虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 そして、緊張の週末が来た。
 本邸の広大な庭園で、客人たちを招いたお茶会が開かれた。お呼びしたのは「フミ・フォン・アドラー」と「ヴィルヘルム・フォン・アドラー」——鷹島さんのお母様と弟君、それと独逸大使館のご家族方とのこと。

「貴子様よりドレスをいただきました。是非お袖を通し下さい」
「あっ、私は自分のドレスがありますので……」
 
 せっかく鷹島さんが来るのだ。先日貰った白いワンピースをもう一度着たい。あれはワンピースだが、格式ばった場にも対応しうる素晴らしい仕立ての物だった。
 母に与えられたのは淡い真珠色の美しい洋装。首元には上品なレースがあしらわれている。淡い色は母の顔色を明るく見せてくれる。いつもと違う雰囲気の母は美しくて、父が一目ぼれした理由もわかりそうだった。

「お母様、綺麗です」
「……母にお世辞などよしなさい」

 思わず声を漏らすと、母の耳が赤く染まる。母の素直な反応が珍しくて、くすりと笑みがこぼれる。
 まさかこの家で、母とこんな穏やかな時間を過ごすことになろうとは。数日前までは夢にも見なかった。

「行きましょう、お母様」
 
 私は微笑みをたたえながら、母と腕を組んで庭園へと向かった。

 ◇ ◇ ◇

 春の日差しが降り注ぐ庭園は、まるで別世界のように華やかだった。
 月守邸は純日本屋敷だが、広い庭園には欧羅巴式の茶会の準備がされている。
 白いテーブルクロスが掛けられた円卓には、色とりどりの洋菓子と紅茶が並び、ドレスを着た貴婦人たちや正装の令息たちが談笑している。
 その輪の中心に、ひときわ目を引く少年が立っていた。

「ご紹介するわ。アドラー男爵の御子息、ヴィルヘルム・フォン・アドラー様。αでいらっしゃるのよ。そしてこちらが、我が月守家の娘の小夜子と、その母のちゑです」

 複雑な家庭環境を披露することにならないかと一瞬はらはらしたが、貴族界ではよくある話なのか、誰も二人の母親の存在に戸惑う者はいなかった。
 貴子様に促され、私は一歩前に出る。
 ヴィルヘルム様は、私と同い年くらいに見えた。プラチナブロンドの美しい髪に、氷のように透き通った青い瞳。大切に育てられた白百合のように洗練された容貌だった。
 しかし、その顔立ちを見た瞬間、私は小さく息を呑んだ。
 髪や瞳の色こそ違うけれど、通った鼻筋や、ふとした瞬間の伏せ目がちな目元が、鷹島さんにそっくりだったのだ。

「お初にお目にかかる、麗しき令嬢。ヴィルヘルム・フォン・アドラーです」

 彼は流暢な日本語でそう言うと、私の手を取り、手の甲に優雅に唇を落とした。
 絵画のように美しい所作。彼の中に鷹島さんの面影を見つけた私は、すっかり警戒心を解いて、自然と笑みをこぼしていた。

「お会いできて光栄です、ヴィルヘルム様。月守小夜子と申します」
「小夜子もαに覚醒いたしましたの。同じ性同士、仲良くしてあげてくださいませ」

 貴子様が私の説明もしてくれる。どうにか挨拶をこなせてほっとした。
 挨拶を交わし、ふと視線を上げた時だった。
 ご婦人たちが歓談する輪から少し離れた庭の木陰に、見慣れた軍服姿があった。

(あ、鷹島さん……!)

 アドラー男爵夫人と令息の警護任務として同行しているのだろう。礼装用の軍服に身を包んだ鷹島さん——と、獅子王さんが、壁のようにそこに立っていた。
 私は嬉しくなって、鷹島さんに視線を送った。お仕事の邪魔はできないから、目が合うだけでもうれしい。そう思って、彼の若草色の瞳をのぞき込む。

 けれど——

 鷹島さんは、私の方を見てはいなかった。
 いや、視界には入っているはずなのに、その瞳には光が一切なく、まるで沼のように暗く濁っていた。遠くの虚空を見つめるような、昏い瞳。
 私がいくら視線を送っても、彼はこちらに気づく様子はなかった。まるで自分の存在そのものを消し去ろうとしているかのように、ただ静かに、影のように立ち尽くしている。

(どうしたんだろう……お疲れなのかな)

 胸の奥がざわざわと波打ったが、お茶会はつつがなく進んでいった。
 私が最も恐れていた、母への嫌がらせや、私たちの出自を嗤われるような出来事は一切起こらなかった。貴子様は完璧な主催として振る舞い、私たちを「月守の誇り高き令嬢とその母」として丁重に扱ってくれている。
 客人たちも紳士的で、誰も私を愛人の子だと蔑む者はいなかった。

 あまりにも穏やかで、優雅な空間。
 私はテーブルにつき、隣に座ったヴィルヘルム様と会話を楽しんでいた。

「小夜子様は、独逸語に興味がおありだとか」
「はい。まだ少しだけですが……いつか話せるようになるのが夢なのです」
「素晴らしい。もしよろしければ、私が教えましょうか。年も近いですし、お友達になれると嬉しいのですが——」
「是非! 仲良くしてくださいませ」

 微笑む彼の顔のあちこちに、大好きな鷹島さんの面影が重なる。きっと鷹島さんが若い頃は、こんな顔をしていたのだろう。
 鷹島さんの血を分けた弟君。彼と親しくなれれば、きっと鷹島さんも喜んでくれるはず。
 そう信じて疑わなかった私は、心を許し、ヴィルヘルム様と仲睦まじく言葉を交わしていた。

 ——この見せかけの平穏こそが、盤上の最も残酷な罠であることに。
 愛する私が、自分からすべてを奪った一族の正当な後継者である『完全なαの弟』と親しげに笑い合う姿を見せつけられることが、鷹島さんにとってどれほどの地獄であるかに。
 私はまだ、少しも気づいていなかったのだった。