虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 陸軍衛戍病院の「特別隔離病棟」。
 窓のない石作りの小部屋が、私に与えられた新しい「鳥籠」だった。
 かつて鷹島さんが傷を癒やし、発情の熱に浮かされた彼に印を刻んだこの病院。まさか、あの思い出の場所の地下深くに、これほど冷たく息の詰まる檻が隠されていたとは思いもしなかった。
 広い部屋の中、世話を焼くのは無言で屈強な下士官たちだけで、この空間にはむせ返るような男性たちの威圧感と、ツンと鼻を突く消毒液の匂いだけが充満している。
 屈強な男性たちに囲まれているのに、身に危険を感じないのは私が男女の性を超えたエスαだからだろう。
 無機質な椅子に座らされた私の体は、濃紺を基調とした詰襟の上衣に、ふわりと広がった黒のスカートを纏っている。
 硬い羅紗の生地が肌を擦り、首元までびっしりと留められた金ボタンが、息が詰まるほど重い。

(こんなものを用意して……鷹島さんの件があってもなくても、私を引き入れようと企んでいたのかも……)
 
 いつから伊津名少将の術中にいたのだろう。鷹島さんの過去の話を聞いたときか、婚姻の話の時か、それよりももっと前から目を付けられていたのだろうか。
 底のしれない伊津名少将が不気味だ。だが怒りも恐怖も、もう私の心を乱したりはしなかった。
 彼が死んだと聞かされたあの夜から、私の心は完全に抜け殻になってしまっていた。涙すらもう枯れ果て、ただ言われるがまま、命なき人形のように座っている。
 あの日、彼の項に刻んだ『番の印』から、彼が生きているような気配や脈動は、微塵も感じられない。胸の奥は、ぽっかりと空洞になったままだ。

「入るよ、小夜子嬢」
 
 ガチャリと重厚な鉄扉が開き、礼装の軍服に身を包んだ伊津名少将が、一人の男を従えて入ってきた。
 赤褐色の髪に、傲慢な光を宿した瞳——獅子王少佐だった。

「よく似合っているよ、小夜子嬢。今日から君は、我々の所有物だからね」

 伊津名少将は満足げに私の姿を見下ろすと、私の肩にそっと手を置いた。

「明日の戦勝祝賀会で、君には大事な役割をしてもらう。ひとつは、新しい婚約者のお披露目だ」
「……新しい、婚約者……?」

 空っぽの頭に、その言葉が落ちる。
 伊津名少将は傍らに立つ獅子王少佐を指し示した。

「鷹島は死んだ。だが、高貴なる月守家との縁談をそんなことで途絶えさせるわけにはいかないからね。彼を君の新しい夫としてあてがうことにしたよ」
「なっ……」

 獅子王少佐は、薄く笑いながら私を見下ろしていた。
 かつてお見合いの席で私を値踏みし、鷹島さんを「薄汚いΩ」と蔑んだ男。彼自身もαでありながら、エスαである私を軍の力でねじ伏せ、道具にしようというのだ。

「光栄に思え、子狸。あの死んだΩの代用品にしては、俺は上等すぎるくらいだろう?」
「司、彼女はこれから君の妻となる身だ。もう少し優しくしてあげなさい」
「……失礼いたしました、閣下」

 嫌だ。触れないで。私の番は、鷹島さんだけなのに。
 けれど声は出せなかった。私がここで逆らえば、母や洋館の皆が殺される。

「そしてもうひとつ。明日、君には大役を果たしてもらうよ」

 俯く私に向かって、伊津名少将は静かに、けれど狂気を孕んだ熱を帯びた声で語り始めた。

「明日の戦勝祝賀会には、君の父上である月守公爵をはじめ、軍の元帥たち、そして腐敗した華族が一堂に会する。彼らは安全な帝都で踏ん反り返り、戦場で血を流した者たちを蔑んできた。……私はね、この国を根本から作り直すつもりだ。血統などという無価値なものではなく、純粋な能力と『第二の性』のみが支配する、絶対的な軍事国家へと」

 伊津名少将の硝子玉のような瞳が、窓のない隔離室の中で異様に輝いていた。

「小夜子嬢。祝賀会の最中、君にはその『エスαの覇気』を最大まで解放してもらう。君の力なら、どれほど格上のαであろうと、一瞬で本能を屈服させ、その場に這いつくばらせることができるはずだ」
「覇気を……?」
「そうだ。祝賀会の会場にいる国のトップたちが、君の覇気で身動き一つできなくなったところへ、私の『廻天隊』を突入させる。そして——国家への反逆者として、あの場で一斉に粛清する」

 息が止まった。
 それは、ただの暗殺ではない。国の頂点を一夜にしてすげ替える、前代未聞のクーデターの予告だった。

「その後は戒厳令を敷き、私がこの国の実権を握る。そして君には、新国家の神聖なる母として、司と共に無敵のαの兵士たちを産み続けてもらう。……素晴らしい計画だろう?」

 狂っている。
 私という人間の心も、母への愛情も、すべてを自分たちの狂気じみた野望の道具としてしか見ていない。
 私がこの力を解放すれば、父が殺される。国がひっくり返る。そして私は一生、兵士を産み落とすだけの機械になる。
 けれど、それを止める手立てなど、私には何一つ残されていなかった。
 私を泥の中から救い出し、愛してくれたたった一人の人は、もうこの世界のどこにもいないのだ。鷹島さんが死んでしまった世界で、この国がどうなろうと、私がどうなろうと、もうどうでもよかった。

「……わかるね、小夜子嬢」

 伊津名少将の甘く冷酷な問いかけ。
 私は、もはや一筋の涙を流す気力すらなく。ただ暗い石の床を見つめたまま、俯くことしかできなかった。