虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 穏やかなお茶会はつつがなく進み、やがて私は母のちゑと共に、ある女性の席へと招かれた。

「小夜子。アドラー男爵夫人の、フミ様よ」
「お初にお目にかかります、小夜子様。この度は……息子がお世話に……」

 紹介されて静かに立ち上がったのは、控えめな薄紫色のドレスに身を包んだ、小柄な女性だった。
 この人が、鷹島さんを異国の地に捨てた母親。どれほど冷酷で、恐ろしい婦人だろうかと、私は密かに身構えていた。けれど、目の前で柔らかくはにかむように微笑む彼女を見て、すっかり拍子抜けしてしまった。

(この方が、鷹島さんのお母様……?)

 華美な装飾品は身につけず、どこか憂いを帯びた伏し目がちな瞳。色白で細い首筋は、少し力を込めれば折れてしまいそうなほど儚げで、たおやかな女性だ。
 この人では、男でありながらΩとして産まれた鷹島さんを、αの夫から守り切れるはずがなかったのだと、直感的に理解できてしまう。
 彼女がどんな想いで彼を手放し、「鷹島」という自分の姓を名乗らせたのか。手放すことでしか、愛する我が子を生かす道がなかったのではないか。そんな想像が頭を過ったが、華やかなお茶会の場でそれを口に出すことはできなかった。

「異国の地に嫁がれて、男爵家を支えられているなんて、尊敬いたします」
「いえ、そんな。公爵家に嫁がれたちゑ様の方が……」

 強大な家父長制の中で生きる母とフミ様は、どこか通じ合うものがあったのかもしれない。二人は静かに微笑み合い、他愛のない会話が穏やかに流れていく。
 鷹島さんのことを聞きたかったが、ふたりの会話の中からは決して子供の名前が出てこない。互いに下手な会話に踏み込まないように気を使っていることがわかったので、私も静かに相槌を打って黙っていた。
 
(——あら?)
 
 その時だった。視界の端で、不自然な動きが私の目を引いた。
 少し離れた場所で、正妻の貴子様が、ヴィルヘルム様の耳元に顔を寄せて何かを囁いていたのだ。
 口元は扇子で隠されているが、貴子様の目は三日月のようにつり上がり、ひどく禍々しい光を放っているのが分かった。耳打ちされたヴィルヘルム様は、ふっと薄い唇を歪めて嘲笑うと、真っ直ぐに木陰に立つ鷹島さんの元へと歩み寄った。
 ヴィルヘルム様が冷ややかな声で何かを命じると、鷹島さんの大きな体が微かに強張り、軍人らしく深く頭を下げた。そして、二人は連れ立って、人目のつかない本邸の裏手へと姿を消していく。

(……え?)

 二人が視界から消えた瞬間、肌が粟立つような悪寒が走った。
 ビリビリと、空気が微かに震え、重くのしかかってくるような錯覚。それは間違いなく、ヴィルヘルム様が放った強烈なαの圧だった。α同士にしかわからないほどに薄められているが、あれは他者を威圧し、本能的に服従させるための、暴力的なまでの覇気だった。

(鷹島さん……!)

 ふと、鷹島さんの昏い瞳を思い出す。あの二人は兄弟だというのに、まともに視線も合わせていなかった。
 親の都合で分かたれた兄弟、あの二人の関係性はよくないのかもしれない。それこそ、私と冨佐子様のように、壊滅的なまでに……
 激しい胸騒ぎが警鐘を鳴らす。
 貴子様のあの恐ろしい目。そして、ヴィルヘルム様が纏っていた攻撃的な空気。まさか、鷹島さんを人気のない場所へ連れ込んで、何かを企んでいるのだろうか。

「……失礼します!」
「小夜子、はしたないわよ」

 私は居ても立っても居られず、母とフミ様に短く一礼すると、足早に席を立った。
 ドレスの裾を握りしめる手は震え、心臓は早鐘のように打っている。人目を忍んで生け垣を抜け、屋敷の裏手へと続く薄暗い小道へ足を踏み入れた。
 太陽の光が降り注ぐ華やかなお茶会の喧騒が遠ざかるにつれて、ピリピリとしたαの気配がより一層濃く、攻撃的になっていく。

 湿った土の匂いと、冷たい空気が漂う裏庭。そこは私たちが住んでいた離れのある場所だった。
 太い松の木の陰に身を潜め、そっと様子を窺った私の耳に、刃物のように鋭い声が飛び込んできた。

「——本当に目障りだな、貴様は。どんな面を下げて母上の視界に入り込んでいる」
「……私は、アドラー男爵家の護衛としての任務を全うしているまでです、ヴィルヘルム様」
「口答えをするな、出来損ないの犬が!」

 バシッ、と何かを打ち据えるような鈍い音が響いた。
 ハッとして息を呑む。見れば、ヴィルヘルム様が手袋を外した手で、鷹島さんの頬を張り飛ばしていた。
 鷹島さんなら、避けることも防ぐことも容易いはずだ。けれど、彼は一切抵抗せず、微動だにせずにその理不尽な暴力を受け止めている。

「Ωの分際で名を変えて生き永らえているだけでも反吐が出るのに、名家の娘をたぶらかし、格差婚で一族の末席に連なろうなどと……浅ましいにも程がある」
「……そのようなことは」
「貴様のような汚らわしいΩが放つ発情の匂いなど、本来なら嗅ぐだけで反吐が出る。這いつくばれ。貴様が我がアドラー家の名誉を汚すだけの屑だと、その体に教えてやる」

 ヴィルヘルム様の声と共に、空間が歪むほどの強烈なαの威圧が放たれた。
 ただ聞いているだけの私でさえ、息が詰まりそうになるほどの重圧。それを真正面から浴びせられた鷹島さんは、ぐっと奥歯を噛み締め、傅きたいΩの本能に無理やり逆らうように、額に脂汗を浮かべて立っていた。

「ここは月守公爵家の茶会です。どうか、せめて別の場所で——」
「馬鹿が! その月守夫人から貴様を排除するよう懇願されたのだ! 可愛い義理の娘を、お前のような浅ましいけだものに奪われたくない、とな」

 貴子様の名前が出て、肩がはねる。
 ここに来てやっとすべてに納得がいった。殺したいほど憎いであろう私を厚遇していたのは、標的を私ではなく鷹島さんに向けていたからだ。

「ここは月守家の屋敷、すべての行いが隠蔽される。さあ、地を這え! 二度と軍人として働けない体にしてくれる!」