虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 公爵家の矜持がなせるのか、あれだけの騒動があってもお茶会はつつがなく終了した。
 私の覇気を浴びて倒れ伏したヴィルヘルム様は、体調不良ということで、密やかに男爵邸へと送り帰された。
 元凶である貴子様は顔色一つ変えず主催としてお客人をもてなし、茶会は大成功で終わったと言えるだろう。
 貴子様に言いたいことは沢山あったが、証拠もない状態では責めても無駄だろう。冨佐子様とは違い、直接的な手に出ないところが恐ろしくて、厄介だった。
 西日が差したころに、お茶会は和やかな雰囲気で終わりを告げる。来客たちは護衛と共に公爵邸を去り、そのまま鷹島さんも獅子王さんも家を離れて行ってしまった。

「結局あの後、鷹島さんとはまともに話せなかったな……」
 
 部屋の隅に置かれた柱時計が、カチ、カチ、と冷たい音を刻んでいる。
 今頃彼は何をしているだろうか。体調は元に戻ったのか。もめ事に巻き込まれただけの彼が、軍内で叱責など受けていなければいいが。
 明日にでも軍に陳情しよう。男爵令息の起こした事件だと、公爵令嬢の私の話なら聞く耳を持ってくれるかもしれない。
 私は、寝間着の胸元をぎゅっと握りしめ、障子をあけて暗い庭園を見つめていた。
 裏庭での、凄惨な光景が目に焼き付いて離れない。
 ヴィルヘルム様から投げつけられた、呪いのような言葉の数々。それに無抵抗で耐え、殴られ続けていた鷹島さんの昏い瞳。彼がこれまで、どれほどの屈辱と絶望をひとりで抱え込んできたのかを知って、胸が痛んだ。

『エスα』——

 ヴィルヘルム様は、私をそう呼んだ。
 かつて冨佐子様が、「他者のヒートやラットすら自在に操る、人類の上位種」だと恐れと共に語っていた、神話のような存在。
 自分がそんな恐ろしい怪物だなんて、まだ信じられない。
 ただ、大好きな人が理不尽に傷つけられるのが許せなかった。彼を守りたい、彼の敵を排除したいという、強烈で純粋な愛情と怒りが、あんなにも巨大な力となって溢れ出したというのだろうか。

「私、なんなんだろう……」

 私は自分の両手を見つめた。
 ヴィルヘルム様の威圧を吹き飛ばし、鷹島さんの腫れた頬に触れた手。私の指先が触れた途端、彼の傷がみるみるうちに癒えていった、あの不思議な感覚。
 この力が、どうか彼を傷つけるものではありませんようにと、祈らずにはいられなかった。

「小夜子。虫が入るわ、そろそろ戸を閉めなさい」
「お母様……」
 
 不意に声がして、母のちゑが静かに部屋に入ってきた。
 母は私の青白い顔を見ると、心配そうに眉を下げて歩み寄り、冷え切った私の手をそっと包み込んでくれた。

「顔色が悪いわ。お茶会で何があったの?」
「……それは」
「アドラー男爵令息が倒れられた時、あなたが取り乱していたと聞いたけれど」

 母には、どこから話せばいいのかわからなかった。
 鷹島さんがヴィルヘルム様から暴行を受けていたこと。私がαを超えた怪物かもしれないこと。言わなくても母の耳にはすでに入っているだろう。
 けれど母はそれ以上は追及せず、ただ私の背中を優しく撫でてくれた。

「結局、鷹島殿とご挨拶はできなかったわね」
「そう、ですね……お忙しそうだったので……」
「次会えるのは結納の時かしら。私は出席できないけれど、その後の食事会で会いましょう」
「はい! 鷹島さんも、お母様にご挨拶したいと仰っておりました」
 
 母の温かい手が、私の頬をそっと撫でる。
 
「……母は、いつだってあなたの幸せを願っていますからね」
 
 母はそう言うと静かに部屋を退出していく。
 一人取り残された部屋で、私は改めて障子を閉め、布団へと潜り込んだ。
 目を閉じれば、すぐにでも鷹島さんの若草色の瞳が浮かんでくる。明日は軍に赴き、彼が理不尽な目に遭っていないか確かめよう。そして、彼を苦しめるものから、今度こそ私が彼を守るのだと。

 チク、タク。チク、タク。

 闇に包まれた部屋で、時計の針の音だけが響く。
 薄い雲が月を隠す夜。屋敷はまるで死んでいるかのようにしんと静まり返っていた。

(……なんだろう、この胸のざわつきは)

 決意を固めたはずなのに、なぜか眠りにつくことができない。
 不気味なほどの静寂が、私の胸の奥に渦巻く嫌な予感を、どす黒く膨れ上がらせていく。
 風が窓を揺らす音や、夜の静寂が深まるたびに、彼に何かあったのではないかとびくりと肩が跳ねる。

 ——その時だった。

 静まり返った本邸の廊下に、不釣り合いな足音が響き始めた。
 すり足で歩く使用人たちの気配ではない。軍靴の重く硬い足音。
 その音は迷いなく、真っ直ぐに私の部屋へと近づいてくる。

(鷹島さん……?)

 いや、違う。彼なら、こんな夜更けに押し入ってくるはずがない。
 そもそも、こんな時間の私への来客など、門番が通すはずがない。
 けれど足音は迷いなくこちらへ近づき、障子の向こうでピタリと止まった。

「小夜子さん。夜分遅くに申し訳ないね」

 透き通るような、穏やかな声。
 深夜の男性の来訪だというのに、危機感を感じさせない優しい響き。

「伊津名、少将——?」

 慌てて障子を開けると、そこには穏やかな微笑みを浮かべた伊津名少将が、たった一人でそこにいた。