虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 そして、運命の夜が来た。
 帝都の中心に位置する大公会堂は、まるで現世から切り離された別世界のような、まばゆい光と熱気に包まれていた。
 天井高くそびえるアーチから吊るされた巨大なシャンデリアが、幾千もの眩い光の粒を大理石の床に落としている。
 広間の中央では、音楽隊が奏でる優雅なワルツの調べに合わせて、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが舞い踊る。
 軍の上層部、胸に無数の勲章を下げた将官たち、有力な政治家、そして華族たち。誰もがこの度の勝利の美酒に酔いしれ、あちこちでグラスを鳴らしている。
 上質な葉巻の煙と、外国製の甘い香水の匂い。

「月守小夜子公爵令嬢と、獅子王司少佐のご登場です」
 
 そんな熱気の渦中へ、私は獅子王少佐に腕を引かれて足を踏み入れた。
 濃紺の軍服を模したドレス姿は、この華やかな場においてひどく異質だった。流行りの華やかな色のドレスが溢れる中では、私の衣装はまるで軍属のように見える。

(……似たようなものか。私、軍の飼い犬だものね)

「月守小夜子、そんな令嬢いたか?」
「ほら、最近αに目覚めたっていう、愛人の……」
「なぜあのような軍服姿で……それに、隣にいるのは婚約者の『金色の鷹』ではないぞ」

 ひそひそと囁き交わされる声が、さざ波のように広がっていく。
 人々が怪訝そうに道を譲るその先、人垣の向こうに、父である月守公爵の姿を見つけた。数人の政治家と談笑していた父は、私の異様な出で立ちと、隣に立つ獅子王少佐を見て、少しだけ目を見開いた。
 だが驚きを顔に表すようなへまはしない。堂々たる姿のまま何もかもわかっていると言わんばかりの顔で、冷めた目で私を見ていた。

(何もかも『知っている』という目をしている……底が知れない人……)

 伊津名少将が狐なら、父は百戦錬磨の老狸だ。
 情報戦は互いに得意とするところ。私が昨晩家を抜け出して失踪したことを騒いでいる様子がないことからして、ある程度はお見通しなのだろう。それを知っていながら、放置して様子を見ている。
 私は今、誰の掌中で踊っているのか、自分でももうわからなかった。
 ギリッと唇を噛み締め、俯こうとした私の視界の端に、ふと、異国の軍服が映った。父の少し後方、各国の要人たちが集う一角で、グラスを傾けている長身の男。金色の髪に若草色の瞳、彼は——

「鷹島さ——」
「アドラー男爵、ごきげんよう」
 
 思わず声を上げそうになったが、別の紳士の挨拶によって我に返る。そうだ、彼は鷹島さんじゃない。
 ヴィルヘルム様の父親であり——鷹島さんの、実の父親でもある、ハインリヒ・フォン・アドラー男爵だった。
 初めてまじまじと見るその顔立ちに、私は思わず息を呑んだ。
 驚くほど、似ていたのだ。
 すっと通った高い鼻梁、静かに伏せられた切れ長の瞳の形、少しだけ不機嫌そうに、けれど品良く結ばれた唇の端。
 グラスを傾けるふとした仕草や、その骨格、ふと漂わせる静寂な空気感は、紛れもなく彼が鷹島さんの血を分けた親であるという残酷な事実を突きつけていた。

(……鷹島さん)

 もしあなたがここに居たら、お父様になんて声をかけたのですか——?
 会いたい。もう一度だけ、あの優しい大きな手に頭を撫でてほしい。どうしようもない切なさが込み上げ、呼吸が浅くなる。
 オーケストラの華やかな音楽が、容赦なく鼓膜を打つ。
 もしも平和な世界であったなら。もしも鷹島さんが生きていて、彼が買ってくれたあの白いワンピースを着て、彼にエスコートされてここに来られたなら。
 ここはきっと、幼い頃に絵本で読んだ『御伽噺の魔法の舞踏会』のように、夢のように素敵な場所だったはずだ。彼と一緒に、あの輪の中でワルツを踊れたのかもしれない。

(……本当なら、こんなに美しい場所なのに)

 私は、自分の震える両手を見下ろした。
 伊津名少将の計画通りなら、私はもうすぐこの大広間の中心で、エスαとしての覇気を限界まで解放させられる。
 その瞬間、父も、あのアドラー氏も、今優雅に笑い合っている令嬢たちも、全員が目に見えない重圧に押し潰されて床に這いつくばる。そして——給仕や警備兵のふりをして会場を囲んでいる廻天隊の銃弾を浴びて、この美しい大理石の床は、一面の血の海に変わるのだ。

(私が、ここを血に染めるの……? 私のせいで、この人たちが皆……)

 頭が真っ白になる。
 すべてを諦めたはずだった。母たちを救うためなら、自分が化け物になって国を滅ぼす手伝いをしてもいいとさえ、あの冷たい地下室では思っていたのだ。
 けれど、いざこの華やかで平和な光景を目の当たりにし、生きている人々の体温と笑顔に触れると、激しい戸惑いと凄まじい罪悪感で足がすくむ。

「……震えているのか、子狸」

 耳元で、獅子王少佐が嘲るように低く囁いた。
 私の腰に回された手に、ギリッと強い力がこもる。

「安心しろ。お前が直接引き金を引くわけじゃない。お前はただ、その化け物みたいな力を撒き散らすだけでいい。私たちが全部、綺麗に片付けてやる」

 悪魔の囁きだった。彼らは本気だ。本気で、この国をひっくり返すつもりなのだ。

「……さあ、閣下のお出ましだ」

 獅子王少佐の言葉と同時に、オーケストラの演奏がスッと鳴り止んだ。
 広間の正面に設けられた豪奢な演壇に向かって、伊津名少将が悠然とした足取りで登っていく。スポットライトを浴びるその後ろ姿は、まるでこの狂った舞台を完全に支配する、絶対的な演出家のようだった。