「——以上が、月守公爵邸の茶会で起きたことの顛末です」
参謀本部、第二部長室。
分厚い絨毯が敷かれた執務室に、獅子王の抑揚のない低い声が響き渡った。
報告を終えた獅子王は、壁際に直立不動で立つ俺の方へと振り返り、虫けらでも見るような目で冷ややかに睨みつけた。
「これだからΩは。個人的な因縁で騒動を引き込み、軍の警護任務に泥を塗るなど……言語道断だ」
「申し訳ございません」
蔑むような視線。だが、俺は反論することなく無表情を貫いた。
あのお茶会の日、月守小夜子が放った圧倒的な覇気は、一部始終を監視していた獅子王の目にもはっきりと焼き付いていたのだ。
「咎めるな、獅子王少佐。むしろ鷹島大尉は、私に最高の答えをもたらしてくれた」
伊津名少将の穏やかな声が響いた。
彼の声を聴くと安心する。それは彼が俺にとって父親代わりであるだけではない。彼自身が持つ、抗いがたい魅力そのものだ。
その恩人の目は今、かつてないほどの異様な熱と歓喜を帯びていた。
「お前たちも知っての通り、『エスα』は単なる高位のαではない。他者の本能を底から圧倒し屈服させるだけではないのだ」
伊津名少将は、恍惚とした表情で笑った。
「エスαは複数の番を持つことができ、そしてその血を宿した子は『必ず強靭なαとなる』。その能力は他にもあるが——なんにせよ、人類の頂点に立つ上位種だ」
彼は『廻天隊』というαだけの特務部隊を作り上げ、そしてこの国で狂気じみた大業を為そうとしている。
その完成のためには、無限に優秀なαを産み出すことのできる『エスα』の存在が、喉から手が出るほど欲しかったのだ。
「シヅヲ。お前の任務を変更する」
伊津名少将は、二人きりの時しか呼ばない俺の名前を、ひどく甘く、優しい声で呼んだ。
だが、それに続いた言葉は、俺の全身の血を凍らせるほど残酷なものだった。
「彼女は特別な存在だ。私が成し遂げようとしている計画に不可欠な存在。お前のそのΩの体、Ωの性を使って、なんとしてでも彼女を繋ぎ止めろ。月守小夜子を、私の手中に収めるんだ」
——息が止まりそうになった。
それは、愛しいあの娘を、軍の血生臭い陰謀の「道具」として差し出せという命令だった。
伊津名少将から受けた恩は計り知れない。
幼い頃、父からの愛情を失って居場所のなかった俺に新しい家をくれた。
名をくれた。教育をくれた。友をくれた。そして、新しい親になってくれた。
彼がいなければ、Ωの俺など裏に堕ちてどこかで野垂れ死んでいただろう。
俺が軍神と呼ばれ評価を受けているのも、彼が居場所をくれたおかげだ。
(だが……)
月守小夜子の顔が脳裏によみがえる。
俺のΩの熱に充てられて、俺に噛みついた小さな獣の顔。
銀座で酔っ払いに絡まれ、俺を見て涙を流して安堵していた、儚い少女の顔。
洋館で「強くなる」と誓った凛々しい表情。
そして茶会の裏庭で、俺を守らんと声を荒げた、αとしての顔。
天秤にかけなければいけない。
俺に愛を教えてくれた人と、そんな俺が愛した人を——
「……お断りします」
喉から出たのは、俺の本心だった。
静寂に包まれた執務室に、俺の低い声が響いた。
獅子王が信じられないものを見るように目を見開き、険しい顔で一歩前に出る。俺は真っ直ぐに、親代わりである伊津名少将の目を見返した。
「なんだと?」
「俺は……その作戦には乗れません」
「鷹島ァ! 貴様、閣下に向かって何を——」
「月守小夜子を愛しています」
怒鳴る獅子王の声を遮り、俺ははっきりと告げた。
「彼女を利用することはできません」
育ての親であり、絶対的な上官への初めての反逆。
それが何を意味するのか、俺は誰よりも理解している。軍での立場をすべて失う。それどころか、伊津名少将の後ろ暗い経歴全てを知っている俺は、秘密裏に処分されるだろう。
だが、心に迷いはなかった。月守小夜子の平穏を守れるのなら、俺の命や経歴など、はじめから安いものだ。
「これまで育てていただき、感謝いたします。……失礼します」
俺は敬礼をすると、踵を返す。獅子王が何か言っていたが、振り返ることなく重い扉を開けた。
◇ ◇ ◇
扉が重厚な音を立てて閉まり、鷹島の足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。
残された室内で、獅子王が忌々しそうに舌打ちをした。
「伊津名少将。よろしいのですか!? 奴は完全に我々を裏切る気です。急ぎ処分しなければ——」
「……仕方ないな」
伊津名は、去り行く鷹島を止めなかった。
手塩にかけて育てた子飼いの兵の裏切りに激昂するわけでもなく、ただ手の中にある見えないチェスの駒を転がすように、冷酷な瞳を細める。
「所詮は『Ω』か。番への執着に負けたというわけだ」
伊津名は執務机から離れると、側に控えていた獅子王の頭を撫でる。まるで、幼い子供にするかのように。
「司、お前は私の側にいてくれるね」
「は、はい……! 私だけではありません、我ら廻天隊は皆、貴方様の犬でございます!」
「はは、そんな風には思っていないよ。皆、私のかわいい子供たちだ」
窓の外では、不穏な風が吹き始めていた。
伊津名と獅子王ふたりの会話は、誰にも聞かれることなく風と共に消えていった。
参謀本部、第二部長室。
分厚い絨毯が敷かれた執務室に、獅子王の抑揚のない低い声が響き渡った。
報告を終えた獅子王は、壁際に直立不動で立つ俺の方へと振り返り、虫けらでも見るような目で冷ややかに睨みつけた。
「これだからΩは。個人的な因縁で騒動を引き込み、軍の警護任務に泥を塗るなど……言語道断だ」
「申し訳ございません」
蔑むような視線。だが、俺は反論することなく無表情を貫いた。
あのお茶会の日、月守小夜子が放った圧倒的な覇気は、一部始終を監視していた獅子王の目にもはっきりと焼き付いていたのだ。
「咎めるな、獅子王少佐。むしろ鷹島大尉は、私に最高の答えをもたらしてくれた」
伊津名少将の穏やかな声が響いた。
彼の声を聴くと安心する。それは彼が俺にとって父親代わりであるだけではない。彼自身が持つ、抗いがたい魅力そのものだ。
その恩人の目は今、かつてないほどの異様な熱と歓喜を帯びていた。
「お前たちも知っての通り、『エスα』は単なる高位のαではない。他者の本能を底から圧倒し屈服させるだけではないのだ」
伊津名少将は、恍惚とした表情で笑った。
「エスαは複数の番を持つことができ、そしてその血を宿した子は『必ず強靭なαとなる』。その能力は他にもあるが——なんにせよ、人類の頂点に立つ上位種だ」
彼は『廻天隊』というαだけの特務部隊を作り上げ、そしてこの国で狂気じみた大業を為そうとしている。
その完成のためには、無限に優秀なαを産み出すことのできる『エスα』の存在が、喉から手が出るほど欲しかったのだ。
「シヅヲ。お前の任務を変更する」
伊津名少将は、二人きりの時しか呼ばない俺の名前を、ひどく甘く、優しい声で呼んだ。
だが、それに続いた言葉は、俺の全身の血を凍らせるほど残酷なものだった。
「彼女は特別な存在だ。私が成し遂げようとしている計画に不可欠な存在。お前のそのΩの体、Ωの性を使って、なんとしてでも彼女を繋ぎ止めろ。月守小夜子を、私の手中に収めるんだ」
——息が止まりそうになった。
それは、愛しいあの娘を、軍の血生臭い陰謀の「道具」として差し出せという命令だった。
伊津名少将から受けた恩は計り知れない。
幼い頃、父からの愛情を失って居場所のなかった俺に新しい家をくれた。
名をくれた。教育をくれた。友をくれた。そして、新しい親になってくれた。
彼がいなければ、Ωの俺など裏に堕ちてどこかで野垂れ死んでいただろう。
俺が軍神と呼ばれ評価を受けているのも、彼が居場所をくれたおかげだ。
(だが……)
月守小夜子の顔が脳裏によみがえる。
俺のΩの熱に充てられて、俺に噛みついた小さな獣の顔。
銀座で酔っ払いに絡まれ、俺を見て涙を流して安堵していた、儚い少女の顔。
洋館で「強くなる」と誓った凛々しい表情。
そして茶会の裏庭で、俺を守らんと声を荒げた、αとしての顔。
天秤にかけなければいけない。
俺に愛を教えてくれた人と、そんな俺が愛した人を——
「……お断りします」
喉から出たのは、俺の本心だった。
静寂に包まれた執務室に、俺の低い声が響いた。
獅子王が信じられないものを見るように目を見開き、険しい顔で一歩前に出る。俺は真っ直ぐに、親代わりである伊津名少将の目を見返した。
「なんだと?」
「俺は……その作戦には乗れません」
「鷹島ァ! 貴様、閣下に向かって何を——」
「月守小夜子を愛しています」
怒鳴る獅子王の声を遮り、俺ははっきりと告げた。
「彼女を利用することはできません」
育ての親であり、絶対的な上官への初めての反逆。
それが何を意味するのか、俺は誰よりも理解している。軍での立場をすべて失う。それどころか、伊津名少将の後ろ暗い経歴全てを知っている俺は、秘密裏に処分されるだろう。
だが、心に迷いはなかった。月守小夜子の平穏を守れるのなら、俺の命や経歴など、はじめから安いものだ。
「これまで育てていただき、感謝いたします。……失礼します」
俺は敬礼をすると、踵を返す。獅子王が何か言っていたが、振り返ることなく重い扉を開けた。
◇ ◇ ◇
扉が重厚な音を立てて閉まり、鷹島の足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。
残された室内で、獅子王が忌々しそうに舌打ちをした。
「伊津名少将。よろしいのですか!? 奴は完全に我々を裏切る気です。急ぎ処分しなければ——」
「……仕方ないな」
伊津名は、去り行く鷹島を止めなかった。
手塩にかけて育てた子飼いの兵の裏切りに激昂するわけでもなく、ただ手の中にある見えないチェスの駒を転がすように、冷酷な瞳を細める。
「所詮は『Ω』か。番への執着に負けたというわけだ」
伊津名は執務机から離れると、側に控えていた獅子王の頭を撫でる。まるで、幼い子供にするかのように。
「司、お前は私の側にいてくれるね」
「は、はい……! 私だけではありません、我ら廻天隊は皆、貴方様の犬でございます!」
「はは、そんな風には思っていないよ。皆、私のかわいい子供たちだ」
窓の外では、不穏な風が吹き始めていた。
伊津名と獅子王ふたりの会話は、誰にも聞かれることなく風と共に消えていった。



