希望と絶望が一気に降りかかった嵐のような一日が終わり、白々と夜が明け始めた。喜びと恐怖で、私は冷たい布団の中で一睡もできずにいた。
「……ぐうっ……はぁっ、はぁっ……」
薄い襖を隔てた隣の部屋から、母の苦しげな声が微かに漏れ聞こえてくる。周期的に訪れるΩのヒート。それを無理やり押さえ込むための強い抑制剤が母の体を強制的に冷やし、つま先まで凍るような苦しみが母を苛んでいるのだった。
いつもなら隣にいてずっと手を握っていた。
けれど、今の母は一人ではない。
「ちゑ。わたしが、ここにいる」
悪鬼のように冷酷狡猾な父・竹千代の声が襖越しに聞こえる。その声は慈愛に満ちた優しい声だった。
政界の頂点に君臨する絶対的なαが、まるで壊れ物を扱うように、苦しむ母をその腕に抱きしめ、あたたかい愛情とフェロモンで包み込んでいるのが気配でわかった。
気の強い母が、今はただの弱い女として父の腕の中に抱き留められている。
【運命の番】でありながら、立場故に結ばれることは許されない二人。
本能という鎖で繋がれた、歪んだ真実の愛。過酷な環境の母だが、父の腕に抱かれている瞬間だけは幸福そうな顔をしている。
(私には、運命がない……)
私は布団を頭まで引き上げた。
αでもΩでもない、ただの出来損ないの私には、生涯あんなふうに誰かと本能で惹かれ合うことはない。ましてや、あの美しく強大な鷹島さんの『運命』になど、なれるはずがないのだ。
『アンタは捨て駒よ! あの冷酷男がどう扱っても許される、使い捨てのゴミなんだわ!』
冨佐子様の呪いの言葉が、再び耳の奥でこだました。
そうだ。捨て駒ならそうと割り切って、これ以上要らぬ期待など持たない方がいいのかもしれない。大人しく父の命令に従い、感情を殺して生きる。そうすれば、これ以上心が傷つくことはない。
けれど——
私は布団から這い出し、文机の引き出しの奥に隠していたものをそっと取り出した。何度も何度も見返して、指でなぞって、ボロボロになった新聞の切り抜き。
【顔面に重傷を負いながらも——鷹島大尉の武勲】
活字の向こう側に、あの人の不器用な優しさが透けて見える。
泥だらけの私の手を掬い上げてくれた、あの分厚い手袋の感触。茶の葉を取ってくれた時の、少し困ったような、けれど穏やかな碧玉の瞳。
彼のことを考えると、トクトクと脈打つ胸の鼓動。
(……あの方が、好き)
会いたい。その思いがふつふつと腹の奥で沸騰する。
(会いに行こう。あの方がどういう人なのかは、私が私の目で判断するんだから……!)
決意と共に、私は立ち上がった。
箪笥の奥から、先日のお見合いの時に着た、唯一のまともな着物を引っ張り出す。
豪華な絹ではないけれど、母が綺麗に手入れをしてくれた、清潔な淡い桜色の着物だ。
手早く着付けを済ませ、乱れていた髪を櫛で丁寧に梳かす。鏡に映った自分の顔は、昨日冨佐子様に張られた頬がまだ少し赤かったけれど、瞳には不思議なほどの力が宿っていた。
「ちゑ、水はいるか?」
「いえ……何もいらない。そこにいて……」
隣の部屋では、父が母を看病している。
私は足音を忍ばせ、離れの廊下を抜き足差し足で進んだ。女学校に通う以外で家を勝手に抜け出すことは許されていない。もし冨佐子様に見つかればまた折檻だろう。バレてはいけない。心臓が早鐘のように鳴っている。
裏木戸の鍵をそっと外し、外の冷たい空気の中へ滑り出た。
誰にも言わない、秘密の逢引。
この一歩が、さらなる絶望を招くのか、それとも一筋の光となるのかはわからない。
それでも、私の足取りは羽が生えたように軽く、胸は弾けそうなほど高鳴っていた。
牛込の衛戍病院へ——
白金の長い坂を下り、大通りへ出ると、そこには私の知らない騒がしい世界が広がっていた。
カラン、カランと鐘の音を鳴らして走る深緑色の市電。私は震える手でがま口から硬貨を取り出し、車掌から小さな切符を受け取った。
車内は人々の熱気と、煙草やポマードの匂いが充満している。揺れる車内で転ばないよう柱にしがみつきながら、私は懐の新聞の切り抜きをぎゅっと握りしめた。
勢いのままに飛び出した熱はまだ冷めない。
(会いたい、会いたい……!)
彼に近づいていると思う度、思いは強くなるばかりだった。
市電を二つ乗り継いで、ついに牛込へ到着する。逸る気持ちが足を速くする。運動音痴の自分のどこにここまでの力があったのか、息も切らさずに私は衛戍病院の入口までたどり着いた。
(やっと、会える……!)
小銃を持った門番を見ても怖いとは思わなかった。
あの門の向こうに、鷹島さんがいると思えば——
◇ ◇ ◇
「入場は許可できません」
そんな淡い思いは、堅牢な門を守る歩哨に簡単に阻まれた。
「あ、あの……でも……鷹島大尉と、お約束を、し、しておりまして」
「ですが鷹島大尉は本日は特別治療のため、全ての面会が禁止されております」
「特別治療……?」
聞き慣れない言葉に、私は思わず聞き返した。
「はい。軍医長以外の立ち入りは厳しく制限されております。お嬢様、本日はお引き取りを」
歩哨の男性は、銃剣を手に冷たく言い放つ。
いつもの私ならここですごすごと引き下がるのだが、今日はどういうわけか興奮状態だった。
会いたい気持ちが気を強くさせ、妙に冷静な頭で鷹島さんとの約束を思い出す。彼ほどの人が今日面会謝絶であることを忘れるはずがない。それでも私と約束したということは、この面会謝絶日を利用して『ふたりで』という約束を果たそうとしているに違いない。
「通してください。私は月守小夜子です。彼に会いに来たのです」
自分でも不思議なほど冷静に声が出た。父の真似をして背筋を伸ばし、目をじっと見つめて歩哨に告げる。
じり……とにらみ合いが続く。歩哨が一筋の汗をかいたとき、別の歩哨が慌てて駆け寄ってきた。何事か話したかと思うと、ふたりの歩哨は頭を下げた。
「失礼しました。伊津名少将より許可が出ておりました。どうぞ——」
道が開いた。
思わぬ事態に逆に私がびっくりしてしまう。先ほどの勇気はすべて散ってしまった。男性に頭を下げさせていることに恐縮してしまい、私はぺこぺこと頭を下げて衛戍病院の白い壁へ向かって歩き出した。
「……ぐうっ……はぁっ、はぁっ……」
薄い襖を隔てた隣の部屋から、母の苦しげな声が微かに漏れ聞こえてくる。周期的に訪れるΩのヒート。それを無理やり押さえ込むための強い抑制剤が母の体を強制的に冷やし、つま先まで凍るような苦しみが母を苛んでいるのだった。
いつもなら隣にいてずっと手を握っていた。
けれど、今の母は一人ではない。
「ちゑ。わたしが、ここにいる」
悪鬼のように冷酷狡猾な父・竹千代の声が襖越しに聞こえる。その声は慈愛に満ちた優しい声だった。
政界の頂点に君臨する絶対的なαが、まるで壊れ物を扱うように、苦しむ母をその腕に抱きしめ、あたたかい愛情とフェロモンで包み込んでいるのが気配でわかった。
気の強い母が、今はただの弱い女として父の腕の中に抱き留められている。
【運命の番】でありながら、立場故に結ばれることは許されない二人。
本能という鎖で繋がれた、歪んだ真実の愛。過酷な環境の母だが、父の腕に抱かれている瞬間だけは幸福そうな顔をしている。
(私には、運命がない……)
私は布団を頭まで引き上げた。
αでもΩでもない、ただの出来損ないの私には、生涯あんなふうに誰かと本能で惹かれ合うことはない。ましてや、あの美しく強大な鷹島さんの『運命』になど、なれるはずがないのだ。
『アンタは捨て駒よ! あの冷酷男がどう扱っても許される、使い捨てのゴミなんだわ!』
冨佐子様の呪いの言葉が、再び耳の奥でこだました。
そうだ。捨て駒ならそうと割り切って、これ以上要らぬ期待など持たない方がいいのかもしれない。大人しく父の命令に従い、感情を殺して生きる。そうすれば、これ以上心が傷つくことはない。
けれど——
私は布団から這い出し、文机の引き出しの奥に隠していたものをそっと取り出した。何度も何度も見返して、指でなぞって、ボロボロになった新聞の切り抜き。
【顔面に重傷を負いながらも——鷹島大尉の武勲】
活字の向こう側に、あの人の不器用な優しさが透けて見える。
泥だらけの私の手を掬い上げてくれた、あの分厚い手袋の感触。茶の葉を取ってくれた時の、少し困ったような、けれど穏やかな碧玉の瞳。
彼のことを考えると、トクトクと脈打つ胸の鼓動。
(……あの方が、好き)
会いたい。その思いがふつふつと腹の奥で沸騰する。
(会いに行こう。あの方がどういう人なのかは、私が私の目で判断するんだから……!)
決意と共に、私は立ち上がった。
箪笥の奥から、先日のお見合いの時に着た、唯一のまともな着物を引っ張り出す。
豪華な絹ではないけれど、母が綺麗に手入れをしてくれた、清潔な淡い桜色の着物だ。
手早く着付けを済ませ、乱れていた髪を櫛で丁寧に梳かす。鏡に映った自分の顔は、昨日冨佐子様に張られた頬がまだ少し赤かったけれど、瞳には不思議なほどの力が宿っていた。
「ちゑ、水はいるか?」
「いえ……何もいらない。そこにいて……」
隣の部屋では、父が母を看病している。
私は足音を忍ばせ、離れの廊下を抜き足差し足で進んだ。女学校に通う以外で家を勝手に抜け出すことは許されていない。もし冨佐子様に見つかればまた折檻だろう。バレてはいけない。心臓が早鐘のように鳴っている。
裏木戸の鍵をそっと外し、外の冷たい空気の中へ滑り出た。
誰にも言わない、秘密の逢引。
この一歩が、さらなる絶望を招くのか、それとも一筋の光となるのかはわからない。
それでも、私の足取りは羽が生えたように軽く、胸は弾けそうなほど高鳴っていた。
牛込の衛戍病院へ——
白金の長い坂を下り、大通りへ出ると、そこには私の知らない騒がしい世界が広がっていた。
カラン、カランと鐘の音を鳴らして走る深緑色の市電。私は震える手でがま口から硬貨を取り出し、車掌から小さな切符を受け取った。
車内は人々の熱気と、煙草やポマードの匂いが充満している。揺れる車内で転ばないよう柱にしがみつきながら、私は懐の新聞の切り抜きをぎゅっと握りしめた。
勢いのままに飛び出した熱はまだ冷めない。
(会いたい、会いたい……!)
彼に近づいていると思う度、思いは強くなるばかりだった。
市電を二つ乗り継いで、ついに牛込へ到着する。逸る気持ちが足を速くする。運動音痴の自分のどこにここまでの力があったのか、息も切らさずに私は衛戍病院の入口までたどり着いた。
(やっと、会える……!)
小銃を持った門番を見ても怖いとは思わなかった。
あの門の向こうに、鷹島さんがいると思えば——
◇ ◇ ◇
「入場は許可できません」
そんな淡い思いは、堅牢な門を守る歩哨に簡単に阻まれた。
「あ、あの……でも……鷹島大尉と、お約束を、し、しておりまして」
「ですが鷹島大尉は本日は特別治療のため、全ての面会が禁止されております」
「特別治療……?」
聞き慣れない言葉に、私は思わず聞き返した。
「はい。軍医長以外の立ち入りは厳しく制限されております。お嬢様、本日はお引き取りを」
歩哨の男性は、銃剣を手に冷たく言い放つ。
いつもの私ならここですごすごと引き下がるのだが、今日はどういうわけか興奮状態だった。
会いたい気持ちが気を強くさせ、妙に冷静な頭で鷹島さんとの約束を思い出す。彼ほどの人が今日面会謝絶であることを忘れるはずがない。それでも私と約束したということは、この面会謝絶日を利用して『ふたりで』という約束を果たそうとしているに違いない。
「通してください。私は月守小夜子です。彼に会いに来たのです」
自分でも不思議なほど冷静に声が出た。父の真似をして背筋を伸ばし、目をじっと見つめて歩哨に告げる。
じり……とにらみ合いが続く。歩哨が一筋の汗をかいたとき、別の歩哨が慌てて駆け寄ってきた。何事か話したかと思うと、ふたりの歩哨は頭を下げた。
「失礼しました。伊津名少将より許可が出ておりました。どうぞ——」
道が開いた。
思わぬ事態に逆に私がびっくりしてしまう。先ほどの勇気はすべて散ってしまった。男性に頭を下げさせていることに恐縮してしまい、私はぺこぺこと頭を下げて衛戍病院の白い壁へ向かって歩き出した。
