オーケストラの演奏が鳴り止んだ大広間は、水を打ったように静まり返っていた。
豪奢な演壇の中央に立つ伊津名少将は、ゆっくりと会場を見渡し、よく通る美しく響く声で語り始めた。
「皆様。本日は我が国の偉大なる勝利のために、ようこそお集まりいただいた」
会場のすべての視線が、彼一人に釘付けになる。ざわざわとした会場が、伊津名少将の言葉を聞くだけでだんだんと蕩けたように彼を受け入れていく。まるで魔法の様だった。
伊津名少将は穏やかな微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと私と獅子王少佐の方へ手を差し向けた。
「今宵の祝宴において、皆様に二つの重大な発表がございます。一つ目は……我が軍の至宝であった鷹島大尉が、痛ましくも不慮の事故により、その命を落としたこと」
大きなどよめきが、波のように広間を駆け抜けた。鷹島さんの死は、表向きには不慮の事故で片付けたようだった。
人垣の向こうで、父である月守公爵の細められた目が僅かに見開かれ、アドラー男爵のグラスを持つ手がピクリと止まるのが見えた。他の貴族たちも、軍神の突然の訃報に動揺を隠せない。
「ですが、ご安心を。彼が結ぶはずだった月守公爵家との尊いご縁は、私の最も優秀な部下である獅子王少佐が引き継ぐこととなりました。……さあ、皆様、若き二人の新たなる門出に祝福を」
軍の最高幹部であり、子飼いに「軍神」「少佐」を輩出した、今まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの伊津名少将の言葉だ。
公の場で異を唱える者などいるはずもなく、やがてパラパラとまばらな拍手が起こり始めた。それは次第に会場全体を包み込むような、空虚で盛大な祝福の拍手へと変わっていった。
(こんなの、おかしいのに……)
婚約者が死んだと知らされた直後の令嬢に向けられる、無責任で暴力的な拍手の波。誰も彼もが、伊津名少将という絶対的な権力に媚びへつらっている、感情なき操り人形のようだ。
隣に立つ獅子王少佐が、あの北海道のサロンで見せた時と同じ、傲慢で冷酷な笑みを浮かべて私を見下ろしている。
「さあ、小夜子嬢。君の素晴らしい力を、彼らにお見せしなさい」
伊津名少将が、拍手を制するように優雅に片手を上げた。
それが、クーデター決行の合図だった。
広間の扉の前に立つ廻天隊の兵士たちが、静かに銃を構えるのが見えた。
私が『エスα』としての覇気を限界まで放ち、この会場にいる父や貴族たちを這いつくばらせれば、彼らは容赦なく引き金を引き、この美しい大理石の床は血の海に変わるのだ。
(でも、やらなければ……お母様やみんなが……)
私はゆっくりと目を閉じ、自分の中にある黒い感情の底へと意識を沈めようとした。
大切な人たちを守るためだ。お母様を、クララさんやマルタさん、オットーさんたちを救うためなら、私は悪に染る。
化け物と呼ばれ、一生この男たちの用意した檻の中で、獅子王少佐の道具として生きることになっても構わない。
深く息を吸い込み、絶望と共に禍々しい力を解放しようとした、その瞬間——
『あなたの本心はどこにある。きちんと伝えるんだ』
脳裏に、鷹島さんの静かな、けれど逃げ道を許さない声がフラッシュバックした。
あの日、己の罪と恐怖から逃げようとした私を引き留め、真っ直ぐに私の心と向き合ってくれた人。
伊津名少将の掌の上で利用されながらも、過酷な戦場で右目を失い、血を流し……彼方此方で理不尽に踏みにじられながらも、気高く生き抜いてきた。
「私、わたし、は……」
ふと、遠くから私を見つめる、父の姿が目に入った。
私は彼を愛しているのか、もうわからない。けれど、私の愛する『母』を愛する彼を見捨てることは……したくない。
(……きっと鷹島さんなら、そう言うはず)
好きと嫌い、その2色で簡単に分かれる世界なら、選ぶのは簡単なのに。
この世界はもっと複雑で、いろんな表情を持っている。鷹島さんは、それを私に教えてくれた。
「……できません」
小さく呟いた私の言葉に、獅子王少佐が怪訝そうに眉をひそめた。
私はゆっくりと目を開け、伊津名少将を、そして獅子王少佐を真っ直ぐに睨みつけた。
「私は、やりません。鷹島さんの心を、私の手で壊すことなんて、絶対にできない……!」
「この期に及んで何を言っている、出来損ないの子狸が」
獅子王少佐の顔から余裕の笑みが消え、ギリッと骨が鳴るほど強く私の腕を掴み上げた。かつて北海道で私に無理やり印を刻もうとした時と同じ、暴力的なαの威圧感が私を襲う。
「やれ。さもなくば、明日の朝にはお前の母親は憲兵に引きずり出されて、首を吊ることになるぞ。あの洋館の独逸人どもも全員、反逆罪で銃殺だ!」
「っ……!」
「お前は俺たちの所有物だ。いいからさっさとその化け物の力を——」
獅子王少佐が力任せに私を怒鳴りつけようとした、その時だった。
大広間の重厚な両開きの扉が、発破用の爆薬で吹き飛ばされたかのように、轟音と共に内側へと崩れ落ちた。
悲鳴を上げて逃げ惑う令嬢や貴族たち。もうもうと立ち込める粉塵の向こうから、一つの影が歩み出てきた。
濃紺の軍服は濁流の泥と血で汚れ、ところどころが破れている。額の古傷からは、真新しい生々しい血が滴り落ちていた。
「敵襲!?」
広間の入り口を固めていた廻天隊の兵士たちが一斉に銃口を向ける。だが、引き金が引かれるより早く、彼が動いた。
鼓膜を劈く銃声。彼が左手の拳銃から放った弾丸は、兵士たちの命を奪うことなく、手首や銃床のみを的確に撃ち抜き、武装を弾き飛ばしていく。
「なっ……!?」
怯む兵士たちの懐へ、彼は疾風のように踏み込んだ。
鋭い刃をくるりと返し、軍刀の峰で次々と男たちの鳩尾や首筋を打ち据える。一切の躊躇もない、完璧に統制された制圧術。
あっという間に、立ちはだかっていた十数人の兵士たちが、大理石の床に昏倒させられた。
「あな……たは……」
「鷹島、貴様……生きていたのか! 裏切り者の分際で!」
獅子王少佐が忌々しげに叫んだ。
裏切り者。その言葉を聞いて、私は気づいた。彼は私を守るために軍を、そして親代わりであったはずの伊津名少将を裏切り、彼らの手によって命を狙われたのだ。
「……たか、しま、さん……?」
私は、信じられない思いでその名を呼んだ。
金色の髪。若草色の瞳。
冷たい川の底に沈み、死んだと聞かされていた軍神が。地獄の底から這い上がってきた鬼神のような形相で、そこには立っていた。
「月守小夜子から……俺の番から、汚い手を離せ」
地を這うような低い声が、広間に響き渡る。
銃の硝煙と血の匂いを纏った鷹島さんは、一直線に獅子王少佐を、そして私を見据え、ただひたすらに歩みを進めてくる。
すべてを敵に回してでも私の元へ還ってきた、ただ一人の私の番だった。
豪奢な演壇の中央に立つ伊津名少将は、ゆっくりと会場を見渡し、よく通る美しく響く声で語り始めた。
「皆様。本日は我が国の偉大なる勝利のために、ようこそお集まりいただいた」
会場のすべての視線が、彼一人に釘付けになる。ざわざわとした会場が、伊津名少将の言葉を聞くだけでだんだんと蕩けたように彼を受け入れていく。まるで魔法の様だった。
伊津名少将は穏やかな微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと私と獅子王少佐の方へ手を差し向けた。
「今宵の祝宴において、皆様に二つの重大な発表がございます。一つ目は……我が軍の至宝であった鷹島大尉が、痛ましくも不慮の事故により、その命を落としたこと」
大きなどよめきが、波のように広間を駆け抜けた。鷹島さんの死は、表向きには不慮の事故で片付けたようだった。
人垣の向こうで、父である月守公爵の細められた目が僅かに見開かれ、アドラー男爵のグラスを持つ手がピクリと止まるのが見えた。他の貴族たちも、軍神の突然の訃報に動揺を隠せない。
「ですが、ご安心を。彼が結ぶはずだった月守公爵家との尊いご縁は、私の最も優秀な部下である獅子王少佐が引き継ぐこととなりました。……さあ、皆様、若き二人の新たなる門出に祝福を」
軍の最高幹部であり、子飼いに「軍神」「少佐」を輩出した、今まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの伊津名少将の言葉だ。
公の場で異を唱える者などいるはずもなく、やがてパラパラとまばらな拍手が起こり始めた。それは次第に会場全体を包み込むような、空虚で盛大な祝福の拍手へと変わっていった。
(こんなの、おかしいのに……)
婚約者が死んだと知らされた直後の令嬢に向けられる、無責任で暴力的な拍手の波。誰も彼もが、伊津名少将という絶対的な権力に媚びへつらっている、感情なき操り人形のようだ。
隣に立つ獅子王少佐が、あの北海道のサロンで見せた時と同じ、傲慢で冷酷な笑みを浮かべて私を見下ろしている。
「さあ、小夜子嬢。君の素晴らしい力を、彼らにお見せしなさい」
伊津名少将が、拍手を制するように優雅に片手を上げた。
それが、クーデター決行の合図だった。
広間の扉の前に立つ廻天隊の兵士たちが、静かに銃を構えるのが見えた。
私が『エスα』としての覇気を限界まで放ち、この会場にいる父や貴族たちを這いつくばらせれば、彼らは容赦なく引き金を引き、この美しい大理石の床は血の海に変わるのだ。
(でも、やらなければ……お母様やみんなが……)
私はゆっくりと目を閉じ、自分の中にある黒い感情の底へと意識を沈めようとした。
大切な人たちを守るためだ。お母様を、クララさんやマルタさん、オットーさんたちを救うためなら、私は悪に染る。
化け物と呼ばれ、一生この男たちの用意した檻の中で、獅子王少佐の道具として生きることになっても構わない。
深く息を吸い込み、絶望と共に禍々しい力を解放しようとした、その瞬間——
『あなたの本心はどこにある。きちんと伝えるんだ』
脳裏に、鷹島さんの静かな、けれど逃げ道を許さない声がフラッシュバックした。
あの日、己の罪と恐怖から逃げようとした私を引き留め、真っ直ぐに私の心と向き合ってくれた人。
伊津名少将の掌の上で利用されながらも、過酷な戦場で右目を失い、血を流し……彼方此方で理不尽に踏みにじられながらも、気高く生き抜いてきた。
「私、わたし、は……」
ふと、遠くから私を見つめる、父の姿が目に入った。
私は彼を愛しているのか、もうわからない。けれど、私の愛する『母』を愛する彼を見捨てることは……したくない。
(……きっと鷹島さんなら、そう言うはず)
好きと嫌い、その2色で簡単に分かれる世界なら、選ぶのは簡単なのに。
この世界はもっと複雑で、いろんな表情を持っている。鷹島さんは、それを私に教えてくれた。
「……できません」
小さく呟いた私の言葉に、獅子王少佐が怪訝そうに眉をひそめた。
私はゆっくりと目を開け、伊津名少将を、そして獅子王少佐を真っ直ぐに睨みつけた。
「私は、やりません。鷹島さんの心を、私の手で壊すことなんて、絶対にできない……!」
「この期に及んで何を言っている、出来損ないの子狸が」
獅子王少佐の顔から余裕の笑みが消え、ギリッと骨が鳴るほど強く私の腕を掴み上げた。かつて北海道で私に無理やり印を刻もうとした時と同じ、暴力的なαの威圧感が私を襲う。
「やれ。さもなくば、明日の朝にはお前の母親は憲兵に引きずり出されて、首を吊ることになるぞ。あの洋館の独逸人どもも全員、反逆罪で銃殺だ!」
「っ……!」
「お前は俺たちの所有物だ。いいからさっさとその化け物の力を——」
獅子王少佐が力任せに私を怒鳴りつけようとした、その時だった。
大広間の重厚な両開きの扉が、発破用の爆薬で吹き飛ばされたかのように、轟音と共に内側へと崩れ落ちた。
悲鳴を上げて逃げ惑う令嬢や貴族たち。もうもうと立ち込める粉塵の向こうから、一つの影が歩み出てきた。
濃紺の軍服は濁流の泥と血で汚れ、ところどころが破れている。額の古傷からは、真新しい生々しい血が滴り落ちていた。
「敵襲!?」
広間の入り口を固めていた廻天隊の兵士たちが一斉に銃口を向ける。だが、引き金が引かれるより早く、彼が動いた。
鼓膜を劈く銃声。彼が左手の拳銃から放った弾丸は、兵士たちの命を奪うことなく、手首や銃床のみを的確に撃ち抜き、武装を弾き飛ばしていく。
「なっ……!?」
怯む兵士たちの懐へ、彼は疾風のように踏み込んだ。
鋭い刃をくるりと返し、軍刀の峰で次々と男たちの鳩尾や首筋を打ち据える。一切の躊躇もない、完璧に統制された制圧術。
あっという間に、立ちはだかっていた十数人の兵士たちが、大理石の床に昏倒させられた。
「あな……たは……」
「鷹島、貴様……生きていたのか! 裏切り者の分際で!」
獅子王少佐が忌々しげに叫んだ。
裏切り者。その言葉を聞いて、私は気づいた。彼は私を守るために軍を、そして親代わりであったはずの伊津名少将を裏切り、彼らの手によって命を狙われたのだ。
「……たか、しま、さん……?」
私は、信じられない思いでその名を呼んだ。
金色の髪。若草色の瞳。
冷たい川の底に沈み、死んだと聞かされていた軍神が。地獄の底から這い上がってきた鬼神のような形相で、そこには立っていた。
「月守小夜子から……俺の番から、汚い手を離せ」
地を這うような低い声が、広間に響き渡る。
銃の硝煙と血の匂いを纏った鷹島さんは、一直線に獅子王少佐を、そして私を見据え、ただひたすらに歩みを進めてくる。
すべてを敵に回してでも私の元へ還ってきた、ただ一人の私の番だった。



