表座敷での息詰まる対面のあと、私は本邸の玄関まで鷹島さんたちを見送ることになった。
重厚な玄関扉が開き、外の冷たい空気が入り込んでくる。門の前には車が止まっていた。
「行くぞ、シヅヲ」
伊津名少将の穏やかな声が聞こえる。軍務の時以外は優しい父のように鷹島さんの名を呼ぶらしい。
軍靴の音を響かせて歩き出そうとした鷹島さんの背を、お辞儀をして見送る。
けれど鷹島さんはふと足を止め、振り返って私を見た。
「なぜ、そのような身なりをしているのだ?」
単刀直入、けれど責めるような響きはない問いかけだった。
彼の透き通るような碧玉の瞳が、私のお茶で汚れたボロ着物と、手入れのされていない髪を見つめている。
「え……あ、その……」
忘れていた。私は頭から茶をかぶったみすぼらしい濡れ狸だった。
顔から火が出るほど恥ずかしくて、私は俯き、着物のシミを隠すように両手で覆い隠した。
言葉に詰まる私を見て、鷹島さんは眉をひそめ、一歩こちらへ歩み寄ってきた。
「その姿はまるで下女の様だ。あなたは公爵様のご息女なのだろう?」
「え、えっと……それは……」
「あなたがΩであるから、不当な扱いを受けているのか?」
「いえ、私は……」
返す言葉に迷っていると、鷹島さんの手がそっと髪に触れる。びくりと体をすくませると、大きな手の中に茶の葉が入っているのが見えた。
やはり身なりを整えるべきだった。縁談の話の場なのに、なぜ父はそれを教えてくれなかったのだろう。ぼろぼろのお仕着せで現れた娘を差し出すなんて、失礼と取られても仕方がないのに。
(……それこそがお父様の狙い、かも)
父は政に関しては稀代の天才だ。軍とのつながりも、軍への権威の見せ方も、全て計算ずくなのだろう。
軍人如きが公爵家の愛娘を選ぶというのか、お前にはみすぼらしい愛人の子がお似合いだ。そんな無言の圧をかけていたに違いない。
その結果、どちらの娘も恥をかくことになるなど気にもしないで……
「自分に何かできることは——」
「大尉。余計な詮索は無用だ」
鷹島さんが何かを言いかけた瞬間、伊津名少将の冷ややかな声がそれを遮った。
「そろそろ通院の時間だろう。小夜子嬢、申し訳ないが鷹島をもらっていくよ」
「いえ! あの、今日はお会いできて嬉しかった……です……」
伊津名少将の命令に、鷹島さんは小さく姿勢を正した。
そして再び私の方へ向き直ると、自らの軍帽を深くかぶり直し、静かな声で言った。
「自分は療養のために衛戍病院に通っている。縁談の話が進む前に……近いうちに、ふたりでお会いしたい」
その言葉とともに残された、微かな温もり。
私は、鷹島さんたちが乗り込んだ黒塗りの車が見えなくなるまで、頭を下げて見送った。
(ふたりで……親や伊津名少将抜きで、ってこと……?)
胸の奥で、小さな炎がぽっと灯ったような気がした。
泥水をすするような毎日の中で、たった一つの希望だった人。その人が私を選び、手を引いてくれた。まるで夢を見ているかのようで、帰り道を歩く私の足取りは、ひどくふんわりと浮き足立っていた。
しかし、その淡い夢が続くことはなかった。
「——調子に乗るんじゃないわよ!!」
鋭いヒステリックな声と共に、凄まじい力が私の頬を張り飛ばした。
「きゃッ……!」
なすすべもなく地面に叩きつけられる。
じんじんと痺れる頬を押さえて見上げると、そこには夜叉のように顔を歪めた冨佐子様が立っていた。
「みすぼらしい泥棒狸のくせに。お前なんかが、本気で相手にされるはずがないでしょう!」
冨佐子様から放たれる、怒りに満ちた鋭いαの覇気が、刃物のように私の肌を刺す。息ができず、私は地面に這いつくばったまま小さく咳き込んだ。
「鷹島シヅヲがどういう者か、お前は知りもしないのでしょうね」
「それは……」
「あれは生まれながらの高位のα。……いいえ、それを超える『エスα』ではないかと噂されているのよ」
「えす、あるふぁ……?」
聞き慣れない言葉に、私は痛む頬を押さえたまま呆然と冨佐子様を見上げた。
「その声を聞いただけで凡百の者はひれ伏し、他者のヒートやラットすら自在に操るという、人類の上位種。伝説上では、番を複数持てるとも言われている、絶対的な存在よ。ただのαとは格が違うの」
冨佐子様は扇子を固く握りしめ、憎々しげに私を見下ろした。
「これまであの男には、高位の華族から数多の縁談が持ち込まれたわ。けれど、あれはそのすべてをすげなく断り、冷酷に追い返してきた。女になど一切の興味を示さない、血も涙もない軍神。……そんな男に、なぜお父様はアンタを引き合わせたと思うの?」
冨佐子様の冷たい言葉が、私の心に灯ったばかりの小さな炎に、冷や水をぶちまけていく。
そうだ。私なんて、何の取り柄もない、出来損ないの愛人の子だ。あんなにも美しく、恐ろしいほどの力を持った英雄が、私を心から愛して選んでくれるはずがない。
「アンタは捨て駒よ! あの冷酷男がどう扱っても許される、使い捨てのゴミなんだわ!」
冨佐子様の言葉は、呪いのように私の耳にこびりついた。
(捨て駒……)
「そんな男、こっちからお断りだわ。軍人への格下婚なんて、公爵令嬢の私には合わないし。まあ、愛人っていうのなら、囲ってあげてもいいけど……ふふ、アンタの汚い母親みたいにね」
鷹島さんの「あなたに会いたかった」という言葉は、父や軍部が書いた台本通りの、ただの芝居だったのだろうか。あの温かい手も、私を気遣うようなあの瞳も、すべては偽りだったのだろうか。
「せいぜい、無残に使い潰されることね。汚らわしいΩの子」
冨佐子様は私を一瞥すると、着物の裾を翻して踵を返した。
地面に倒れた私は、ただガタガタと震えることしかできなかった。
私を照らしてくれたと思っていた一筋の光は、私をさらに深い絶望の淵へと突き落とすための、残酷な幻でしかなかったのだろうか。
重厚な玄関扉が開き、外の冷たい空気が入り込んでくる。門の前には車が止まっていた。
「行くぞ、シヅヲ」
伊津名少将の穏やかな声が聞こえる。軍務の時以外は優しい父のように鷹島さんの名を呼ぶらしい。
軍靴の音を響かせて歩き出そうとした鷹島さんの背を、お辞儀をして見送る。
けれど鷹島さんはふと足を止め、振り返って私を見た。
「なぜ、そのような身なりをしているのだ?」
単刀直入、けれど責めるような響きはない問いかけだった。
彼の透き通るような碧玉の瞳が、私のお茶で汚れたボロ着物と、手入れのされていない髪を見つめている。
「え……あ、その……」
忘れていた。私は頭から茶をかぶったみすぼらしい濡れ狸だった。
顔から火が出るほど恥ずかしくて、私は俯き、着物のシミを隠すように両手で覆い隠した。
言葉に詰まる私を見て、鷹島さんは眉をひそめ、一歩こちらへ歩み寄ってきた。
「その姿はまるで下女の様だ。あなたは公爵様のご息女なのだろう?」
「え、えっと……それは……」
「あなたがΩであるから、不当な扱いを受けているのか?」
「いえ、私は……」
返す言葉に迷っていると、鷹島さんの手がそっと髪に触れる。びくりと体をすくませると、大きな手の中に茶の葉が入っているのが見えた。
やはり身なりを整えるべきだった。縁談の話の場なのに、なぜ父はそれを教えてくれなかったのだろう。ぼろぼろのお仕着せで現れた娘を差し出すなんて、失礼と取られても仕方がないのに。
(……それこそがお父様の狙い、かも)
父は政に関しては稀代の天才だ。軍とのつながりも、軍への権威の見せ方も、全て計算ずくなのだろう。
軍人如きが公爵家の愛娘を選ぶというのか、お前にはみすぼらしい愛人の子がお似合いだ。そんな無言の圧をかけていたに違いない。
その結果、どちらの娘も恥をかくことになるなど気にもしないで……
「自分に何かできることは——」
「大尉。余計な詮索は無用だ」
鷹島さんが何かを言いかけた瞬間、伊津名少将の冷ややかな声がそれを遮った。
「そろそろ通院の時間だろう。小夜子嬢、申し訳ないが鷹島をもらっていくよ」
「いえ! あの、今日はお会いできて嬉しかった……です……」
伊津名少将の命令に、鷹島さんは小さく姿勢を正した。
そして再び私の方へ向き直ると、自らの軍帽を深くかぶり直し、静かな声で言った。
「自分は療養のために衛戍病院に通っている。縁談の話が進む前に……近いうちに、ふたりでお会いしたい」
その言葉とともに残された、微かな温もり。
私は、鷹島さんたちが乗り込んだ黒塗りの車が見えなくなるまで、頭を下げて見送った。
(ふたりで……親や伊津名少将抜きで、ってこと……?)
胸の奥で、小さな炎がぽっと灯ったような気がした。
泥水をすするような毎日の中で、たった一つの希望だった人。その人が私を選び、手を引いてくれた。まるで夢を見ているかのようで、帰り道を歩く私の足取りは、ひどくふんわりと浮き足立っていた。
しかし、その淡い夢が続くことはなかった。
「——調子に乗るんじゃないわよ!!」
鋭いヒステリックな声と共に、凄まじい力が私の頬を張り飛ばした。
「きゃッ……!」
なすすべもなく地面に叩きつけられる。
じんじんと痺れる頬を押さえて見上げると、そこには夜叉のように顔を歪めた冨佐子様が立っていた。
「みすぼらしい泥棒狸のくせに。お前なんかが、本気で相手にされるはずがないでしょう!」
冨佐子様から放たれる、怒りに満ちた鋭いαの覇気が、刃物のように私の肌を刺す。息ができず、私は地面に這いつくばったまま小さく咳き込んだ。
「鷹島シヅヲがどういう者か、お前は知りもしないのでしょうね」
「それは……」
「あれは生まれながらの高位のα。……いいえ、それを超える『エスα』ではないかと噂されているのよ」
「えす、あるふぁ……?」
聞き慣れない言葉に、私は痛む頬を押さえたまま呆然と冨佐子様を見上げた。
「その声を聞いただけで凡百の者はひれ伏し、他者のヒートやラットすら自在に操るという、人類の上位種。伝説上では、番を複数持てるとも言われている、絶対的な存在よ。ただのαとは格が違うの」
冨佐子様は扇子を固く握りしめ、憎々しげに私を見下ろした。
「これまであの男には、高位の華族から数多の縁談が持ち込まれたわ。けれど、あれはそのすべてをすげなく断り、冷酷に追い返してきた。女になど一切の興味を示さない、血も涙もない軍神。……そんな男に、なぜお父様はアンタを引き合わせたと思うの?」
冨佐子様の冷たい言葉が、私の心に灯ったばかりの小さな炎に、冷や水をぶちまけていく。
そうだ。私なんて、何の取り柄もない、出来損ないの愛人の子だ。あんなにも美しく、恐ろしいほどの力を持った英雄が、私を心から愛して選んでくれるはずがない。
「アンタは捨て駒よ! あの冷酷男がどう扱っても許される、使い捨てのゴミなんだわ!」
冨佐子様の言葉は、呪いのように私の耳にこびりついた。
(捨て駒……)
「そんな男、こっちからお断りだわ。軍人への格下婚なんて、公爵令嬢の私には合わないし。まあ、愛人っていうのなら、囲ってあげてもいいけど……ふふ、アンタの汚い母親みたいにね」
鷹島さんの「あなたに会いたかった」という言葉は、父や軍部が書いた台本通りの、ただの芝居だったのだろうか。あの温かい手も、私を気遣うようなあの瞳も、すべては偽りだったのだろうか。
「せいぜい、無残に使い潰されることね。汚らわしいΩの子」
冨佐子様は私を一瞥すると、着物の裾を翻して踵を返した。
地面に倒れた私は、ただガタガタと震えることしかできなかった。
私を照らしてくれたと思っていた一筋の光は、私をさらに深い絶望の淵へと突き落とすための、残酷な幻でしかなかったのだろうか。
