大公会堂での事件からしばらく、季節は初夏を迎えようとしていた。
桜の花は青々とした葉に変わり、そよぐ風に少しの暑さが混じる頃。結納を終えた私たちは小さなパーティを開くことになった。
アドラー男爵の滞在日数が限られていることもあり、帰国される前にあの思い出深い麻布の洋館で、結婚式と婚約式を混ぜたような会を開くことにした。
白いドレスに身を包み、開宴の時を待っていた私は、クララさんの言葉に血相を変えていた。
「ええっ!? 独逸では、男女がお互いに婚約指輪を贈り合う文化があるんですか!?」
「お揃いの指輪を左手にはめ合うのが、伝統的な『フェアローブング』のしきたりなんですよー!」
クララさんが微笑みながら教えてくれた事実。私は真っ青になった。
西洋文化に疎い私は、彼に贈る指輪を用意していなかった。クララさんが言うには、鷹島さんはすでに指輪を用意してくれているらしい。
「ど、どうしよう……! 今から買いに行く時間は……っ」
「お嬢様! 今からじゃ間に合わないですって!」
私がドレスの裾を握りしめてパニックになっていると、不意に控室の扉がノックされる。
「慌てずとも良い、小夜子嬢。……これを使え」
「あなたは……」
そこにいたのは、プラチナブロンドの髪の輝く美しい少年——鷹島さんの実弟、ヴィルヘルム様だった。
初めて発動した私のエスαの能力は、幸か不幸か彼をΩにはしなかったようだ。しかし自分より高位のαに従わせられたことが彼の意識を少し変えたらしい。Ωである兄との確執は多少残っているものの、ぎこちないなりに少しずつ歩み寄っているようだった。
彼がスッと差し出した小さなベルベットの箱を開けると、そこには意匠の凝らされた、男性用の美しいプラチナの指輪が収められていた。
「ヴィルヘルム様、これは……」
「コンラート——兄上の指の寸法に合わせてある」
「良いのですか? こんな高価なもの……」
「……先日の、その……詫びだ。受け取って欲しい」
少しだけ照れくさそうに目を逸らす彼に、私は深く頭を下げて箱を受け取った。
兄上、そのたった一言で、二人の関係がどう変化しているのかを感じられる。第二の性の呪いを断ち切り、二人は真の兄弟になれたのだと。
「ありがとうございます。ヴィルヘルム様」
ヴィルヘルム様は返事こそしなかったが、耳を赤く染めて部屋を去っていく。照れている姿まで、鷹島さんにそっくりだった。
◇ ◇ ◇
「マルタ様、オットー様。先日は娘が大変お世話になりました」
「まあ、ちゑ様。お顔をあげてください。私共も娘のクララがお嬢様にご迷惑ばかりおかけして」
「いえ、クララ様にも大変によくしていただいたと、娘から聞きました」
「……家事手伝いまでさせてしまって、こちらこそ申し訳ない」
庭では月守家とアドラー家、そして洋館の住人たちが集まり、和やかに談笑する声が響いていた。母が私の心配ばかりする声がこそばゆい。早く次の話題に移ってくれないかな、とクララさんと一緒にソワソワしていると、牧師様が立ち上がり、あたりがすっと静かになった。
「それでは、月守家とアドラー家の婚姻式を始めましょう」
牧師様はそういうと鷹島さん"たち"に目で合図をする。
「……くっ、薩摩隼人が西洋の結婚式の真似事など」
「そもそも陸軍が普露西式なのに、何を言っているのやら」
祭壇へと歩みを進めた鷹島さんの隣には、不貞腐れた顔で文句を垂れる獅子王少佐の姿があった。
彼は伊津名少将のクーデターに加担した大罪人となるはずだった。だが、鷹島さんの必死の嘆願と、伊津名少将の『魅了』の得意能力の被害を受けたとみなされ、月守家監視の元、という条件付きで許された。
「そもそも、なんで私なんだ!? 他の奴でいいだろうが!」
「こういった場に呼べる友はお前しかいない」
「し、新友だと!? ふざけるな、誰が貴様なんかと……っ」
「そこまでは言っていない」
やいやいと口喧嘩をしながらも、獅子王少佐は逃げ出すことなく、鷹島さんの『トラウツォイゲ(立会人)』として、しっかりと彼を牧師様の元まで送り届けた。
私にはわからないけれど、二人の間には憎悪と確執の他に、確かな友情があるようだ。
「月守小夜子」
牧師様が私を呼ぶ声がする。次は、私の番だった。
私は父・竹千代に腕を引かれ、ゆっくりとを歩き出した。
父は何も語らない。けれど、父が娘の結婚相手の文化を尊重し、簡易的な婚姻式に参加すること自体、普段の彼からは信じられないほどの譲歩だ。父なりに私を気遣ってくれているのだろう。初めて横に並ぶ父に緊張しながらも、私は牧師様の元へと歩いていく。
「番を守り抜け」
たった一言、父は私にだけ聞こえるように囁く。
母を苦しめておいて何を今更、と言いたいが、グッと堪える。父が母を屋敷に囲っているのは母の命を貴子様から守るためということを、母からそっと打ち明けられたからだった。結婚したあとに運命の番を見つけてしまった父、それにより嫉妬に狂った貴子様に命を狙われた母と私を守るため、あえて目の届く位置に私たちを住まわせていたのだという。
(結局、お父様も人間なんですね)
その行為が正しいかどうかはわからない。でもその曖昧さが、父も悩める人間の一人だということを教えてくれた。
「——汝、鷹島シヅヲ、もといコンラート・アドラーは、月守小夜子を生涯の番とし、健やかなる時も、病める時も、これを愛し、敬い、守り抜くことを誓うか?」
「はい。誓います」
牧師様の声に、鷹島さんは真っ直ぐな、少しも揺らぎのない声で返す。
私もまた、牧師様の問いかけに「誓います」と答え、ヴィルヘルム様から託された指輪を取り出した。
鷹島さんは、少し驚いたように目を丸くした後、嬉しそうに破顔した。
私たちは向かい合い、互いの左手の薬指に、冷たくて重い誓いの証を滑り込ませた。彼の手の大きさと温もりが、指先からじんわりと伝わってくる。
「……愛している、小夜子」
「私もです。コンラートさん」
彼が愛おしそうに囁き、そっと私の頬に手を添えた。
私は目を閉じ、彼の温かい唇を受け入れる。
祝福の鐘の音のように、ホールいっぱいに万雷の拍手が鳴り響いた。クララさんが歓声を上げ、アドラー男爵も優しい目で私たちを見ている。
私たちはようやく、誰にも引き裂かれることのない『運命』を手に入れたのだ。
温かな拍手と、幸せな笑い声に包まれる広間。
——だが、私は気づいていなかった。
人垣の少し後ろ。
立派な黒留袖を着て、誰よりもこの幸せを喜んでくれているはずの母が。
その顔から一切の感情を消し去り、まるで底なし沼のように昏く、冷たい目で、抱き合う私たち二人をじっと見つめていることなど。
桜の花は青々とした葉に変わり、そよぐ風に少しの暑さが混じる頃。結納を終えた私たちは小さなパーティを開くことになった。
アドラー男爵の滞在日数が限られていることもあり、帰国される前にあの思い出深い麻布の洋館で、結婚式と婚約式を混ぜたような会を開くことにした。
白いドレスに身を包み、開宴の時を待っていた私は、クララさんの言葉に血相を変えていた。
「ええっ!? 独逸では、男女がお互いに婚約指輪を贈り合う文化があるんですか!?」
「お揃いの指輪を左手にはめ合うのが、伝統的な『フェアローブング』のしきたりなんですよー!」
クララさんが微笑みながら教えてくれた事実。私は真っ青になった。
西洋文化に疎い私は、彼に贈る指輪を用意していなかった。クララさんが言うには、鷹島さんはすでに指輪を用意してくれているらしい。
「ど、どうしよう……! 今から買いに行く時間は……っ」
「お嬢様! 今からじゃ間に合わないですって!」
私がドレスの裾を握りしめてパニックになっていると、不意に控室の扉がノックされる。
「慌てずとも良い、小夜子嬢。……これを使え」
「あなたは……」
そこにいたのは、プラチナブロンドの髪の輝く美しい少年——鷹島さんの実弟、ヴィルヘルム様だった。
初めて発動した私のエスαの能力は、幸か不幸か彼をΩにはしなかったようだ。しかし自分より高位のαに従わせられたことが彼の意識を少し変えたらしい。Ωである兄との確執は多少残っているものの、ぎこちないなりに少しずつ歩み寄っているようだった。
彼がスッと差し出した小さなベルベットの箱を開けると、そこには意匠の凝らされた、男性用の美しいプラチナの指輪が収められていた。
「ヴィルヘルム様、これは……」
「コンラート——兄上の指の寸法に合わせてある」
「良いのですか? こんな高価なもの……」
「……先日の、その……詫びだ。受け取って欲しい」
少しだけ照れくさそうに目を逸らす彼に、私は深く頭を下げて箱を受け取った。
兄上、そのたった一言で、二人の関係がどう変化しているのかを感じられる。第二の性の呪いを断ち切り、二人は真の兄弟になれたのだと。
「ありがとうございます。ヴィルヘルム様」
ヴィルヘルム様は返事こそしなかったが、耳を赤く染めて部屋を去っていく。照れている姿まで、鷹島さんにそっくりだった。
◇ ◇ ◇
「マルタ様、オットー様。先日は娘が大変お世話になりました」
「まあ、ちゑ様。お顔をあげてください。私共も娘のクララがお嬢様にご迷惑ばかりおかけして」
「いえ、クララ様にも大変によくしていただいたと、娘から聞きました」
「……家事手伝いまでさせてしまって、こちらこそ申し訳ない」
庭では月守家とアドラー家、そして洋館の住人たちが集まり、和やかに談笑する声が響いていた。母が私の心配ばかりする声がこそばゆい。早く次の話題に移ってくれないかな、とクララさんと一緒にソワソワしていると、牧師様が立ち上がり、あたりがすっと静かになった。
「それでは、月守家とアドラー家の婚姻式を始めましょう」
牧師様はそういうと鷹島さん"たち"に目で合図をする。
「……くっ、薩摩隼人が西洋の結婚式の真似事など」
「そもそも陸軍が普露西式なのに、何を言っているのやら」
祭壇へと歩みを進めた鷹島さんの隣には、不貞腐れた顔で文句を垂れる獅子王少佐の姿があった。
彼は伊津名少将のクーデターに加担した大罪人となるはずだった。だが、鷹島さんの必死の嘆願と、伊津名少将の『魅了』の得意能力の被害を受けたとみなされ、月守家監視の元、という条件付きで許された。
「そもそも、なんで私なんだ!? 他の奴でいいだろうが!」
「こういった場に呼べる友はお前しかいない」
「し、新友だと!? ふざけるな、誰が貴様なんかと……っ」
「そこまでは言っていない」
やいやいと口喧嘩をしながらも、獅子王少佐は逃げ出すことなく、鷹島さんの『トラウツォイゲ(立会人)』として、しっかりと彼を牧師様の元まで送り届けた。
私にはわからないけれど、二人の間には憎悪と確執の他に、確かな友情があるようだ。
「月守小夜子」
牧師様が私を呼ぶ声がする。次は、私の番だった。
私は父・竹千代に腕を引かれ、ゆっくりとを歩き出した。
父は何も語らない。けれど、父が娘の結婚相手の文化を尊重し、簡易的な婚姻式に参加すること自体、普段の彼からは信じられないほどの譲歩だ。父なりに私を気遣ってくれているのだろう。初めて横に並ぶ父に緊張しながらも、私は牧師様の元へと歩いていく。
「番を守り抜け」
たった一言、父は私にだけ聞こえるように囁く。
母を苦しめておいて何を今更、と言いたいが、グッと堪える。父が母を屋敷に囲っているのは母の命を貴子様から守るためということを、母からそっと打ち明けられたからだった。結婚したあとに運命の番を見つけてしまった父、それにより嫉妬に狂った貴子様に命を狙われた母と私を守るため、あえて目の届く位置に私たちを住まわせていたのだという。
(結局、お父様も人間なんですね)
その行為が正しいかどうかはわからない。でもその曖昧さが、父も悩める人間の一人だということを教えてくれた。
「——汝、鷹島シヅヲ、もといコンラート・アドラーは、月守小夜子を生涯の番とし、健やかなる時も、病める時も、これを愛し、敬い、守り抜くことを誓うか?」
「はい。誓います」
牧師様の声に、鷹島さんは真っ直ぐな、少しも揺らぎのない声で返す。
私もまた、牧師様の問いかけに「誓います」と答え、ヴィルヘルム様から託された指輪を取り出した。
鷹島さんは、少し驚いたように目を丸くした後、嬉しそうに破顔した。
私たちは向かい合い、互いの左手の薬指に、冷たくて重い誓いの証を滑り込ませた。彼の手の大きさと温もりが、指先からじんわりと伝わってくる。
「……愛している、小夜子」
「私もです。コンラートさん」
彼が愛おしそうに囁き、そっと私の頬に手を添えた。
私は目を閉じ、彼の温かい唇を受け入れる。
祝福の鐘の音のように、ホールいっぱいに万雷の拍手が鳴り響いた。クララさんが歓声を上げ、アドラー男爵も優しい目で私たちを見ている。
私たちはようやく、誰にも引き裂かれることのない『運命』を手に入れたのだ。
温かな拍手と、幸せな笑い声に包まれる広間。
——だが、私は気づいていなかった。
人垣の少し後ろ。
立派な黒留袖を着て、誰よりもこの幸せを喜んでくれているはずの母が。
その顔から一切の感情を消し去り、まるで底なし沼のように昏く、冷たい目で、抱き合う私たち二人をじっと見つめていることなど。



