虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

「獅子王少佐。北海道は、どのようなところでしょうか?」

 大公会堂での事件と、洋館での温かな婚姻式を終え、私たちの周囲には嘘のように穏やかな時間が流れ始めていた。
 季節はゆっくりと、しかし確実に進んでいく。
 結納を終え、婚約式を終え、鷹島さんの負傷も癒えつつある今、私たちの環境も大きく変わろうとしていた。
 彼が軍務に復帰するため、再び北の大地——北海道の旭川連隊へと戻る日が決まったのだ。

「なんだ、きみも行くのか?」
「はい。父から許可も出ていますし」
 
 もちろん、私も鷹島さんと共に北海道へ行くつもりだ。
 それは鷹島さんと離れたくないという気持ちもあるが——

「……伊津名少将対策か」

 伊津名少将。彼は大公会堂を抜けた後、悠々と彼の本拠地・北海道へ戻ったという。
 エスΩの驚異的な能力に対抗しうる、エスαの私は、伊津名少将捕縛のために北海道へ招集されていた。

「あれだけのことをして、まだ少将で居られるなんて——」
「閣下の政治力は月守公爵に並ぶ。当然だろう」
「もう! ちゃんと伊津名少将離れしてください。あなたはもう私の番なんですよ」

 私が唇を尖らせてそう言うと、獅子王少佐は気まずそうに目を逸らす。
 軍服で隠されている彼の首元には、私が刻んだ印がある。エスαの得意能力の一つ、複数の番をもつ能力で印を刻んだ彼は、お互い望んでいないというのに番になってしまったのだった。
 
「きみには鷹島がいるだろう。さっさと番契約を解け、この性悪狸が」
「解き方なんてわかりませんよ……でも、αとしての責任は取りますから……」
「クソッ! この私が、こんな小狸に……!」

 やいのやいのと言い合いをしながら、私たちは本邸の自室で荷造りをしている。
 獅子王少佐は私の監視下においてのみ自由を許されるため、私の厳重な管理下にいる……ついでに、いろいろとお手伝いをしてもらっているのだった。
 なんやかんやで面倒見のいい彼は、文句を言いつつも私の荷造りを手伝ってくれる。

「第七師団は旭川に本拠地がある。数年前に見合いをした、あの場所だ。帝国の北の守りを固めるために置かれた最前線だ。冬になれば雪が背丈以上に降り積もり、息をするだけで肺が凍るほど寒くなる」
「寒いの、耐えられるでしょうか……」
「ふん、帝都の狸が蝦夷狸になるだけだ。慣れるだろうよ」

 獅子王少佐はそっけなく答えながらも、丁寧な手つきで私の着物を畳んでくれる。
 鷹島さんと出会ってから、私の持ち物は増えた。贈ってくれた着物や洋服だけではない、独逸語の本や社交マナーの教科書、料理道具など。鷹島さんは私の世界を広げてくれた。
 
「……って、おい! 肌着ぐらいは自分でやらないか! きみは女性としての恥じらいがないのか!?」
「あはは。なんか、獅子王さんは私のΩだから、いいかなって」
「いいわけあるか! だいたい、鷹島はどうした? 自分の番の荷造りくらい手伝いに来い」
「軍部への最終報告があるからと、夕方から出かけています。会えないだろうから、寝ていろとは言われたのですが……」

 鷹島さんは獅子王さんを迎えに来た後、官舎に戻る予定だ。
 時計の針は深夜を回ろうとしている。眠気に瞼が落ちてくるが、大好きな番の顔を見るために頑張って目を覚ます。
 ふと、廊下から微かな足音が聞こえた。鷹島さんがやってきたのかと思い、部屋の扉を少しだけ開けて覗き込む。

「……お母様?」

 薄暗い廊下の先を歩いていたのは、鷹島さんではなく、母のちゑだった。
 寝着ではなく、外出用の暗い色の着物を羽織り、足音を忍ばせるようにして裏口へと向かっている。

(こんな夜更けに、どこへ……?)

 その瞬間、婚姻式のあの夜、母が見せた『底なし沼のように昏く、冷たい目』が脳裏によぎった。
 何か、とてつもなく嫌な予感がした。見過ごしてはいけない、得体の知れない不安。

「獅子王さん、私、ちょっと……」
「……女が一人で出歩くな。私も行く」

 母の行方が気になって、少し時間をおいて彼女の後を追う。獅子王さんは大きくため息をついて、私の後をついてきてくれた。
 屋敷の裏門を抜け、夜風が吹きすさぶ暗い夜道へと母は迷いなく進んでいく。
 やがて母がたどり着いたのは、屋敷から少し離れた、誰もいない真夜中の川沿いだった。
 月明かりが水面を白く照らし、ざあざあと流れる川の音が、不安を煽る。
 私は河川敷の影に身を隠し、恐る恐る視線を向けた。
 そこにいたのは、母一人ではなかった。

「——遅くなりました」

 母が静かに声をかけた相手。
 月明かりに照らされた軍服の影。そして、振り返った端正な横顔と、若草色の瞳。

「……鷹島、さん?」

 思わず口から零れそうになった声を、両手で必死に塞いだ。
 私の最愛の番であるはずの鷹島さんが、なぜ、こんな真夜中の川沿いで、母と二人きりで会っているのだろう。
 静寂の中、向かい合う二人の間には、いつもの穏やかな空気は微塵もなかった。
 まるで、誰にも聞かれてはならない重大な秘密を共有しているような、張り詰めた異様な空気が漂っている。
 母と鷹島さんの密会。
 信じられない光景を前に、私の足はガクガクと震え、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。