——母を見るのは、一体何年ぶりだろうか。
木陰に直立不動で立ちながら、俺は遠くの卓に座る母の姿を見つめていた。
記憶の中よりも少しだけ歳を重ねた母の隣には、美しいプラチナブロンドの少年が立っていた。ヴィルヘルム・フォン・アドラー。俺と同じ血を分けながら、αとして覚醒した、俺の弟だという。
(あれが、父が求めた完璧な息子……)
男でありながらΩとして生まれた俺という一族の「汚点」を上書きし、消し去るための、輝かしい正当な後継者。
「……はは」
思わず乾いた笑いが漏れる。俺の居場所など、最初からこの世界のどこにもなかったのだ。
だが、絶望を噛み締める暇すらなかった。俺は今日、アドラー男爵家の警護という任務を帯びてこの場に立っている。軍人として、見捨てられた過去の感傷などという私情を挟むことは許されない。
息を殺し、ただの風景の一部として庭園の木陰に立ち尽くす。
けれど、感情を殺そうとする俺の視界に、ひとつの眩しい色が飛び込んできた。
(月守小夜子……)
俺が贈った、あの白いワンピースを着てくれている。
春の日差しを浴びて微笑む姿は、目が眩むほどに美しかった。陰惨な環境から抜け出したばかりの頃の怯えた表情は嘘のように消え、立派な公爵令嬢として、花のように笑っている。
(彼女の笑顔が見られるだけで、俺は幸福だ)
彼女の笑顔はいつだって俺を救ってくれる。だが、今日その柔らかな笑顔が向けられているのは、俺ではなかった。
隣で優雅に紅茶を傾け、親しげに話しかけているのは、弟のヴィルヘルム。
「年も近いですし、お友達になれると嬉しいのですが——」
「是非! 仲良くしてくださいませ」
同い年の、若く美しいαの令嬢と令息。
柔らかな日差しの中で談笑する二人が並ぶ姿は、あまりにもお似合いで、まるで一枚の完璧な名画のようだった。
同等の身分、同等の力。惹かれ合い、家を興していく正しき伴侶の姿。
(それに引き換え、俺はどうだ)
一族から見捨てられ、獣のように戦場を這いずり回り、泥と血の匂いが染み付いた惨めな男Ω。
あんなにも眩しい光の隣に、俺のような薄汚れた存在が立つことなど、許されるはずがなかったのだ。
心が、音を立てて崩れていくのを感じた。
月守小夜子と目が合いそうになっても、俺は目を逸らし、遠くの虚空を見つめることしかできなかった。月守小夜子の目に映る自分がひどく醜く思えて、視界が泥沼のように暗く濁っていく。いっそこのまま、影に溶けて消えてしまいたかった。
『……少し、面を貸せ』
不意に、真横から冷ややかな独逸語が降ってきた。
いつの間にか席を立っていたヴィルヘルムが、氷のような瞳で俺を見ている。青い瞳には、強烈な侮蔑が込められていた。
『かしこまりました』
弟である前に、彼は俺の護衛対象であり、格上の存在だ。
彼が何をしようとしているのか察しはつくが、断る選択肢はなかった。
俺は無表情のまま深く頭を下げ、彼の背中について歩き出した。
◇ ◇ ◇
連れてこられたのは、本邸の裏手——奇しくも、かつて月守小夜子が不遇な扱いを受け、光から隠れるように生きていた、あの薄暗い離れの前だった。
人目のない湿った裏庭に出た途端、ヴィルヘルムの目が害虫を見るように細められた。
「——本当に目障りだな、貴様は。どんな面を下げて母上の視界に入り込んでいる」
「……俺は、アドラー男爵家の護衛としての任務を全うしているまでです、ヴィルヘルム様」
「口答えをするな、出来損ないの犬が!」
バシッ、と。思い切り頬を張り飛ばされた。
避けることなどたやすかった。だが、俺が彼に逆らうことなどできない。
甘んじて受けた拳の威力は口内を傷付ける。ぽたりと流れた血がαの闘争心を煽ってしまったのか、ヴィルヘルムが興奮し、連撃が体を襲う。
ちゑ殿の抑制剤の副作用の話を聞いて、月守小夜子を心配させないために抑制剤の使用を控えていたのも災いした。Ωの、αを誘惑する血が興奮材料となり、ヴィルヘルムの攻撃は苛烈さを増していくばかりだった。
「Ωの分際で名を変えて生き永らえているだけでも反吐が出るのに……! 名家の娘をたぶらかし、格差婚で一族の末席に連なろうなどと……浅ましいにも程があるっ!!」
「……そのようなことは」
「貴様のような汚らわしいΩが放つ発情の匂いなど、本来なら嗅ぐだけで反吐が出る! 這いつくばれ。貴様が我がアドラー家の名誉を汚すだけの屑だと、その体に教えてやる!!」
ドッ、と空間が歪むほどの強烈なαの威圧が浴びせられた。
内臓を直接鷲掴みにされるような、Ωの本能を蹂躙する圧倒的な暴力。膝が砕けそうになるのを、俺はぐっと奥歯を噛み締め、両足に力を込めて必死に耐えた。
脂汗が額を伝う。息が詰まり、立っているだけで意識が朦朧としてくる。
「ここは月守公爵家の茶会です。どうか、せめて別の場所で——」
「馬鹿が! その月守夫人から貴様を排除するよう懇願されたのだ! 可愛い義理の娘を、お前のような浅ましいけだものに奪われたくない、とな」
ヴィルヘルムの嘲笑に、俺は絶句した。
月守小夜子の義母から「けだもの」と蔑まれ、排除を懇願されるほど、俺は月守小夜子に相応しくない存在なのだという事実が、殴られるよりも深く俺の心を抉った。
「ここは月守家の屋敷。すべての行いが隠蔽される。さあ、地を這え! 二度と軍人として働けない体にしてくれる!」
ヴィルヘルムの狂気を孕んだ声と共に、さらなる重圧が俺を押し潰そうとした。
抵抗してはいけない。俺は罰を受けなければならない。月守小夜子に触れた、この浅ましい獣の罪を。
俺はゆっくりと瞳を閉じ、冷たい土の地面に膝をつこうとした。
木陰に直立不動で立ちながら、俺は遠くの卓に座る母の姿を見つめていた。
記憶の中よりも少しだけ歳を重ねた母の隣には、美しいプラチナブロンドの少年が立っていた。ヴィルヘルム・フォン・アドラー。俺と同じ血を分けながら、αとして覚醒した、俺の弟だという。
(あれが、父が求めた完璧な息子……)
男でありながらΩとして生まれた俺という一族の「汚点」を上書きし、消し去るための、輝かしい正当な後継者。
「……はは」
思わず乾いた笑いが漏れる。俺の居場所など、最初からこの世界のどこにもなかったのだ。
だが、絶望を噛み締める暇すらなかった。俺は今日、アドラー男爵家の警護という任務を帯びてこの場に立っている。軍人として、見捨てられた過去の感傷などという私情を挟むことは許されない。
息を殺し、ただの風景の一部として庭園の木陰に立ち尽くす。
けれど、感情を殺そうとする俺の視界に、ひとつの眩しい色が飛び込んできた。
(月守小夜子……)
俺が贈った、あの白いワンピースを着てくれている。
春の日差しを浴びて微笑む姿は、目が眩むほどに美しかった。陰惨な環境から抜け出したばかりの頃の怯えた表情は嘘のように消え、立派な公爵令嬢として、花のように笑っている。
(彼女の笑顔が見られるだけで、俺は幸福だ)
彼女の笑顔はいつだって俺を救ってくれる。だが、今日その柔らかな笑顔が向けられているのは、俺ではなかった。
隣で優雅に紅茶を傾け、親しげに話しかけているのは、弟のヴィルヘルム。
「年も近いですし、お友達になれると嬉しいのですが——」
「是非! 仲良くしてくださいませ」
同い年の、若く美しいαの令嬢と令息。
柔らかな日差しの中で談笑する二人が並ぶ姿は、あまりにもお似合いで、まるで一枚の完璧な名画のようだった。
同等の身分、同等の力。惹かれ合い、家を興していく正しき伴侶の姿。
(それに引き換え、俺はどうだ)
一族から見捨てられ、獣のように戦場を這いずり回り、泥と血の匂いが染み付いた惨めな男Ω。
あんなにも眩しい光の隣に、俺のような薄汚れた存在が立つことなど、許されるはずがなかったのだ。
心が、音を立てて崩れていくのを感じた。
月守小夜子と目が合いそうになっても、俺は目を逸らし、遠くの虚空を見つめることしかできなかった。月守小夜子の目に映る自分がひどく醜く思えて、視界が泥沼のように暗く濁っていく。いっそこのまま、影に溶けて消えてしまいたかった。
『……少し、面を貸せ』
不意に、真横から冷ややかな独逸語が降ってきた。
いつの間にか席を立っていたヴィルヘルムが、氷のような瞳で俺を見ている。青い瞳には、強烈な侮蔑が込められていた。
『かしこまりました』
弟である前に、彼は俺の護衛対象であり、格上の存在だ。
彼が何をしようとしているのか察しはつくが、断る選択肢はなかった。
俺は無表情のまま深く頭を下げ、彼の背中について歩き出した。
◇ ◇ ◇
連れてこられたのは、本邸の裏手——奇しくも、かつて月守小夜子が不遇な扱いを受け、光から隠れるように生きていた、あの薄暗い離れの前だった。
人目のない湿った裏庭に出た途端、ヴィルヘルムの目が害虫を見るように細められた。
「——本当に目障りだな、貴様は。どんな面を下げて母上の視界に入り込んでいる」
「……俺は、アドラー男爵家の護衛としての任務を全うしているまでです、ヴィルヘルム様」
「口答えをするな、出来損ないの犬が!」
バシッ、と。思い切り頬を張り飛ばされた。
避けることなどたやすかった。だが、俺が彼に逆らうことなどできない。
甘んじて受けた拳の威力は口内を傷付ける。ぽたりと流れた血がαの闘争心を煽ってしまったのか、ヴィルヘルムが興奮し、連撃が体を襲う。
ちゑ殿の抑制剤の副作用の話を聞いて、月守小夜子を心配させないために抑制剤の使用を控えていたのも災いした。Ωの、αを誘惑する血が興奮材料となり、ヴィルヘルムの攻撃は苛烈さを増していくばかりだった。
「Ωの分際で名を変えて生き永らえているだけでも反吐が出るのに……! 名家の娘をたぶらかし、格差婚で一族の末席に連なろうなどと……浅ましいにも程があるっ!!」
「……そのようなことは」
「貴様のような汚らわしいΩが放つ発情の匂いなど、本来なら嗅ぐだけで反吐が出る! 這いつくばれ。貴様が我がアドラー家の名誉を汚すだけの屑だと、その体に教えてやる!!」
ドッ、と空間が歪むほどの強烈なαの威圧が浴びせられた。
内臓を直接鷲掴みにされるような、Ωの本能を蹂躙する圧倒的な暴力。膝が砕けそうになるのを、俺はぐっと奥歯を噛み締め、両足に力を込めて必死に耐えた。
脂汗が額を伝う。息が詰まり、立っているだけで意識が朦朧としてくる。
「ここは月守公爵家の茶会です。どうか、せめて別の場所で——」
「馬鹿が! その月守夫人から貴様を排除するよう懇願されたのだ! 可愛い義理の娘を、お前のような浅ましいけだものに奪われたくない、とな」
ヴィルヘルムの嘲笑に、俺は絶句した。
月守小夜子の義母から「けだもの」と蔑まれ、排除を懇願されるほど、俺は月守小夜子に相応しくない存在なのだという事実が、殴られるよりも深く俺の心を抉った。
「ここは月守家の屋敷。すべての行いが隠蔽される。さあ、地を這え! 二度と軍人として働けない体にしてくれる!」
ヴィルヘルムの狂気を孕んだ声と共に、さらなる重圧が俺を押し潰そうとした。
抵抗してはいけない。俺は罰を受けなければならない。月守小夜子に触れた、この浅ましい獣の罪を。
俺はゆっくりと瞳を閉じ、冷たい土の地面に膝をつこうとした。



