ざあざあと流れる川の音が、やけに鼓膜に響く。
河川敷の影に身を潜めた私と獅子王少佐は、月明かりの下で向かい合う二人の姿を息を殺して見つめていた。
「——小夜子と、別れて頂戴」
母の口から紡がれたその言葉に、私は自分の耳を疑った。
母は真っ直ぐに鷹島さんを見据え、はっきりと、私たちの縁を切れと要求したのだ。
「……理由を、お聞かせ願えますか」
鷹島さんは動揺するそぶりも見せず、ただ静かに、若草色の瞳で母を見つめ返した。
「あの子を北海道へ連れて行くそうね」
母の声が、夜風に乗って震えていた。
それは怒りではない。切実な、張り裂けんばかりの恐怖の色が混じった声だった。
「裏の意図はあの伊津名少将を捕らえるため——でしょう? そんな危険に、娘を巻き込みたくないの」
「ご心配はごもっともです。ですが、彼女はエスα。並の軍人よりもよほど強い能力を……」
「あの子は! とても弱い、まだ、子供なのよ! 誰かが、ずっと守ってあげなきゃいけないの! 『Ω』のあなたに、それができるというの!?」
Ωのあなたに。
その言葉は、鷹島さんがこれまで生きてきて、一番呪い、一番恐れていた言葉のはずだった。私の隣で息を潜めている獅子王少佐が、小さく息を漏らした音が聞こえた。
「……彼女を守り抜く覚悟があります」
鷹島さんは静かに、けれど鋼のように揺るぎない声で答えた。
「この覚悟では、安心していただけませんか」
「ええ。あなたは強いのでしょうね。立派な軍人——軍神・鷹島なのだから」
母はふらりと一歩前へ出て、鷹島さんの大きな背中を見上げた。
「でも……それ以上に。Ωは……私たちは、弱いじゃない」
絞り出すような母の悲鳴が、夜の闇に吸い込まれていく。
「どれだけ武力があろうと、覚悟があろうと、Ω性がすべて壊していく。抑制剤を打たずにヒートを超えられるの? 項を隠さずに生きていける? 小夜子を、αを前に、Ωの顔を隠せるの!? 守ってもらいたいと、願わずにいられるの!?」
母の悲痛な叫びに、私は胸をきつく締め付けられた。
母自身が、誰よりも「Ω」による残酷な世界を骨の髄まで味わってきたのだ。だからこそ、その恐怖が染み付いている。
「今は英雄と持て囃されていても、いずれ必ず、社会はΩであるあなたを叩き落とそうとする。その時、あの子まで一緒に泥沼に引き摺り込まれてしまう……っ」
母の顔が、月明かりの下で苦痛に歪んでいた。
私を虐げていた父や貴子様とは違う。母の言葉の根底にあるのは、純粋な愛だった。
「いつかあの子が絶望し、決定的に傷つくくらいなら。……せめて、今にして。今、あの子を棄てて」
祈るように両手を握りしめ、涙を流す母。
私は言葉も出なかった。母の愛が確かに伝わってくる。その悲壮な覚悟と、残酷なまでの決断が。
獅子王少佐は静かに母の言葉を聞いていた。元高位αであり、今はΩに落ちた彼だからこそ、母の言う『社会の残酷さ』が、そして『Ωは必ず潰されるという真実』が、痛いほどに理解できてしまうのだろう。彼の震える拳が、それを物語っていた。
静寂が下りる。
川の音だけが響く中、鷹島さんは、涙を流す母をただ静かに見下ろしていた。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「……ちゑ殿の仰る通りです」
その声はひどく穏やかで、責めるような響きは微塵もなかった。
「俺もかつては、己の運命をひたすらに呪い、この血を憎みました。Ωであることを隠し、ただ死に場所を求めるように戦場へ身を投じてきた。……社会の壁がどれほど厚く残酷か、俺自身が痛いほど理解しています」
「なら……!」
「だからこそ、俺がこれからどれだけ言葉を尽くし、力を誇示しようとも、あなたの心の底にある不安を完全に拭い去り、安心させることはできないでしょう」
母の言葉を、鷹島さんは真っ向から受け止めた。
慰めでも誤魔化しでもない、誠実すぎるその答えに、母は絶望したように顔を歪めた。
しかし、鷹島さんは一歩だけ母へと近づき、夜空を見上げるようにふっと息を吐いた。
「けれど……俺は今、自分に生まれてよかったと、心から思っているのです」
その言葉に、母が弾かれたように顔を上げる。
息を潜めていた私も、隣にいた獅子王少佐も、思わず目を見開いた。
「もし俺が、αとして生まれていれば、小夜子さんと深く交わることはなかった。βであれば、彼女の番になることは決してできなかった。俺が、Ωだったからこそ……彼女は俺を見つけ、その手を差し伸べてくれた」
月明かりの下、鷹島さんの若草色の瞳が、これまでに見たどんな時よりも優しく、そして誇り高く澄み渡っていた。
「呪われた運命だと思っていたこの身が、彼女と結びつくためのたった一つの鍵だった。……俺は、Ωに生まれてよかった。小夜子さんと出会えて、愛し合うことができて、俺は今、心から幸せです」
朗々と響くその声には、一切の迷いがなかった。
第二の性という、この世界を縛り付ける絶対的な呪い。けれど鷹島さんは、そのすべてを受け止め、希望を抱いている。
「この命を懸けて、小夜子さんを守ります。その覚悟を、信じてはもらえないでしょうか」
「ああ……」
母の口から、嗚咽のような声が漏れた。
母は両手で顔を覆い、ポロポロととめどなく涙をこぼした。それは先ほどまでの恐怖や絶望の涙ではなく、己の呪縛が解け、張り詰めていた糸が切れたような、安堵の涙にも見えた。
「……小夜子を……」
震える声で、母は言葉を紡いだ。
「どうか、小夜子を……よろしく頼みます」
母は鷹島さんに向かって深く、深く頭を下げた。
鷹島さんは姿勢を正し、軍人としての最敬礼をもって、母の懇願に答えた。
「はい。俺の生涯を懸けて、必ず」
河川敷の影で、私は両手で口を塞いだままボロボロと泣き崩れた。
鷹島さんの言葉が、胸の奥をじんわりと、熱く満たしていく。隣にしゃがみ込んだ獅子王少佐も、何も言わずに顔を背け、夜空を仰いでいた。
河川敷の影に身を潜めた私と獅子王少佐は、月明かりの下で向かい合う二人の姿を息を殺して見つめていた。
「——小夜子と、別れて頂戴」
母の口から紡がれたその言葉に、私は自分の耳を疑った。
母は真っ直ぐに鷹島さんを見据え、はっきりと、私たちの縁を切れと要求したのだ。
「……理由を、お聞かせ願えますか」
鷹島さんは動揺するそぶりも見せず、ただ静かに、若草色の瞳で母を見つめ返した。
「あの子を北海道へ連れて行くそうね」
母の声が、夜風に乗って震えていた。
それは怒りではない。切実な、張り裂けんばかりの恐怖の色が混じった声だった。
「裏の意図はあの伊津名少将を捕らえるため——でしょう? そんな危険に、娘を巻き込みたくないの」
「ご心配はごもっともです。ですが、彼女はエスα。並の軍人よりもよほど強い能力を……」
「あの子は! とても弱い、まだ、子供なのよ! 誰かが、ずっと守ってあげなきゃいけないの! 『Ω』のあなたに、それができるというの!?」
Ωのあなたに。
その言葉は、鷹島さんがこれまで生きてきて、一番呪い、一番恐れていた言葉のはずだった。私の隣で息を潜めている獅子王少佐が、小さく息を漏らした音が聞こえた。
「……彼女を守り抜く覚悟があります」
鷹島さんは静かに、けれど鋼のように揺るぎない声で答えた。
「この覚悟では、安心していただけませんか」
「ええ。あなたは強いのでしょうね。立派な軍人——軍神・鷹島なのだから」
母はふらりと一歩前へ出て、鷹島さんの大きな背中を見上げた。
「でも……それ以上に。Ωは……私たちは、弱いじゃない」
絞り出すような母の悲鳴が、夜の闇に吸い込まれていく。
「どれだけ武力があろうと、覚悟があろうと、Ω性がすべて壊していく。抑制剤を打たずにヒートを超えられるの? 項を隠さずに生きていける? 小夜子を、αを前に、Ωの顔を隠せるの!? 守ってもらいたいと、願わずにいられるの!?」
母の悲痛な叫びに、私は胸をきつく締め付けられた。
母自身が、誰よりも「Ω」による残酷な世界を骨の髄まで味わってきたのだ。だからこそ、その恐怖が染み付いている。
「今は英雄と持て囃されていても、いずれ必ず、社会はΩであるあなたを叩き落とそうとする。その時、あの子まで一緒に泥沼に引き摺り込まれてしまう……っ」
母の顔が、月明かりの下で苦痛に歪んでいた。
私を虐げていた父や貴子様とは違う。母の言葉の根底にあるのは、純粋な愛だった。
「いつかあの子が絶望し、決定的に傷つくくらいなら。……せめて、今にして。今、あの子を棄てて」
祈るように両手を握りしめ、涙を流す母。
私は言葉も出なかった。母の愛が確かに伝わってくる。その悲壮な覚悟と、残酷なまでの決断が。
獅子王少佐は静かに母の言葉を聞いていた。元高位αであり、今はΩに落ちた彼だからこそ、母の言う『社会の残酷さ』が、そして『Ωは必ず潰されるという真実』が、痛いほどに理解できてしまうのだろう。彼の震える拳が、それを物語っていた。
静寂が下りる。
川の音だけが響く中、鷹島さんは、涙を流す母をただ静かに見下ろしていた。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「……ちゑ殿の仰る通りです」
その声はひどく穏やかで、責めるような響きは微塵もなかった。
「俺もかつては、己の運命をひたすらに呪い、この血を憎みました。Ωであることを隠し、ただ死に場所を求めるように戦場へ身を投じてきた。……社会の壁がどれほど厚く残酷か、俺自身が痛いほど理解しています」
「なら……!」
「だからこそ、俺がこれからどれだけ言葉を尽くし、力を誇示しようとも、あなたの心の底にある不安を完全に拭い去り、安心させることはできないでしょう」
母の言葉を、鷹島さんは真っ向から受け止めた。
慰めでも誤魔化しでもない、誠実すぎるその答えに、母は絶望したように顔を歪めた。
しかし、鷹島さんは一歩だけ母へと近づき、夜空を見上げるようにふっと息を吐いた。
「けれど……俺は今、自分に生まれてよかったと、心から思っているのです」
その言葉に、母が弾かれたように顔を上げる。
息を潜めていた私も、隣にいた獅子王少佐も、思わず目を見開いた。
「もし俺が、αとして生まれていれば、小夜子さんと深く交わることはなかった。βであれば、彼女の番になることは決してできなかった。俺が、Ωだったからこそ……彼女は俺を見つけ、その手を差し伸べてくれた」
月明かりの下、鷹島さんの若草色の瞳が、これまでに見たどんな時よりも優しく、そして誇り高く澄み渡っていた。
「呪われた運命だと思っていたこの身が、彼女と結びつくためのたった一つの鍵だった。……俺は、Ωに生まれてよかった。小夜子さんと出会えて、愛し合うことができて、俺は今、心から幸せです」
朗々と響くその声には、一切の迷いがなかった。
第二の性という、この世界を縛り付ける絶対的な呪い。けれど鷹島さんは、そのすべてを受け止め、希望を抱いている。
「この命を懸けて、小夜子さんを守ります。その覚悟を、信じてはもらえないでしょうか」
「ああ……」
母の口から、嗚咽のような声が漏れた。
母は両手で顔を覆い、ポロポロととめどなく涙をこぼした。それは先ほどまでの恐怖や絶望の涙ではなく、己の呪縛が解け、張り詰めていた糸が切れたような、安堵の涙にも見えた。
「……小夜子を……」
震える声で、母は言葉を紡いだ。
「どうか、小夜子を……よろしく頼みます」
母は鷹島さんに向かって深く、深く頭を下げた。
鷹島さんは姿勢を正し、軍人としての最敬礼をもって、母の懇願に答えた。
「はい。俺の生涯を懸けて、必ず」
河川敷の影で、私は両手で口を塞いだままボロボロと泣き崩れた。
鷹島さんの言葉が、胸の奥をじんわりと、熱く満たしていく。隣にしゃがみ込んだ獅子王少佐も、何も言わずに顔を背け、夜空を仰いでいた。



