虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

「伊津名、少将——?」
 
 深夜の公爵邸である。門番もいれば、夜回りの使用人もいるはずだ。それに、ここは本邸の奥座敷であり、外部の人間が勝手に入り込めるような場所ではない。
 だというのに、彼は誰にも咎められることなく、私の部屋の前に現れたのだ。その異常な事態に、背筋を冷たい汗が伝う。

「夜分にすまないね。どうしても、私の口から直接君に伝えなければならないことがあって来たんだ」

 その声は、いつもの底知れない余裕を含んだものではなく、ひどく優しく、そして痛ましげに沈んでいた。
 将校様がこんな夜更けに一人で公爵令嬢の部屋を訪れる。それがどれほど尋常ではないことか、世間知らずな私にもすぐに理解できた。

「鷹島さんに……何かあったのですか?」

 すがるような声で尋ねると、伊津名少将はゆっくりと目を伏せ、重苦しい息を吐いた。

「彼は軍を裏切った」
「えっ……?」
「今日の夕刻。司令部に呼び出した際、彼は突然逃亡したんだ。追手として差し向けた獅子王たちの部隊と激しい戦闘になり……彼は胸を撃たれ、帝都の濁流へとその身を投げた」

 何を言われているのか、わからなかった。
 言葉の羅列が、頭の表面を滑り落ちていく。意味を成さない音の連続のように聞こえた。

「そ、そんな……それじゃあ……」
「遺体はまだ上がっていない。だが、あの出血量と今の川の冷たさでは……助かる見込みはないだろう。軍は彼を『反逆の末の死亡』として秘密裏に処理することになったよ」
「嘘です……そんな……」

 ありえない。
 今日のお茶会で、私のためにあんなにボロボロになって耐えていた人が。
 死ぬはずがない。私をあんなにも深く愛し、「あなたに会いたかった」と泥の中から救い出してくれた人が、私を置いていなくなるはずがないのだ。

「鷹島さんが、反逆なんてするはずがありません! あんなに、国のために、あなたのために働いていた人が!」
「残念だよ。私も彼を、実の息子のように愛していたのにね」

 悲痛な顔で首を振る伊津名少将の手には、私が鷹島さんにお貸ししていた白い手巾が握られている。大切に、常に傍に持ってくれていたそれは、真っ赤な血に染まっていた。
 膝から力が抜け、私は畳の上に崩れ落ちた。
 喉の奥がひゅっと鳴り、呼吸の仕方を忘れたように空気が吸えなくなる。
 視界が涙で完全に歪み、私はただ首を横に振り続けた。彼にもらった白いワンピースを着て、あの洋館で彼と笑い合う未来を夢見ていたのに。世界から唐突に、一番大切な光が、強引にむしり取られてしまった。

「ああ……っ、あぁああっ……!」

 嗚咽が漏れる。
 エスαとして覚醒し、彼を守るために燃え上がっていたはずの覇気も、「強くなる」という決意も、すべてが漆黒の絶望に塗り潰されていく。
 床に伏して咽ぶ私の前に、伊津名少将が静かにしゃがみ込んだ。

「可哀想に……」

 冷たい手が、震える私の肩を優しく抱き寄せる。
 軍服越しに伝わるその体は冷たく、彼から漂う葉巻の匂いが、私をひどく息苦しくさせた。鷹島さんとは違う、重く、人の心を乱す匂い。

「だが、悲しんでいる時間はないんだ、小夜子さん。彼が反逆者となった以上、彼と懇意にしていた者にも『連座』の疑いがかけられる」
「……連座……?」
「そう。逃亡前の鷹島を匿い、世話をしていたあの洋館の独逸人たち。オットーや、マルタ、クララといったね。……そして、この屋敷にいる君の母君、ちゑ殿もだ」

 その名前が出た瞬間、私はビクリと体を震わせた。
 涙でぼやけた視界の中で、伊津名少将の硝子玉のような瞳が、冷酷な光を放っているのを見た。

「軍法会議にかけられれば、彼らは皆、反逆の幇助として極刑は免れない。いや……公爵家が体面を保つために、君の母君を『軍をたぶらかした愛人』として真っ先に蜥蜴の尻尾切りする可能性は高い。明日にでも憲兵が彼らを連行しに行くことになるだろう」
「そんな、父は、母を棄てるようなことはしません!」
「だが、奥様は? 鷹島のように追い詰めないと、どうして言い切れる?」
「それは……」

 貴子様が唆したヴィルヘルム様の影がちらついて、すぐに返事ができなかった。そうだ、たとえ父が母を守ろうとしても、どんな横槍でそれが破綻するかはわからない。
 そして私は、鷹島さんを守ることができなかった——

「わ、私は……」 
「落ち着いて。だから、私が君たちを守ってあげようと言っているんだよ」

 伊津名少将は、私の涙を長い指でそっと拭い、聖者のような微笑みを浮かべた。

「君が私の『庇護下』に入ると約束してくれるなら……彼らの安全は、私が全責任を持って保証しよう。君の大切な人たちは、誰一人傷つけさせない」

 頭の芯が、凍りつくように冷えていく。
 これは提案ではない。脅迫だ。
 反逆の汚名を着せられ、大切な人たちごと破滅するか。それとも、彼が用意した檻へと入り、すべてを捧げるか。
 
「君は私が必ず守るよ、安心して——」

 頭がぐらぐらする。この人の声を聴いていると、まともな思考ができない。

(私、私は……)

 私を守ってくれていた鷹島さんはもういない。
 私に温かい環境をくれた洋館の皆を。そして、「私が幸せになることだけを願っている」と微笑んでくれた母を、私のせいで殺させるわけにはいかなかった。
 鷹島さんを失った世界に、もう私の希望などどこにも残っていないのだから。
 私が彼らの身代わりになるのなら、喜んでこの命を差し出そう。

「……わかり、ました……」

 床を向いて、私は答えた。もう俯かないと決めたのに、私の視線は再び下を向く。
 目の前が真っ暗なのは、月明かりが乏しいからか、私にもう希望がないからか。

「私を……連れて行ってください」
「賢い子だ。君ならそう言ってくれると信じていたよ」

 伊津名少将は深く満足げに頷くと、私の掌にそっと口づける。
 それは、美しく残酷な『所有』の宣言だった。

「さあ、行こうか。君のための、新しいお城へ」

 こうして私は、ただ一人の愛する番を失ったまま。
 母に別れを告げることも、荷物をまとめることもできず、決して出ることのできない軍という名の鳥籠へと、その身を落としていったのだった。