土雲灰禰が笑い方を忘れたのは六歳。
たった一人の家族である姉が、帰って来なかったある春の日。
それから十二年、灰禰の心が揺れ動いたことはなかった。
*
真冬の洗濯ほど辛い仕事はない。
養家である西田家の庭で、灰禰は洗濯物を洗濯板にこすりつけていた。
吐く息が白く凝る。銀盥に張った水には雪が落ちて、今にも氷が張ってしまいそうだ。指は痺れてもう感覚がない。
「冷たいっ、もう嫌だよぉ」
同じく洗濯に励んでいた使用人仲間の槇がべそをかく。彼女も汚れた襦袢を洗っており、規則正しく手を動かす灰禰を涙目で見つめてきた。
「灰禰は辛くないの?」
「わたしも、冷たいと思う」
ちらとも表情を動かさずに灰禰は答えた。「だよねえ」ぶっきらぼうな返事にも槇が気分を悪くした様子はない。数年来の付き合いなので、灰禰の無愛想さには慣れてくれている。
「早く終わらせて竈のそばに行こ……痛っ、あかぎれできちゃった」
「貸して、槇」
灰禰は自分の着物で手の水気を拭ってから、そっと槇の手を取った。節々が真っ赤に裂けた槇の指に、ふうっと息を吹きかける。
途端に傷口が白い光に覆われ、みるみるうちに治っていった。
「みんなには、内緒ね」
「いつもありがとう。すごいね。こんな不思議な技が使えるなんて、本当に華族様のご落胤じゃないの?」
無邪気な槇の賛辞に、灰禰は首を横に振った。
——この国は、妖の血を引く華族によって守られている。
この国がまだ秩序を持っていなかった時代。尽きぬ戦乱を悲しんだ妖たちが、その不思議な御業をもって国を治めた。治水で揉めていた村には剛力で堤を作り、いがみ合う村同士は心の声を直接伝えることで不和を取り去った。
やがて偉大なる妖たちは人間と交わり、妖憑きの子孫たちには様々な妖術が発現した。そしてその子孫たちもまた、妖術を用いて国を守った。
元号が泰正となる今になっては、妖を先祖に持つ家は華族位を与えられ、帝都で豊かな暮らしを送っている。
特に鬼・天狐・天狗を始祖とする三家は妖三家と呼ばれ、強大な権力を持っていた。
だから槇も、不思議な力を使う灰禰を華族だと誤解したのだろう。
現実は違う。灰禰は、逆賊の末裔だ。
『土雲』と呼ばれる、妖に対抗しようとした術師の一団だ。
妖と似たような技を使ったというが、しょせんは人間風情。妖にはとうてい及ばず、すぐに歴史から姿を消してしまう。
だが、決して消滅したわけではない。
太古より子供たちに細々と術を伝え続け——それも、灰禰の代で途絶えようとしている。
「灰禰! 旦那様と奥様がお呼びだよ!」
女中頭の大声が庭に響き、灰禰はハッと顔を上げた。
縁側に仁王立ちになった女中頭が、険しい顔で灰禰を見下ろしている。
「とっとと行きな! 遅れるとアタシが怒られるんだからね」
「はい、わかりました」
灰禰が素直に立ち上がると、女中頭は満足したようにドタドタと立ち去った。槇がこそっと囁く。
「あとは私がやっとくから大丈夫だよ。でもどうしたんだろう、旦那様たちが灰禰を呼ぶなんて珍しいね」
有難い槇の申し出に、「ありがとう、すぐに戻る」と言い置いて縁側に上がった。
(ろくでもない用事に決まっている)
縁側と庭を仕切るガラス戸に映る自分の顔は、愛想のなさを差し引いても暗い。そっけなく括っただけの長い黒髪は力なく背に流れ、深い藍色の瞳には我ながら光がない。
胸をよぎる嫌な予感に、灰禰は唇を引き結んだ。
*
西田家で最も大きな座敷では、当主夫妻が床の間を背にして待ち構えていた。
「遅い!」
襖を閉ざした途端に飛んできた叱責に、灰禰はすぐさま土下座する。
「申し訳ございません。伯父様、伯母様」
「相変わらず無表情で気味の悪い……」
当主の巽が忌々しげに舌打ちする。その隣に座った妻の明子も、汚物を前にしたような目で灰禰を睨んだ。
「まったく、あなたの父親が私の兄だったおかげで、私たちがあなたみたいな不気味な子を育てなくちゃならなかったのよ」
両親を早くに亡くし、頼みの綱の姉が失踪した後、六歳で孤児となった灰禰を引き取ったのは、西田家だった。明子は土雲に嫌気が差し、若い頃に出奔したという。
彼らは逆賊の証である土雲という苗字を西田に変えさせ、養子ではなく使用人として灰禰を扱った。
わずかに残った土雲家の財産を持っていったのも彼らだ。
養育費としては仕方がない。だが、蔵に所蔵されていた書物まで売り払われたおかげで土雲家の術は散逸してしまった。
当然、灰禰が姉と暮らした思い出の詰まった家も。
い草の香る畳の目を見つめながら、灰禰は言葉を紡いだ。
「お二人のご厚情には感謝の念にたえません」
自分でもわかるほど平べったい声音だったが、二人の意には沿ったようだ。「顔を上げていいぞ」と巽が言う。
のろのろと面を上げた先、にやついた巽の顔が目の前にあった。
「感謝しているならば、恩返しをしようというつもりはあるだろうな?」
「は……」
問いかけが体中にべったりまとわりつくようで、まともに返事ができない。
口髭に覆われた巽の唇が不気味に蠢いた。
「お前に縁談が来た」
「なっ……」
絶句した灰禰に畳みかけるように、明子が語を継ぐ。
「お相手は天ヶ崎家の当主、天ヶ崎孤月殿よ」
灰禰の喉で声が絡まる。
天ヶ崎家と言えば、妖三家の一角、天狐を祖とする名家だ。西田家では足元にも及ばない。その当主といえば、灰禰ではお目見えできるのも一生に一度あるかないかの雲上人だ。
「なぜ、わたしが」
ようやく絞り出した灰禰の問いに、巽は肩をすくめた。
「さあな。だが、天ヶ崎孤月殿は女好きで軽薄な男と評判だ。ワシも夜会で一度だけお会いしたことがあるが——」
宙を睨んだ巽が、軽く頭を振った。
「まあ、噂に違わぬ御仁だったな。幾人もの女性をそばに侍らせて、口ばかりよく回る男だ。お前は無愛想だが、顔立ちだけは整っている。それでご所望なのだろう」
一度も会ったことのない天ヶ崎孤月の像が、巽の悪評によって形作られていく。女性をたくさん侍らせ、ぺらぺらとよく喋る名家の当主。
(好色な爺なのだろうか)
脳内で弾き出した答えに、灰禰は納得する思いだった。そうであれば灰禰が求められた理由もうっすらわかる。若い女だからだろう。姉に似た己の顔が、それなりに端正であると自覚もしていた。何の役に立ったこともないが。
「やっと厄介払いができる。ほら、これで花嫁支度をしろ」
身じろぎ一つできずにいる灰禰の膝先に、巾着袋が放られる。ちゃりんと鳴った涼しい音から察するに、銀貨や銅貨が入っているのだろう。
「話は終わりだ、出ていけ」
冷たく言い捨てられ、灰禰は巾着袋にいやいや手を伸ばした。手のひらに載せた袋は、泣きたくなるほど軽かった。
座敷の襖を開け、重い足取りで廊下を歩く。槇が待っているはずの庭に向かおうとして、途中の壁にもたれてため息をついた。
(お姉ちゃん——)
金子の入った巾着を、ぎゅっと胸に抱え直す。
西田家に引き取られて十二年。ずっと、ずっと、家を出ることを夢見ていた。
姉を探しに行きたかった。
六歳の春の日、よい仕事があると言って出かけたきり、帰ってこなかった姉を。
(天ヶ崎とかいう人に嫁いだら、わたしに自由はあるのだろうか)
華族の当主夫人の生活など想像もつかない。けれど、街でそんな高貴な人を見かけることはない。それが答えなのだろう。屋敷に閉じこめられて、一生飼い殺しにされる。
でも、と灰禰は歯を食いしばった。
(せっかく掴んだ好機だ。どうにかしてお姉ちゃんを探しに行く。たとえ何年かかっても、わたしはやり遂げる)
目を閉じれば、眼裏に姉の姿が浮かぶ。桜の花散る玄関先で『必ず戻ってくるから待っててね、灰禰』と微笑った唇の輪郭や、頭を撫でてくれた手の温もり、吹いた風に混ざっていた桜の甘い香りまで、何もかも思い出せる。
そうして姉は、灰禰の心ごと持っていってしまったのだ。
*
数日後、もらった金子でなんとか仕立てた着物で、灰禰は天ヶ崎家を訪れていた。
妖三家だけあって大きな屋敷だった。広い敷地を築地塀に囲まれ、陽光を弾く瓦葺きの四脚門が客人を招く。庭はよく整えられ、真っ赤な椿の花に薄く雪がのっていた。
鹿威しの音が、かぽーん……と響く。
女中に案内された客間らしき座敷で、灰禰は孤月を待っていた。
身にまとうのは紺色の地に雪輪文様の描かれた紬だ。本来であれば振袖を用意すべきだったのだろうが予算が足りなかった。西田家で着ていた使用人のお仕着せよりはよいとはいえ、言いしれぬ不安が胸にこみ上げる。
(いきなり西田家に追い返されたらどうしよう)
西田家の使用人でいるうちは姉を探しにいくなんて伯父と伯母が許さない。ならばまだ天ヶ崎当主夫人になった方がいい。それがどんなに身を削る日々だとしても。
改めて、眼前に敷かれた未来の暗さに眩暈がする。
やがて廊下を歩く足音が近づいてきた。それも複数。
灰禰は体をこわばらせ、膝上に置いた両手を強く握りしめた。
足音が部屋の前で止まり、障子がゆっくりと開かれる。
隙間から射す陽光に、灰禰は眩しく目を細めた。
「へえ、君が西田灰禰ちゃん?」
かけられたのは予想よりもひどく若い声。灰禰は驚いて返すべき言葉を失った。
何度か瞬きをすれば、こちらを覗く着流し姿の男の姿が視界にはっきりと映る。
灰禰よりも四、五歳ほど年上の青年だった。白皙の顔立ちは凄みを感じるほどに整っていて、灰禰は思わず目線を逸らしそうになった。
切れ長の瞳は榛色で、薄い唇は優雅な弧を描いている。光を浴びて輝く黄金色の髪は、男にしては襟足を長く伸ばしているが、彼にはよく似合っていた。
誰だろう、と灰禰が目をぱちくりさせていると、男が笑みを深めた。
「僕は天ヶ崎孤月。君の旦那様になる男だけど、挨拶もなしかい?」
「えっ……?」
思わぬ自己紹介に、脳内で描いていた天ヶ崎孤月の図がガラガラと崩れてゆく。
どんな好色爺かと思ったら、とんでもない美青年だ。
信じがたい光景に視線をさまよわせた灰禰はふいに気づく。
新郎新婦の顔合わせにしては様子がおかしい。
美しく着飾った女性が数人、孤月の背後におり、何やらくすくす笑っている。
「こんな痩せっぽっちの子が孤月様の花嫁?」
「見て、あの着物。野暮ったいし、安っぽいわ。よくこんな見すぼらしい格好で孤月様に会えるわね」
「笑っちゃ可哀想よ。華族でもない平民なんでしょ? 卑しい血が流れているんだから仕方ないわ」
散々な言われように灰禰はうつむき、新たに仕立てた紬を指先で撫でた。
何も持っていない灰禰ではこれが精一杯だった。それでも少しでも見栄えがするよう努力したのだ。槇に見せて、綺麗だよ、って言ってもらって。
伯父の声が耳に蘇った。
——女好きで軽薄な男と評判だ、と、
孤月は微笑を浮かべたまま、かたわらの女の肩を抱き寄せた。
「これで安心しただろう? たとえ結婚したとしても僕の愛が目減りするなんてことはありえない。特に、お前たちのような美しい女性にはね」
蜜を垂らすような甘い声音で囁かれ、女たちはきゃあきゃあとはしゃいだ声をあげる。灰禰はその様子を眺める元気もないまま、袖に描かれた雪輪の数を数えていた。何度数えても数が合わなくて混乱した。
(伯父様の言った通りとは恐れ入る)
女好きだとしても、こんな綺麗な女性たちを侍らせた美貌の男がわざわざ灰禰を娶る理由が全く理解できない。
もう一度最初から雪輪の数を辿っていると、孤月が一歩部屋に踏み入ってきた。
「さて、ここからは彼女と話がある。お前たちは席を外せ」
ぴしゃりとした孤月の命令に、女たちは「はーい」「孤月様、また今夜遊びましょうね」「愛してますわ〜」と足音も軽やかに去ってゆく。
滑るように障子が閉ざされた。
「西田灰禰」
気づけば、座卓を挟んで正面に孤月が座っている。
灰禰も慌てて座り直す。背筋を伸ばし、孤月を見据え……おや、と瞬きした。
孤月の顔からは、先ほどまでの優雅な微笑が消え去っていた。
障子で陽光が遮られ、瞳の榛色がひどく澱んで見える。顔立ちが整いすぎているせいか、無表情でいるとずいぶん冷たい印象を受けた。
「最初に言っておこう。僕が君を娶ったのは愛するためじゃない」
聞き取りやすい低い声は甘く響くが、内容には微塵も甘さがない。けれど、だろうな、と頭の片隅で冷静に思った。一目惚れなどと言われた方が怪しい。
何が目的なのか、一つも聞き逃さぬよう少し前のめりになる。
孤月の形のよい唇がため息のような息を漏らした。
「土雲美紅」
灰禰は息の仕方を忘れた。磨き抜かれた黒檀の座卓に、頼りなげな表情が映りこむ。膝を掴んだ手の下で、紬にきつく皺が寄った。
それは。
一日たりとも忘れたことのない。
姉の名だった。
孤月は灰禰を射貫くように見たまま話を続けた。
「君の姉が切り取った、僕の尾を返してもらう」
「尻尾……ですか?」
何を言われているのか理解できず、灰禰は硬直する。話に追いついていないことを察したか、孤月が嘆息して腕組みした。
「天ヶ崎家の始祖が天狐ということは知っているね」
さすがにそれくらいは知っている。
「天ヶ崎家の人間には尾が生える。普段は隠しているけれどね。力の強さに応じて本数が増え、普通は一尾。当主候補になるには六尾が必要。歴代最高が九尾だ」
「それで……あなたは、いくつなんですか」
「九尾だ。今は土雲美紅に一尾落とされて、八尾しかないけど」
灰禰はぎょっとする。さらりと言うが、破格の力を持っているのではないか。
「お姉……姉が切った、とはどういうことですか。いつあなたと面識を? それに九尾も生えていたということは、あなたはすごい妖憑きなんでしょう。そんな方にどうやって姉が太刀打ちできたと?」
座卓に身を乗り出してまくしたてれば、孤月がうるさげに片手を振った。
「今から十二年前のことだ。土雲美紅は、当時十一歳だった僕の世話係として雇われた。書類を偽装して、堀部美紅と名乗っていたよ。この苗字に心当たりはあるかい」
「堀部は母の旧姓です」
次々に開陳される知らない事実に、灰禰は呆然と答える。
孤月が遠い過去を透かし見るように宙空に視線を向けた。
「よい世話係だったよ。いつも笑っていて、よく気がついて、教養もあって、いるだけで周囲を優しくするような人間だった。天ヶ崎家の誰もが彼女を好いていた。——だが彼女は天狐の力が最も弱まる新月の晩に、僕を襲った」
空に雲がかかったのか、障子の向こうが薄暗くなる。
孤月の目が眇められた。
「どこで手に入れたのか、短刀を持っていた。眠っている僕の寝室に忍びこみ、刃を振り下ろし……」
孤月は苦々しげに口を閉ざす。眉間に皺が寄っていた。息をひそめて聞き入る灰禰にちらと目線を移し、再度口を開いた。
「僕の尾を切って、持って逃げた」
「そんな……そんなはずはない!」
敬語をかなぐり捨て、灰禰は食ってかかっていた。
「お姉ちゃんは温かい人だった。優しくて、自分よりも周りを大事にして、絶対に他人を傷つけるような人じゃなかった!」
「そうだ。だから僕も騙された」
あっさり首肯されて、勢いが削がれる。卓に叩きつけた両手のひらが今更びりびりと痛んだ。鼓動が激しく打ち鳴り、留めようもなく呼吸が荒い。
「君が何を言おうと、あの夜に土雲美紅に一尾奪われ、今の僕に八尾しかないことは事実だ」
嘘だと叫びたいけれど、この男が嘘をつく理由もない。
どうして、という悲鳴が頭の中に渦巻いていた。
最後に見た姉の姿は脳裏に刻まれている。よい仕事というのは孤月の尾を切り落とすことだったのだろうか。偽名まで使って天ヶ崎家に侵入し、たった十一歳だった子供を傷つけることが?
灰禰は中途半端に身を乗り出したまま、呻くように訊ねていた。
「それなら……どうしてわたしに求婚したんですか。憎い仇の妹に」
「囮だよ」
間髪を容れずに返される。孤月の顔に笑みが戻ってきた、と思いかけて悟る。
この男の目は全く笑っていない。
たぶん、最初から。
「この十二年、手を尽くして探し回った。だが見つからなかった。家中では、人間の小娘に尾を奪われるような男が当主でいいのかという声も出ていてね。長らく困っていたところで君の存在を知ったんだよ」
声は優しい。罠にかかった獲物を撫でるように。
「灰禰ちゃんはこの世に残されたたった一人の美紅の家族。可愛い妹が婚家で苦しんでいたら、きっとお姉さんはいてもたってもいられないんじゃないかな」
背筋に冷たい汗が滲んでいた。身を引きたいのに、孤月の目線に絡め取られたように指先さえ動かせない。
「……わたしに何をするつもり、ですか」
固まった口をこじ開けて問えば、孤月が小さく笑った。喉を鳴らしたのかもしれなかった。
「さあ、何をしようか。爪先から一センチずつ切り刻んであげようか。妹の悲鳴を聞けば、姉は助けに来るかもしれないね」
座卓に置いたままの灰禰の手に、孤月が衣擦れもなく指を伸ばす。節の目立つ、長い指だった。弾かれたように手を引っこめた灰禰に、孤月は鼻白んだ様子で笑みを拭い去った。
「そんなに怯えるなよ。僕は君たち土雲とは違って野蛮な真似はしない。ただ、愛されるなんて馬鹿な妄想はするな。離れで暮らしてもらおう。あれだよ」
丸窓の方に手を振る。灰禰がおずおずと窓の外を覗くと、広い庭の向こう、鬱蒼と茂った木立の奥に古びた板葺きの屋根が見えた。その下には古びた壁もある。放置された小屋のようだった。お世辞にも過ごしやすいとは言えなさそうだ。
孤月が険しく眉根を寄せる。
「当然、僕には近寄るな。あの女を誘き寄せるために、僕が娶った妻をどれほど冷遇しているか噂を流す予定だ。ひとまずはそれで十分だろう」
「嘘をつく……のですか」
「わざわざ嘘をつく必要はない。見た通り、僕は一人の女を愛する性質じゃない。そんな男の妻なんて憐れなものだろう? どこにも逃げられないくせに、愛さえ与えられない。そんな人間は惨めだよ」
「はあ、愛……」
急に話が難解になり、灰禰は床の間に視線を逃がした。愛はよくわからない。灰禰が抱く愛は姉への想いだけで、それもたった今揺らいでいるところだ。
囮の花嫁を歓迎する必要性も感じなかったのだろう。床の間に置かれた花瓶には、何の花も活けられていなかった。空の花瓶が虚ろな口をぽっかりと開いている。その底には薄闇を湛えている。
愛がなくて惨めなのは一体誰なのだろう。
「腕を出せ」
灰禰が返事をする間もなく、ぐいと右腕を掴まれていた。痛い、と訴える前に離される。手首に金色の紐状のものが巻かれていた。
「これは何ですか」
「脱走されてはたまらないからね。僕の尾の毛で編んだ組紐だよ。僕の許しなく外に出ると、居場所がわかるようになっている」
「そんな気味の悪いものをつけないでください」
紐を外そうとすると、「待った」と制された。
「無理に外すと、そのまま締め上げて手首を切断する仕様になっている」
「やっぱりそんな怖いものをつけないでください」
訴えてみたが、外してもらえる気配は一切なさそうだった。
孤月は座卓に頬杖をつき、口の端を釣り上げる。
「もちろん永遠の伴侶になれとは言わないよ。僕だって君を愛しているわけじゃない。九尾に戻れば完全無欠の当主として、もっと力の強い妖憑きの令嬢を娶ることになる。そうしたら君はお役御免だ。喜んで離縁しよう」
己の前に差し出された道を改めてよく考えてみる。
期間限定の囮の花嫁。どうやらそれが灰禰に課された役目らしい。ここに愛はなく、ただこの男の復讐を手伝うための駒。絶対に、花嫁らしい幸せなど望めない。
(でも最初から、わたしの願いはたった一つだ)
背中に浮いた冷や汗はいつのまにか引いていた。
心臓は規則正しい心音を刻んでいる。自分でも驚くほど思考は澄み渡る。
膝の上に両手を重ね、深く息を吸った。
「わかりました。ただし、わたしからも条件があります」
思ったよりも落ち着いた返事ができた。孤月が意外そうに片眉を上げる。
「聞くだけは聞こう。君は現状、あの女に繋がる唯一の手がかりだからね」
「あなたがわたしを信用できないように、わたしもあなたを信頼できない。あなたがわたしに求める義務と負った権利を書面に書いて残してもらえますか」
「君は読み書きができるのかい」
こちらを馬鹿にするような口ぶりではなく、ただ確認するような淡白さだったので、灰禰もするりと答えた。
「はい。土雲家には、術について書かれた書物がたくさん収められていました。わたしも姉もそれを読んで、先祖代々の術を学びました」
「……いいだろう。あとで用意する」
孤月の答えに、肩からほっと力が抜ける。これから始まる生活の暗さを思えば胸が塞がる。けれど灰禰は迷いなく顔を上げた。
「姉に会いたいのはわたしも同じ。存分にいたぶるとよいでしょう」
立ち去ろうとしていた孤月の足がぴたりと止まる。障子を開ける前にこちらを振り向き、虚を衝かれたように瞬きした。
それから観察者めいた目線をよこし、唇に薄笑いを浮かべた。
「それが口先ばかりでないことを祈るよ。本当に壊れてしまってはつまらないからね」
孤月の手が音もなく障子を開け放つ。
その狭間から吹きこむ冬風に、灰禰はぶるりと体を震わせた。
たった一人の家族である姉が、帰って来なかったある春の日。
それから十二年、灰禰の心が揺れ動いたことはなかった。
*
真冬の洗濯ほど辛い仕事はない。
養家である西田家の庭で、灰禰は洗濯物を洗濯板にこすりつけていた。
吐く息が白く凝る。銀盥に張った水には雪が落ちて、今にも氷が張ってしまいそうだ。指は痺れてもう感覚がない。
「冷たいっ、もう嫌だよぉ」
同じく洗濯に励んでいた使用人仲間の槇がべそをかく。彼女も汚れた襦袢を洗っており、規則正しく手を動かす灰禰を涙目で見つめてきた。
「灰禰は辛くないの?」
「わたしも、冷たいと思う」
ちらとも表情を動かさずに灰禰は答えた。「だよねえ」ぶっきらぼうな返事にも槇が気分を悪くした様子はない。数年来の付き合いなので、灰禰の無愛想さには慣れてくれている。
「早く終わらせて竈のそばに行こ……痛っ、あかぎれできちゃった」
「貸して、槇」
灰禰は自分の着物で手の水気を拭ってから、そっと槇の手を取った。節々が真っ赤に裂けた槇の指に、ふうっと息を吹きかける。
途端に傷口が白い光に覆われ、みるみるうちに治っていった。
「みんなには、内緒ね」
「いつもありがとう。すごいね。こんな不思議な技が使えるなんて、本当に華族様のご落胤じゃないの?」
無邪気な槇の賛辞に、灰禰は首を横に振った。
——この国は、妖の血を引く華族によって守られている。
この国がまだ秩序を持っていなかった時代。尽きぬ戦乱を悲しんだ妖たちが、その不思議な御業をもって国を治めた。治水で揉めていた村には剛力で堤を作り、いがみ合う村同士は心の声を直接伝えることで不和を取り去った。
やがて偉大なる妖たちは人間と交わり、妖憑きの子孫たちには様々な妖術が発現した。そしてその子孫たちもまた、妖術を用いて国を守った。
元号が泰正となる今になっては、妖を先祖に持つ家は華族位を与えられ、帝都で豊かな暮らしを送っている。
特に鬼・天狐・天狗を始祖とする三家は妖三家と呼ばれ、強大な権力を持っていた。
だから槇も、不思議な力を使う灰禰を華族だと誤解したのだろう。
現実は違う。灰禰は、逆賊の末裔だ。
『土雲』と呼ばれる、妖に対抗しようとした術師の一団だ。
妖と似たような技を使ったというが、しょせんは人間風情。妖にはとうてい及ばず、すぐに歴史から姿を消してしまう。
だが、決して消滅したわけではない。
太古より子供たちに細々と術を伝え続け——それも、灰禰の代で途絶えようとしている。
「灰禰! 旦那様と奥様がお呼びだよ!」
女中頭の大声が庭に響き、灰禰はハッと顔を上げた。
縁側に仁王立ちになった女中頭が、険しい顔で灰禰を見下ろしている。
「とっとと行きな! 遅れるとアタシが怒られるんだからね」
「はい、わかりました」
灰禰が素直に立ち上がると、女中頭は満足したようにドタドタと立ち去った。槇がこそっと囁く。
「あとは私がやっとくから大丈夫だよ。でもどうしたんだろう、旦那様たちが灰禰を呼ぶなんて珍しいね」
有難い槇の申し出に、「ありがとう、すぐに戻る」と言い置いて縁側に上がった。
(ろくでもない用事に決まっている)
縁側と庭を仕切るガラス戸に映る自分の顔は、愛想のなさを差し引いても暗い。そっけなく括っただけの長い黒髪は力なく背に流れ、深い藍色の瞳には我ながら光がない。
胸をよぎる嫌な予感に、灰禰は唇を引き結んだ。
*
西田家で最も大きな座敷では、当主夫妻が床の間を背にして待ち構えていた。
「遅い!」
襖を閉ざした途端に飛んできた叱責に、灰禰はすぐさま土下座する。
「申し訳ございません。伯父様、伯母様」
「相変わらず無表情で気味の悪い……」
当主の巽が忌々しげに舌打ちする。その隣に座った妻の明子も、汚物を前にしたような目で灰禰を睨んだ。
「まったく、あなたの父親が私の兄だったおかげで、私たちがあなたみたいな不気味な子を育てなくちゃならなかったのよ」
両親を早くに亡くし、頼みの綱の姉が失踪した後、六歳で孤児となった灰禰を引き取ったのは、西田家だった。明子は土雲に嫌気が差し、若い頃に出奔したという。
彼らは逆賊の証である土雲という苗字を西田に変えさせ、養子ではなく使用人として灰禰を扱った。
わずかに残った土雲家の財産を持っていったのも彼らだ。
養育費としては仕方がない。だが、蔵に所蔵されていた書物まで売り払われたおかげで土雲家の術は散逸してしまった。
当然、灰禰が姉と暮らした思い出の詰まった家も。
い草の香る畳の目を見つめながら、灰禰は言葉を紡いだ。
「お二人のご厚情には感謝の念にたえません」
自分でもわかるほど平べったい声音だったが、二人の意には沿ったようだ。「顔を上げていいぞ」と巽が言う。
のろのろと面を上げた先、にやついた巽の顔が目の前にあった。
「感謝しているならば、恩返しをしようというつもりはあるだろうな?」
「は……」
問いかけが体中にべったりまとわりつくようで、まともに返事ができない。
口髭に覆われた巽の唇が不気味に蠢いた。
「お前に縁談が来た」
「なっ……」
絶句した灰禰に畳みかけるように、明子が語を継ぐ。
「お相手は天ヶ崎家の当主、天ヶ崎孤月殿よ」
灰禰の喉で声が絡まる。
天ヶ崎家と言えば、妖三家の一角、天狐を祖とする名家だ。西田家では足元にも及ばない。その当主といえば、灰禰ではお目見えできるのも一生に一度あるかないかの雲上人だ。
「なぜ、わたしが」
ようやく絞り出した灰禰の問いに、巽は肩をすくめた。
「さあな。だが、天ヶ崎孤月殿は女好きで軽薄な男と評判だ。ワシも夜会で一度だけお会いしたことがあるが——」
宙を睨んだ巽が、軽く頭を振った。
「まあ、噂に違わぬ御仁だったな。幾人もの女性をそばに侍らせて、口ばかりよく回る男だ。お前は無愛想だが、顔立ちだけは整っている。それでご所望なのだろう」
一度も会ったことのない天ヶ崎孤月の像が、巽の悪評によって形作られていく。女性をたくさん侍らせ、ぺらぺらとよく喋る名家の当主。
(好色な爺なのだろうか)
脳内で弾き出した答えに、灰禰は納得する思いだった。そうであれば灰禰が求められた理由もうっすらわかる。若い女だからだろう。姉に似た己の顔が、それなりに端正であると自覚もしていた。何の役に立ったこともないが。
「やっと厄介払いができる。ほら、これで花嫁支度をしろ」
身じろぎ一つできずにいる灰禰の膝先に、巾着袋が放られる。ちゃりんと鳴った涼しい音から察するに、銀貨や銅貨が入っているのだろう。
「話は終わりだ、出ていけ」
冷たく言い捨てられ、灰禰は巾着袋にいやいや手を伸ばした。手のひらに載せた袋は、泣きたくなるほど軽かった。
座敷の襖を開け、重い足取りで廊下を歩く。槇が待っているはずの庭に向かおうとして、途中の壁にもたれてため息をついた。
(お姉ちゃん——)
金子の入った巾着を、ぎゅっと胸に抱え直す。
西田家に引き取られて十二年。ずっと、ずっと、家を出ることを夢見ていた。
姉を探しに行きたかった。
六歳の春の日、よい仕事があると言って出かけたきり、帰ってこなかった姉を。
(天ヶ崎とかいう人に嫁いだら、わたしに自由はあるのだろうか)
華族の当主夫人の生活など想像もつかない。けれど、街でそんな高貴な人を見かけることはない。それが答えなのだろう。屋敷に閉じこめられて、一生飼い殺しにされる。
でも、と灰禰は歯を食いしばった。
(せっかく掴んだ好機だ。どうにかしてお姉ちゃんを探しに行く。たとえ何年かかっても、わたしはやり遂げる)
目を閉じれば、眼裏に姉の姿が浮かぶ。桜の花散る玄関先で『必ず戻ってくるから待っててね、灰禰』と微笑った唇の輪郭や、頭を撫でてくれた手の温もり、吹いた風に混ざっていた桜の甘い香りまで、何もかも思い出せる。
そうして姉は、灰禰の心ごと持っていってしまったのだ。
*
数日後、もらった金子でなんとか仕立てた着物で、灰禰は天ヶ崎家を訪れていた。
妖三家だけあって大きな屋敷だった。広い敷地を築地塀に囲まれ、陽光を弾く瓦葺きの四脚門が客人を招く。庭はよく整えられ、真っ赤な椿の花に薄く雪がのっていた。
鹿威しの音が、かぽーん……と響く。
女中に案内された客間らしき座敷で、灰禰は孤月を待っていた。
身にまとうのは紺色の地に雪輪文様の描かれた紬だ。本来であれば振袖を用意すべきだったのだろうが予算が足りなかった。西田家で着ていた使用人のお仕着せよりはよいとはいえ、言いしれぬ不安が胸にこみ上げる。
(いきなり西田家に追い返されたらどうしよう)
西田家の使用人でいるうちは姉を探しにいくなんて伯父と伯母が許さない。ならばまだ天ヶ崎当主夫人になった方がいい。それがどんなに身を削る日々だとしても。
改めて、眼前に敷かれた未来の暗さに眩暈がする。
やがて廊下を歩く足音が近づいてきた。それも複数。
灰禰は体をこわばらせ、膝上に置いた両手を強く握りしめた。
足音が部屋の前で止まり、障子がゆっくりと開かれる。
隙間から射す陽光に、灰禰は眩しく目を細めた。
「へえ、君が西田灰禰ちゃん?」
かけられたのは予想よりもひどく若い声。灰禰は驚いて返すべき言葉を失った。
何度か瞬きをすれば、こちらを覗く着流し姿の男の姿が視界にはっきりと映る。
灰禰よりも四、五歳ほど年上の青年だった。白皙の顔立ちは凄みを感じるほどに整っていて、灰禰は思わず目線を逸らしそうになった。
切れ長の瞳は榛色で、薄い唇は優雅な弧を描いている。光を浴びて輝く黄金色の髪は、男にしては襟足を長く伸ばしているが、彼にはよく似合っていた。
誰だろう、と灰禰が目をぱちくりさせていると、男が笑みを深めた。
「僕は天ヶ崎孤月。君の旦那様になる男だけど、挨拶もなしかい?」
「えっ……?」
思わぬ自己紹介に、脳内で描いていた天ヶ崎孤月の図がガラガラと崩れてゆく。
どんな好色爺かと思ったら、とんでもない美青年だ。
信じがたい光景に視線をさまよわせた灰禰はふいに気づく。
新郎新婦の顔合わせにしては様子がおかしい。
美しく着飾った女性が数人、孤月の背後におり、何やらくすくす笑っている。
「こんな痩せっぽっちの子が孤月様の花嫁?」
「見て、あの着物。野暮ったいし、安っぽいわ。よくこんな見すぼらしい格好で孤月様に会えるわね」
「笑っちゃ可哀想よ。華族でもない平民なんでしょ? 卑しい血が流れているんだから仕方ないわ」
散々な言われように灰禰はうつむき、新たに仕立てた紬を指先で撫でた。
何も持っていない灰禰ではこれが精一杯だった。それでも少しでも見栄えがするよう努力したのだ。槇に見せて、綺麗だよ、って言ってもらって。
伯父の声が耳に蘇った。
——女好きで軽薄な男と評判だ、と、
孤月は微笑を浮かべたまま、かたわらの女の肩を抱き寄せた。
「これで安心しただろう? たとえ結婚したとしても僕の愛が目減りするなんてことはありえない。特に、お前たちのような美しい女性にはね」
蜜を垂らすような甘い声音で囁かれ、女たちはきゃあきゃあとはしゃいだ声をあげる。灰禰はその様子を眺める元気もないまま、袖に描かれた雪輪の数を数えていた。何度数えても数が合わなくて混乱した。
(伯父様の言った通りとは恐れ入る)
女好きだとしても、こんな綺麗な女性たちを侍らせた美貌の男がわざわざ灰禰を娶る理由が全く理解できない。
もう一度最初から雪輪の数を辿っていると、孤月が一歩部屋に踏み入ってきた。
「さて、ここからは彼女と話がある。お前たちは席を外せ」
ぴしゃりとした孤月の命令に、女たちは「はーい」「孤月様、また今夜遊びましょうね」「愛してますわ〜」と足音も軽やかに去ってゆく。
滑るように障子が閉ざされた。
「西田灰禰」
気づけば、座卓を挟んで正面に孤月が座っている。
灰禰も慌てて座り直す。背筋を伸ばし、孤月を見据え……おや、と瞬きした。
孤月の顔からは、先ほどまでの優雅な微笑が消え去っていた。
障子で陽光が遮られ、瞳の榛色がひどく澱んで見える。顔立ちが整いすぎているせいか、無表情でいるとずいぶん冷たい印象を受けた。
「最初に言っておこう。僕が君を娶ったのは愛するためじゃない」
聞き取りやすい低い声は甘く響くが、内容には微塵も甘さがない。けれど、だろうな、と頭の片隅で冷静に思った。一目惚れなどと言われた方が怪しい。
何が目的なのか、一つも聞き逃さぬよう少し前のめりになる。
孤月の形のよい唇がため息のような息を漏らした。
「土雲美紅」
灰禰は息の仕方を忘れた。磨き抜かれた黒檀の座卓に、頼りなげな表情が映りこむ。膝を掴んだ手の下で、紬にきつく皺が寄った。
それは。
一日たりとも忘れたことのない。
姉の名だった。
孤月は灰禰を射貫くように見たまま話を続けた。
「君の姉が切り取った、僕の尾を返してもらう」
「尻尾……ですか?」
何を言われているのか理解できず、灰禰は硬直する。話に追いついていないことを察したか、孤月が嘆息して腕組みした。
「天ヶ崎家の始祖が天狐ということは知っているね」
さすがにそれくらいは知っている。
「天ヶ崎家の人間には尾が生える。普段は隠しているけれどね。力の強さに応じて本数が増え、普通は一尾。当主候補になるには六尾が必要。歴代最高が九尾だ」
「それで……あなたは、いくつなんですか」
「九尾だ。今は土雲美紅に一尾落とされて、八尾しかないけど」
灰禰はぎょっとする。さらりと言うが、破格の力を持っているのではないか。
「お姉……姉が切った、とはどういうことですか。いつあなたと面識を? それに九尾も生えていたということは、あなたはすごい妖憑きなんでしょう。そんな方にどうやって姉が太刀打ちできたと?」
座卓に身を乗り出してまくしたてれば、孤月がうるさげに片手を振った。
「今から十二年前のことだ。土雲美紅は、当時十一歳だった僕の世話係として雇われた。書類を偽装して、堀部美紅と名乗っていたよ。この苗字に心当たりはあるかい」
「堀部は母の旧姓です」
次々に開陳される知らない事実に、灰禰は呆然と答える。
孤月が遠い過去を透かし見るように宙空に視線を向けた。
「よい世話係だったよ。いつも笑っていて、よく気がついて、教養もあって、いるだけで周囲を優しくするような人間だった。天ヶ崎家の誰もが彼女を好いていた。——だが彼女は天狐の力が最も弱まる新月の晩に、僕を襲った」
空に雲がかかったのか、障子の向こうが薄暗くなる。
孤月の目が眇められた。
「どこで手に入れたのか、短刀を持っていた。眠っている僕の寝室に忍びこみ、刃を振り下ろし……」
孤月は苦々しげに口を閉ざす。眉間に皺が寄っていた。息をひそめて聞き入る灰禰にちらと目線を移し、再度口を開いた。
「僕の尾を切って、持って逃げた」
「そんな……そんなはずはない!」
敬語をかなぐり捨て、灰禰は食ってかかっていた。
「お姉ちゃんは温かい人だった。優しくて、自分よりも周りを大事にして、絶対に他人を傷つけるような人じゃなかった!」
「そうだ。だから僕も騙された」
あっさり首肯されて、勢いが削がれる。卓に叩きつけた両手のひらが今更びりびりと痛んだ。鼓動が激しく打ち鳴り、留めようもなく呼吸が荒い。
「君が何を言おうと、あの夜に土雲美紅に一尾奪われ、今の僕に八尾しかないことは事実だ」
嘘だと叫びたいけれど、この男が嘘をつく理由もない。
どうして、という悲鳴が頭の中に渦巻いていた。
最後に見た姉の姿は脳裏に刻まれている。よい仕事というのは孤月の尾を切り落とすことだったのだろうか。偽名まで使って天ヶ崎家に侵入し、たった十一歳だった子供を傷つけることが?
灰禰は中途半端に身を乗り出したまま、呻くように訊ねていた。
「それなら……どうしてわたしに求婚したんですか。憎い仇の妹に」
「囮だよ」
間髪を容れずに返される。孤月の顔に笑みが戻ってきた、と思いかけて悟る。
この男の目は全く笑っていない。
たぶん、最初から。
「この十二年、手を尽くして探し回った。だが見つからなかった。家中では、人間の小娘に尾を奪われるような男が当主でいいのかという声も出ていてね。長らく困っていたところで君の存在を知ったんだよ」
声は優しい。罠にかかった獲物を撫でるように。
「灰禰ちゃんはこの世に残されたたった一人の美紅の家族。可愛い妹が婚家で苦しんでいたら、きっとお姉さんはいてもたってもいられないんじゃないかな」
背筋に冷たい汗が滲んでいた。身を引きたいのに、孤月の目線に絡め取られたように指先さえ動かせない。
「……わたしに何をするつもり、ですか」
固まった口をこじ開けて問えば、孤月が小さく笑った。喉を鳴らしたのかもしれなかった。
「さあ、何をしようか。爪先から一センチずつ切り刻んであげようか。妹の悲鳴を聞けば、姉は助けに来るかもしれないね」
座卓に置いたままの灰禰の手に、孤月が衣擦れもなく指を伸ばす。節の目立つ、長い指だった。弾かれたように手を引っこめた灰禰に、孤月は鼻白んだ様子で笑みを拭い去った。
「そんなに怯えるなよ。僕は君たち土雲とは違って野蛮な真似はしない。ただ、愛されるなんて馬鹿な妄想はするな。離れで暮らしてもらおう。あれだよ」
丸窓の方に手を振る。灰禰がおずおずと窓の外を覗くと、広い庭の向こう、鬱蒼と茂った木立の奥に古びた板葺きの屋根が見えた。その下には古びた壁もある。放置された小屋のようだった。お世辞にも過ごしやすいとは言えなさそうだ。
孤月が険しく眉根を寄せる。
「当然、僕には近寄るな。あの女を誘き寄せるために、僕が娶った妻をどれほど冷遇しているか噂を流す予定だ。ひとまずはそれで十分だろう」
「嘘をつく……のですか」
「わざわざ嘘をつく必要はない。見た通り、僕は一人の女を愛する性質じゃない。そんな男の妻なんて憐れなものだろう? どこにも逃げられないくせに、愛さえ与えられない。そんな人間は惨めだよ」
「はあ、愛……」
急に話が難解になり、灰禰は床の間に視線を逃がした。愛はよくわからない。灰禰が抱く愛は姉への想いだけで、それもたった今揺らいでいるところだ。
囮の花嫁を歓迎する必要性も感じなかったのだろう。床の間に置かれた花瓶には、何の花も活けられていなかった。空の花瓶が虚ろな口をぽっかりと開いている。その底には薄闇を湛えている。
愛がなくて惨めなのは一体誰なのだろう。
「腕を出せ」
灰禰が返事をする間もなく、ぐいと右腕を掴まれていた。痛い、と訴える前に離される。手首に金色の紐状のものが巻かれていた。
「これは何ですか」
「脱走されてはたまらないからね。僕の尾の毛で編んだ組紐だよ。僕の許しなく外に出ると、居場所がわかるようになっている」
「そんな気味の悪いものをつけないでください」
紐を外そうとすると、「待った」と制された。
「無理に外すと、そのまま締め上げて手首を切断する仕様になっている」
「やっぱりそんな怖いものをつけないでください」
訴えてみたが、外してもらえる気配は一切なさそうだった。
孤月は座卓に頬杖をつき、口の端を釣り上げる。
「もちろん永遠の伴侶になれとは言わないよ。僕だって君を愛しているわけじゃない。九尾に戻れば完全無欠の当主として、もっと力の強い妖憑きの令嬢を娶ることになる。そうしたら君はお役御免だ。喜んで離縁しよう」
己の前に差し出された道を改めてよく考えてみる。
期間限定の囮の花嫁。どうやらそれが灰禰に課された役目らしい。ここに愛はなく、ただこの男の復讐を手伝うための駒。絶対に、花嫁らしい幸せなど望めない。
(でも最初から、わたしの願いはたった一つだ)
背中に浮いた冷や汗はいつのまにか引いていた。
心臓は規則正しい心音を刻んでいる。自分でも驚くほど思考は澄み渡る。
膝の上に両手を重ね、深く息を吸った。
「わかりました。ただし、わたしからも条件があります」
思ったよりも落ち着いた返事ができた。孤月が意外そうに片眉を上げる。
「聞くだけは聞こう。君は現状、あの女に繋がる唯一の手がかりだからね」
「あなたがわたしを信用できないように、わたしもあなたを信頼できない。あなたがわたしに求める義務と負った権利を書面に書いて残してもらえますか」
「君は読み書きができるのかい」
こちらを馬鹿にするような口ぶりではなく、ただ確認するような淡白さだったので、灰禰もするりと答えた。
「はい。土雲家には、術について書かれた書物がたくさん収められていました。わたしも姉もそれを読んで、先祖代々の術を学びました」
「……いいだろう。あとで用意する」
孤月の答えに、肩からほっと力が抜ける。これから始まる生活の暗さを思えば胸が塞がる。けれど灰禰は迷いなく顔を上げた。
「姉に会いたいのはわたしも同じ。存分にいたぶるとよいでしょう」
立ち去ろうとしていた孤月の足がぴたりと止まる。障子を開ける前にこちらを振り向き、虚を衝かれたように瞬きした。
それから観察者めいた目線をよこし、唇に薄笑いを浮かべた。
「それが口先ばかりでないことを祈るよ。本当に壊れてしまってはつまらないからね」
孤月の手が音もなく障子を開け放つ。
その狭間から吹きこむ冬風に、灰禰はぶるりと体を震わせた。



