Ω軍人とα幼妻

 冨佐子様の浮き足立った声が響いた直後、廊下の奥から規則正しく、重々しい足音が近づいてきた。
 本邸の空気が、さらに一段階張り詰める。
 静かに襖が開け放たれると、そこには軍服姿の男性たちが低頭していた。
 顔は見えないが、先頭にいるのが将官――特務部隊『廻天隊』を束ねる伊津名少将だろう。
 そしてその後ろに、静かな影のように付き従う金色の髪の青年がいる。

「よく来られた、伊津名少将。鷹島大尉」
「お招きいただき、光栄の至りに存じます。月守公爵閣下」

 父の重い声に、伊津名少将が恭しく応じる。
 その厳格なやり取りに、先ほどまで騒いでいた冨佐子様もさすがに顔を引き締め、父の斜め後ろ――上座の特等席へといそいそ腰を下ろした。赤い絹の着物が擦れる衣擦れの音が、シンと静まり返った表座敷に響く。

「面を上げよ」

 父の短い命令に従い、二人の軍人がゆっくりと顔を上げる。
 その瞬間、私は息を呑んだ。
 春の日の陽光を受けて輝く、きめ細かい金の髪。異国の血を引くことを証明する、高く通った鼻梁と、彫刻のように美しい骨格。開かれた左目は、深い森の湖畔を思わせる透き通った碧玉。
 おとぎ話に出てくる異国の王子のように、人間離れした美しさ。
 けれど、その姿は先日の見合いの場で出会った頃から変わっていた。
 彼の右目を覆い隠すように、痛々しい黒い眼帯がつけられていたのだ。さらに、その眼帯の隙間から額や頬にかけて、肉がえぐれ、焼け焦げたような生々しい傷跡が幾筋も走っている。
 新聞の活字で『顔面に重傷を負いながらも』と読んだ時には想像もつかなかった、凄惨な戦禍の爪痕。
 そしてその瞳にはもう光を宿していなかった。戦争という地獄を見てきた者のする、特有の瞳。希望も絶望もないその瞳の色に、喉の奥で小さな悲鳴が漏れそうになる。 
 どれほどの地獄を、あの美しい人は歩いてきたのだろう。死の匂いと硝煙がこびりついたようなその瞳に、私は戦争というものの恐ろしさを肌で感じ、震える手をぎゅっと握りしめた。

「日露の戦においては、廻天隊の活躍見事であった。帝国の勝利は、貴様らの血と泥の賜物であろう」
「もったいないお言葉です」
「特に鷹島大尉。貴公の活躍目覚ましいと聞いた。よく国を護ってくれたな。民を代表して礼を言おう」
「ありがたく存じます」
「では本題に入ろう。我が『娘』との婚姻の件だ――」

 父がそう口にした途端、上座に座っていた冨佐子様が弾かれたように身を乗り出した。

「ええっ! もちろんでございますわ、お父様!」

 父の言葉を遮るように、冨佐子様が甘ったるい声を上げる。
 頬を薔薇色に染め、恋い焦がれた人を見るような熱っぽい視線を鷹島さんに送りながら、彼女は扇子で口元を隠して微笑んだ。
 
「鷹島様のような国の英雄を夫に持つことは、国中の娘が望んでおります」

 その言葉を聞いて、私は下座の冷たい畳の上で、さらに体を小さく縮こまらせた。
 冨佐子様は美しい。最高級の着物をまとい、自信に満ち溢れ、αとしての気高さと華やかさをこれでもかと放っている。軍神の隣に並び立つのは、間違いなくあのような選ばれた女性なのだ。

「娘、とは——」

 伊津名少将が、怪訝そうに眉をひそめた。この場に『娘』は二人いて、父はどちらとは言わなかった。

「好きな方を」
 
 選べ、と言うことだろう。
 
(私、なんで呼ばれたんだっけ……)

 視界が涙で滲む。縁談の話と聞いて浮かれた気持ちがなかったわけではない。先日も獅子王大尉と見合いをしていたし、次の話があってもおかしくないと思っていた。期待した。鷹島さんと婚約できることを。
 けれど、冨佐子様が名乗り出てきてはそれも終わりだ。美しい正妻の子と、みすぼらしい愛人の子。どちらを選ぶかなんて聞かれるまでもない。
 沈黙が表座敷に流れる。この後の動きはお前たちが決めろ、と父は無言で言っているようだった。
 静かな応接間に、衣擦れの音が響く。鷹島さんが、ゆっくりと立ち上がったのだ。

「あら、鷹島様……?」

 自分の方へ来てくれるのだと信じて疑わない冨佐子様が、うっとりとした声を上げる。
 しかし、彼の足音は上座へは向かわなかった。
 迷いのない真っ直ぐな足音が、なぜか部屋の一番隅――下座で震えている私の目の前で、ピタリと止まった。

「……え?」

 驚いて顔を上げた私の視界に、紺色の軍服が見える。
 次の瞬間、大きく、分厚い軍手袋に、濡れて汚れた私の手を、包み込むようにそっと掬い上げた。

「あなたに会いたかった」

 鼓膜を震わせる、あの日のままの、湖畔のように静かで低い声。
 息を呑んで見上げた先には、ボロを着た私に対して片膝をつく軍神の姿がある。

「どういう、こと——?」

 冨佐子様の声が震えている。しかし鷹島さんの瞳には、もう私しか映っていないようだ。まっすぐに私を捕らえる碧玉に、私の姿が映っている。

「どうやら鷹島大尉は、小夜子を選んだようだな」

 父の低い声は、有無を言わさぬ圧を持っていた。それを聞いて、絹を裂くような冨佐子様の悲鳴があたりに響きわたった。

「ありえない! 鷹島様、ご冗談はおよしください!」
「いえ。自分は月守小夜子嬢にお会いしたかったのです」
「そいつはΩです! 鷹島様にはふさわしくないわ!」

 Ω、という言葉を聞いて体が固まる。
 鷹島さんからどんな言葉をかけられるか恐ろしくて、私は違う、とは言えなかった。
 けれど鷹島さんは震える私の手をぎゅっと握ってくれた。

「第二の性は、人の価値を決めるものではない」

 少し冷たくて、けれど暖かい手。
 勇気を出してその手を握り返す。私を離すことのない鷹島さんの姿を見て、ぽろぽろと涙がこぼれた。