虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

「君はまさに、この国の秩序を根底から書き換える『廻天』を行える者——」

 伊津名少将の狂気に満ちた笑い声が、シャンデリアの光の下で響き渡る。
 私は、自分に宿る恐ろしい力の正体に震えた。私を囲む廻天隊の兵士たちも、鷹島さんの気迫に怯えながらも、伊津名少将の命令を待っている。
 絶体絶命の膠着状態。それを破ったのは、低く、重厚な声だった。

「——随分と大層な神輿を担ぎ上げようとしたものだな、伊津名少将」

 人垣が割れ、そこから進み出てきたのは、私の父——月守竹千代公爵だった。
 父は、実の娘が銃口を向けられているというのに顔色一つ変えず、泰然自若として歩みを進めてくる。
 その背後から、会場のあらゆる扉を蹴破って、緋色の襟章をつけた濃紺の軍服の兵士たちが雪崩れ込んできた。

「近衛連隊……!? なぜ、ここに!」

 伊津名少将の私兵の一人が狼狽えた声を上げる。帝都の治安と皇族を守護する最強の軍隊が、伊津名少将の部隊を完全に包囲し、逆に銃口を突きつけていた。
 父は自らの体を支える杖を大理石の床に突き、伊津名少将を見据えた。

「軍部の一部が不穏な動きをしていることなど、とうに掴んでおったわ。だが、尻尾を出さぬ狐を狩るには、自ら罠のど真ん中へおびき寄せるのが一番手っ取り早くてな。……大公会堂に国の中枢をあえて集め、貴様が全戦力を投入するこの時を待っていたのだ」
「……なるほど」

 伊津名少将の顔から、初めてあの余裕の笑みが消えた。
 すべては父の掌の上だったのだ。私が家を抜け出したことも、鷹島さんが生存していることも。すべてを知り尽くした上で、父は自らと国の中枢を囮にし、伊津名少将の反乱軍を一網打尽にする罠を張っていたのだ。
 
「まさに、百戦錬磨の老狸。というわけですか」
「降伏せよ、伊津名。貴様の負けだ」

 父の宣告に、近衛連隊が一斉に銃を構える。
 だが、絶望的な状況に追い込まれたはずの伊津名少将は、ふいに肩を震わせ、くつくつと喉の奥で笑い始めた。

「……お見事です。さすがは月守公爵、私の負けですね。だが——」

 伊津名少将が、ゆっくりと軍服の詰襟を外した。
 その瞬間だった。
 むせ返るような、脳髄を直接溶かすほどの、致死量の『甘い香り』が爆発的に広間を満たしたのだ。

「な、なんだこれは……っ!?」
「銃が……持てない……あぁ……っ」

 広間を包囲していた近衛連隊の兵士たちが、次々と顔を赤く染め、熱に浮かされたようにその場に崩れ落ちていく。それどころか、逃げ惑っていた貴族たちも、父でさえも、その甘すぎる香りに当てられて身動きが取れなくなっていた。

「……まさかっ」

 鷹島さんが、息を呑んで伊津名少将を見上げた。

「エスαが『支配』の力なら。私の力は『魅了』。……そう、私はエスαと対をなす存在。上位種のΩ——『エスΩ』だ」

 伊津名少将が、妖艶な微笑みを浮かべる。
 その瞳を見た瞬間、すべての者の理性が吹き飛び、彼に逆らう意志を根こそぎ奪われてしまう。彼がなぜ、あれほど屈強なαたちを従え、狂信的な特務部隊を作り上げることができたのか。そのすべての答えがここにあった。

「今日は退散するとしよう。小夜子嬢、シヅヲ。君たちとは、いずれまた会うことになる。……ごきげんよう」

 伊津名少将は、誰も身動きがとれない広間の中を、まるで夜会を後にする貴公子のようなどこまでも優雅な足取りで歩き、そのまま夜の闇の中へと姿を消していった。

「閣下……」
 
 捨て置かれた獅子王少佐の哀し気な声だけが、哀れなほど大きく反響した。

「どういうことだ……」
「軍部のクーデターだ。俺たちは、これからどうすれば——」
  
 彼が去り、甘い香りが薄れていくと、ようやく呪縛から解き放たれた人々が、事態を飲み込めずに騒然となり始めた。
 暗殺、クーデター、そして得体の知れない力。パニックが起きるのは火を見るより明らかだった。
 だが、その混乱を制したのは、再び父だった。

「——皆の者、静まれ」

 父の腹の底から響く、高位αの重厚な声。それにハッとして、会場の全員が父に注目した。
 父は悠然と演壇に登り、何事もなかったかのように微笑んでみせた。

「お見苦しいところをお見せした。先ほどの騒ぎは、我が国を脅かさんとする逆賊を炙り出すための、軍と私の『余興』である。逆賊は自ら尻尾を出し、今まさに我が近衛連隊が追討に向かっておる。帝国の安全は、完全に守られた!」
「よ、余興……?」
「そうだ。そして、この極秘任務において、逆賊の懐に潜り込み、見事計画を阻止してみせた英雄を紹介しよう」

 父は、広間の中央に立つ一人の男を指し示した。

「我が愛娘、小夜子の婚約者であり……帝国の英雄。鷹島シヅヲ大尉である」

 一瞬の静寂。
 だが、父の堂々たる弁論と、目の前に立つ満身創痍の英雄の姿に、人々はすぐに熱狂へと飲み込まれた。
 誰かが拍手を始め、それはやがて割れんばかりの大歓声へと変わっていく。
 楽団が、空気を読んで再び華やかなワルツを奏で始めた。さっきまでの地獄絵図が嘘のように、広間は再び、熱を帯びた祝賀会の顔を取り戻したのだ。

「……お父様」
「フン。あのような狐に後れを取るような真似、この月守竹千代がするはずがなかろう」

 父の台詞は何も信用できない。これを愛情だとは思わない。けれど父は私を助けてくれた。今はその事実だけで十分だった。
 そして、歓声に包まれる私たちのもとへ、一人の老紳士が歩み寄ってきた。
 金髪に、厳格な若草色の瞳。アドラー男爵だった。
 鷹島さんの背筋が、ぴんと張り詰めるのがわかった。17年前、彼をΩの汚点として捨てた、実の父親。
 アドラー男爵は、血と泥に塗れながらも、誰の力にも頼らず己の足で立ち、愛する女を守り抜いた息子の姿を、静かに見つめた。

「……アドラー男爵、お見苦しいところを」

 鷹島さんが何かを言いかけた、その時だった。
 アドラー男爵は、鷹島さんの大きな肩に、そっと手を置いた。

「——コンラート」

それは、遠い昔に捨てたはずの、彼の実の名前。

「お前は、私の誇りだ」

 短く、不器用な、けれど何よりも重いその一言。
 鷹島さんの若草色の瞳が、大きく見開かれた。
 ずっと求めていた言葉。どんなに血を流しても、どれほど軍神と称えられても、決して埋まることのなかった心の穴が、そのたった一言で、音を立てて満たされていくのがわかった。

「……ありがとうございます、父上」

 鷹島さんの目から、ひとしずくの涙が零れ落ちる。
 私は、彼の血だらけの手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
 温かな熱と光を注ぎ込むように、祈るように手を握る。番を守るエスαの力が流れ込み、ゆっくりと傷を癒していく。 

「迎えに来た、私の番」
「はい。旦那様……」
 
 華やかな音楽と祝福の歓声の中。
 私と鷹島さんは、互いの温もりを確かめ合うように、静かに、そして深く微笑み合ったのだった。