腕に巻いた包帯を示す。孤月は足を崩して胡座をかき、膝に頬杖をついた。
「君って信じられないほどお人よしだよね」
「お人よしは、あなたの愛人を庭に転がさないと思う」
「それもそうか」
 孤月は納得したように頷いてから、不思議そうに瞬きした。
「そういえば、君の話し方はそっちが素なのかい」
「あ」
 灰禰の肩がぎくりと揺れた。つい敬語を抜いたまま話し続けてしまっていた。
「申し訳ありません。もちろん目上の方には敬語を使います」
 西田家での使用人生活で叩きこまれたが身に馴染まなかった。敬意のなさが伝わるのだろう。可愛げがないので余計に伯父伯母からは疎まれた節がある。自業自得だ。
「僕に敬語を使わなくてもいいよ」
 灰禰は目をぱちくりさせた。
「あなたは天ヶ崎家の当主で、最強の妖憑きなのでは?」
「本当にいい性格してるよね。一応、僕たちは土雲美紅を探しているという点では対等だ。わざわざ敬意を表してもらう必要もない」
 孤月は薄い座布団に座って姿勢を崩しているが、化粧箱に収められた上手物のような気品を漂わせている。きっと彼の中に、自負や誇りが根づいているからだろう。灰禰ごときがどう接しようと彼の本質には何の影響も及ぼさないに違いない。
 灰禰は体から力を抜いた。
「そう。話しやすいから、その方が助かる」
 孤月が訝しげに顎を撫でている。
「土雲の術とは一体何なんだ」
「体内の霊力を他者に活力として分け与える力だと聞いた。今はわたしの霊力をあなたに送って、均衡を欠いた力を安定させている、のだと思う。変なことはしていないから安心してほしい」
 術書にあった内容と推測を交えて伝えると、孤月が大きくため息をついた。
「充分変なことだ。……だが、僕は君に助けられた。ありがとう」
「え?」
 付け加えられた感謝の言葉に、灰禰は一瞬のけぞった。初めて孤月に礼を言われた。囮の花嫁に感謝する意味などあるのか。
 孤月はむすっと腕組みしている。
「僕が礼を言うのがそんなに意外?」
「意外だ。聞き間違いかと思った」
「正直すぎるだろう。もう帰ろうかな」
「待って」
 孤月が立つそぶりを見せたので、灰禰は慌てて羽織の袖を掴んだ。孤月はすぐに腰を下ろし、「へえ?」と意味深に片眉を上げてみせる。
「僕に帰ってほしくないんだ? 今晩は一緒に過ごしてあげようか。朝までいい夢を見せてあげてもいいけど」
「いいや、離れは狭いから帰ってほしい。ただ、どういたしまして、と言いたかっただけ」
 これまた正直に告げれば、孤月はぽかんと目を丸くする。
 そうして、こみあげる笑いを噛み殺すように喉を鳴らした。
「やっぱり君って本当に変だよ」