虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 俺はゆっくりと瞳を閉じ、冷たい土の地面に膝をつこうとした。
 ——その時だった。

「やめてっ!!」

 悲痛な叫び声と共に、俺とヴィルヘルムの間に、ひとつの小さな影が滑り込んできた。
 白いワンピースの裾が翻る。そして、崩れ落ちそうになっていた俺の体を、細い腕が力強く抱きとめた。
 フワリと、春の陽だまりのような甘く優しい香りが鼻腔をくすぐる。それは、俺の理性を焼き切るほど愛おしい、月守小夜子の匂いだった。

「……月守、小夜子……!?」

 なぜ彼女がここにいるのか。
 驚愕に目を見開く俺の胸に、彼女はぴたりと身を寄せた。彼女の小さな手から、そして密着した体温から、温かく包み込むような気が流れ込んでくる。
 それは番を安心させ、庇護しようとする気高い波動だった。彼女が俺に触れた瞬間、ヴィルヘルムから受けていた、内臓を握り潰されるようなΩの恐怖心が、嘘のようにスッと霧散していく。

「私の婚約者に膝などつかせません!」

 月守小夜子は俺を背中に庇うように立ち塞がり、ヴィルヘルムを真っ直ぐに睨みつけた。
 俺の軍服を握りしめるその華奢な手は、小刻みに震えている。だが、瞳には一筋の涙も怯えもなく、ただ烈火のごとき怒りが宿っていた。

「小夜子嬢……なぜ、あなたがこんな裏庭に……。そこをどきなさい、その男は——」

 ヴィルヘルムが忌々しそうに顔を歪め、月守小夜子ごと俺を威圧しようと、さらに強烈なαの圧を放とうとした、次の瞬間。

「動かないで!」

 裏庭の空気が、爆発したかのように激しく震え、異様なまでの重さを持った。
 月守小夜子の体から、ヴィルヘルムの威圧を遥かに凌駕する、すさまじい覇気が放たれたのだ。
 それは、洗練された高位αフェロモンなどという生易しいものではなかった。大切な番を傷つけられたことに対する、原初的で剥き出しの、そして——強大すぎる本能の爆発。

「ガ、ァッ……!?」

 強烈な覇気を真正面から叩きつけられたヴィルヘルムが、その場にガクンと両膝をついた。
 高位αであるはずの彼が、青ざめた顔で冷や汗を流し、まともに息もできていない。彼が放っていた威圧は、月守小夜子の怒りの前で枯れ葉のように吹き飛んでいた。

(この、圧倒的なまでの覇気は……まさか)

 背後にいる俺には、彼女の気配はただ温かく、どこまでも優しい。
 だが、ヴィルヘルムをねじ伏せているその力の正体に、俺は戦慄を覚えた。
 α同士であれば、ここまで一方的に本能を屈服させられることなどあり得ない。他のαをすらも生物的な頂点からひざまずかせ、絶対的な支配を敷くことのできる、神話のような特異個体。

「小夜子嬢、あなたは……エスα……かっ……!」
 
 月守小夜子は、ただのαではない。αを超える存在——『エスα』だったのだ。
 それは、神話上の性と思われていた。男女の性を超越し、αの圧すらも圧倒する、人類の頂点。

「どんな理由があろうとも、理不尽な暴力に鷹島さんを晒すことはさせません」

 だが、今の彼女にその自覚はないらしい。
 声が少し震えている。膝をつき、震えるヴィルヘルムを見下ろしながら、月守小夜子は一歩も退かず、毅然とした声で言い放った。
 俺を庇い、俺たちを縛り付ける理不尽な身分制度のすべてを睨みつけるように。

「鷹島さんに、関わらないでください」

 ヴィルヘルムを完全に沈黙させた彼女は、ふと覇気を収めると、弾かれたように俺の方へと振り返った。
 そして、ヴィルヘルムに打ち据えられた俺の頬に、そっと白く柔らかな手を添える。

「鷹島さん……痛くはないですか?」

 泣きそうな顔で俺を見上げる彼女の指先から、途轍もなく純粋で温かな力が流れ込んでくるのを感じた。
 じんわりと、柔らかな光が染み渡るような感覚。
 ——エスαは、自らの番たるΩに絶対的な加護と生命力を与える。
 かつて御伽話のように聞いた伝承が、今、俺の体で現実のものとなっていた。彼女の指が触れた途端、赤く腫れていたはずの頬の痛みが嘘のように引き、口内の切れた傷が瞬く間に塞がっていく。それどころか、ヴィルヘルムの威圧に当てられて極限まで消耗していた体力までもが、底から湧き上がるような強靭な活力で満たされていくのだ。

「これが、エスαが番に与える力——?」
「よかった。怪我も引いてきましたね……」

 かつて、この薄暗い離れで誰にも見向きもされず、怯えて生きていた少女の面影はない。
 俺が守らなければと誓ったはずの少女は今、強大なる『エスα』として、そして俺の番として、癒やしと力を与えながら雄々しく立っていた。

「……月守、小夜子」

 喉の奥から、無意識に彼女の名前がこぼれ落ちる。
 彼女が着ている白いワンピース——俺が贈ったあの服が、薄暗い裏庭でまばゆいほどに輝いて見えた。
 俺の汚れた軍服の袖を、彼女の小さな手がきゅっと強く握りしめる。その手から伝わる途方もない力と絶対的な愛情に、俺の氷のように冷え切っていた心は、音を立てて熱く溶かされていった。