虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 私は一人、特別治療室があるという最奥の廊下を進んでいた。
 この建物の造りは、表の病棟とは明らかに違っていた。窓は少なく、分厚い石造りの壁が陽の光を遮っている。どこからかこだまする傷病兵たちの苦しげな呻き声に体が震える。
 鼻を突く石炭酸の冷たく鋭い匂いが、私の歩みを重くした。

(鷹島さん、あんな大きなお怪我をされていたのだから……きっと、今も痛みに苦しんでおられるに違いない)

 私の胸を占めていたのは、まだ見ぬ『エスα』という怪物への恐怖よりも、彼への純粋な心配だった。
 早く顔が見たい。声が聞きたい。
 はやる気持ちとは裏腹に、呼吸は浅くなっている。
 どれくらい薄暗い廊下を歩いただろうか。
 ふわり、と。
 消毒薬の匂いに混じって、場違いなほど甘い香りが鼻腔をくすぐった。

「……え?」

 思わず立ち止まる。
 それは、春の陽だまりに咲く花々を何十倍にも煮詰めたような、むせ返るような芳香だった。
 錯覚ではない。奥の部屋へ近づくにつれて、その匂いは粘度を増すように強くなっていく。一歩踏み出すごとに足元がふらつき、視界の焦点がぐらぐらと揺れた。

(なに、これ……。体が、熱い……)

 心臓が異常な早鐘を打ち、喉の奥がカラカラに渇く。
 恐怖のせいだろうか。
 それとも、これが冨佐子様が言っていた、彼が放つという『人類の上位種の覇気』なのだろうか。
 恐怖に足がすくむのに、私の体は見えない糸で縫い付けられたように、その匂いの源へと引き寄せられていった。
 やがて辿り着いた最奥の病室。その周りだけは不自然なほど人払いがされており、しんと静まり返っている。
 私は震える手で、おずおずと分厚い扉を叩き、重いノブを回した。

「——!」

 部屋に入った瞬間、むわっとした熱気と致死量の甘い香りが全身に叩きつけられ、私は息を呑んだ。
 そこにいたのは、軍服の上着を脱ぎ捨て、白いシャツの胸元をはだけさせた鷹島さんだった。彼は汗にまみれ、苦痛に顔を歪めながら、自らの首筋に、震える手で分厚いガラスの注射器を突き立てようとしていたのだ。

「たか、しま……さん……?」

 私の声に気づいた鷹島さんが、顔を上げる。
 眼帯に覆われていない左目は熱に浮かされ、うっすらと紅くにじんでいる。

「月守小夜子嬢」
「す、すみません……!」
「いや、丁度いい」
 
 鷹島さんはそのまま自らに注射を打つ。薬の効きがよすぎるのか、苦悶の表情を浮かべていたが、熱を帯びた瞳は冷静さを取り戻しつつある。
 この光景には見覚えがある。Ωの母が抑制剤を打つときに、よく似ている——
 
「婚約者となるあなたには話しておかなければならないことがある。この薬は抑制剤だ。俺の第二の性は……」

 彼が何かを言いかけた、その瞬間だった。

 ——ドクン、と。
 私の中で、何かが爆発した。
 彼から放たれる、限界を突破した狂おしいほどの甘い香り。
 それを肺いっぱいに吸い込んだ途端、私の頭から「恐怖」も「公爵令嬢としての振る舞い」も、それまで抱えていたすべての理性が真っ白に吹き飛んだ。
 下腹部を焼くような強烈な渇きが、強引に私の背骨を駆け上がっていく。
 視界が赤く染まる。
 気づけば私は、無意識のうちに彼へと駆け寄っていた。
 ポスッ、と鈍い音がして、手からがま口の財布がこぼれ落ちる。ずっと胸に抱き、大切にしていたあの『新聞の切り抜き』も、開いた手からひらひらと床へ落ちていった。

 この人が、欲しい——!!

「月守小夜子……?」

 戸惑う鷹島さんの顔を、私は両手で強く挟み込んだ。
 そして、一切の躊躇もなく、彼の薄い唇を奪っていた。

「んっ……!」

 重なり合った唇から、彼が小さく息を呑むのがわかった。
 女性の私よりずっと大きくて屈強なはずの彼が、私の強引な口付けに抗うこともできず、ただ熱い吐息を漏らして身をすくませている。
 もっと、もっと深く味わいたい。彼を私のものにしたい。噛み付いて、跡を残したい――。
 これまで知らなかった恐ろしいほどの独占欲が、私という人間の輪郭を塗り替えていく。

 外では、名も知らぬ鳥の囀りが聞こえる。
 からりと晴れた、穏やかな春の昼下がり。
 それなのに、この病室だけが、雨季の温室のような異様な熱気に包まれていた。

「あなた……は……」

 鷹島さんは腰が抜けたように床に膝をつく。
 金色の髪が荒い息と共に上下に揺れる。手が震えていて、体を支えるのも精いっぱいといった状態だ。

「ご、ごめんなさい……私……」

 私は立ち上がった。
 離れなければ。これ以上は彼を傷付けてしまう。けれど、扉へ向かおうとした途端、鷹島大尉の手が私の袂をつかむ。

「いい」

 低く掠れた声だった。
 普段なら一個中隊を動かすであろうその声に、今は命令する力が残っていない。

「何もしなくて、いい」

 鷹島大尉は、床へ落としていた顔をゆっくりと上げた。
 眼帯に覆われていない左目は、夏の日を思わせる若草の色をしていた。
 その瞳が私を捉えた瞬間、心臓が大きく跳ねる。

「これは、Ωのヒートだ」

 その言葉を、すぐに理解することができなかった。
 目の前にいる軍神が、国の英雄が、哀れなΩの訳がない。
 
(けれどこの香りは、私を誘っている——!)

「離れ……なければ……」

 鷹島大尉はそう言いながらも、袂をつかむ手を離せないでいる。
 震える手で必死に手を開こうとするが、できない。ヒート——Ωの発情が体を支配しているのだ。
 
「鷹島さん……」
 
 何か声をかけようとした時、彼の手が強く私の袂を引いた。
 どさりと音がして、ベッドの上に押し倒される。
 
「この……ヒートは……」

 鷹島さんは低くうめいている。
 彼の真っ白な肌に汗の球がにじんでいて、ぽたりと私の肌に触れた。
 じく……と、玉の汗が触れた部分が熱くなる。
 男性に押し倒されているというのに、不思議と危機感はなかった。
 
「あなたのα性に、あてられている……!」
 
 ありえない。私が、αだなんて。
 けれどそんな言葉すら紡ぐことはかなわず、私の体は熱に包まれる。

「あ、う……っ」

 鷹島大尉が、耐えかねたように声を漏らした。
 大柄な彼の身体が、崩れ落ちる。最後の理性で耐えていた腕が崩れ、私の上に折り重なる。
 彼は己の唇を血が出るほどに噛み締めて劣情に耐えている。
 視線が交わる。
 彼の、無防備に晒された白い(うなじ)が見える。
 あそこに牙を立てたい。噛みついて、血を流させ、私の所有物だと印をつけてしまいたい――。
 おぞましいほどの独占欲が頭をもたげ、私は自分の本能の凶暴さに恐怖した。

「たか、しま……さん……」

 声が震える。

「わたしは……」

 思えば私たちの婚姻は、破綻から始まっていた。

「あなたが、ほしい」

 私は本能のままに彼の項に噛みついた。
 それがαとΩを番う印であることを知っていながら、鷹島さんがそれを望まないと、知っていながら——