虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 月守の本邸での生活は、不気味なほどに平穏だった。

 朝、目を覚ますと、すぐさま女中が滑り込んでくる。かつて私や母に冷たい目を向けていた彼女たちは、今は床に額を擦りつける勢いで「おはようございます、お嬢様」と声を揃えるのだ。
 用意される着物は、目が眩むほど上質な絹や縮緬ばかり。食事も豪勢で、自分でお茶を淹れようと急須に手を伸ばせば、「あっ、お嬢様! 私共がいたしますから!」と悲鳴のような声が上がり、女中たちが飛んでくる有様だった。
 冨佐子様は「田舎で静養中」という名目で屋敷から姿を消しており、誰も私を虐げる者はいない。
 私は完全に、この月守家における支配者として扱われていた。

「なんだか、逆に居心地が悪いです」
「あの人の掌返しなんていつものことです。贅沢に慣れない様気を付けなさいね」
「お母様は冷静ですね」
  
 けれど、その平穏はひどく空虚だった。
 彼女たちの目にあるのは、私という人間への敬意でも親愛でもない。だから私が好きな色も知らないし、母の苦手な食事も知らない。豪華で華やかなものを与えればいいという偏見から与えられるものは、嬉しいものばかりではなかった。

(鷹島さんの洋館とは、全然違う……)

 あの洋館で、私は使用人の方々や鷹島さんとたくさんのお話をした。好きなもの、苦手なもの、見てみたい景色。皆が私に理解を示そうとしてくれて、私も彼らを知ることができた。けれど、今はそれがない。
 私は洋館での夢のような日々を思い出しては、母に伝える。

「彼らが、あなたを明るくしてくれたのね」
「えへへ。そう、ですか……?」
「人の目を見て話すようになったわ。いいことよ」

 この生活で良い点があるとすれば、母との会話の時間が増えたことくらいだろう。母の瞳が月夜のように、少しの光を宿した黒色だということを、私は初めて知ったのだった。

 ◇ ◇ ◇

 数日後、私は久々に女学校へと登校した。
 女学校も、私にとっては居心地のいい場所ではない。一つ上の冨佐子様がαの権威を振りかざして女王のように振舞い、取り巻きの女生徒たちに絡まれる日々。

(でも、私は変わるんだ。立派な女性になるんだから……!)
 
 けれど、私の覚悟はまたも不発に終わる。

「小夜子様、ごきげんよう」
「小夜子様、本日は一段とお美しくていらっしゃいますわ」

 私が教室に足を踏み入れた途端、今まで私を「日陰者」「愛人の子」と嘲笑い、遠巻きにしていた令嬢たちが、蜘蛛の子を散らしたように道を空け、そして一斉に媚びへつらうような声を上げたのだ。
 彼女たちは競うように私の周りに集まり、取り巻きのように付き従う。案内されたのは、教室で一番日当たりの良い、窓際の特別な席だった。

「あの、わ、私、いつもの後ろの席で構わないのですけれど……」
「とんでもございません! 月守のαのご令嬢であらせられる小夜子様には、このお席こそが相応しいのですわ」

 誰も私の言葉など聞いてはいない。ただαという特権を神輿に担ぎ上げ、その恩恵にあずかろうとしているだけだ。
 昼食の時間になっても、令嬢たちは私を囲んで離れない。構ってくれるのは嬉しいけれど、普段と違う環境に戸惑いっぱなしで落ち着く暇もない。
 どうにか授業を切り抜けて、放課後がきた。まとわりつく令嬢たちから逃れるように、私は一人で廊下を歩いていた。
 図書館で独逸語の本を借りよう。鷹島さんと、彼の母国語で話せたら素敵だな、なんてことを考えながら角を曲がった瞬間——私は、見覚えのある豪奢な着物姿の女性と鉢合わせてしまった。

「あ……」
「あなた……!」
 
 そこに立っていたのは、父の正妻である貴子様だった。

「それでは月守様。冨佐子様の休学手続きについては滞りなく……」
「ええ。よろしくお願いいたします」

 正妻と愛人の子の鉢合わせ。教師は青い顔をして、一刻も早く立ち去りたいと言わんばかりにそそくさといなくなってしまう。廊下には私と貴子様だけが取り残された。

(どうしよう……)

 ここは本邸ではない。父の目も、私を厚遇する使用人たちもいない。貴子様と直接対峙するのは初めてだが、冨佐子様のように暴力を振るわれるかもしれない。
 反射的に体がこわばるが、もう恐れないと決めたのだ。目は瞑らずに、必死に貴子様の瞳を見る。
 しかし、殴られる覚悟を決めた私の耳に聞こえてきたのは、予想だにしない穏やかな声だった。

「ごきげんよう、小夜子さん」
「はえ……」

 貴子様はまるで慈愛に満ちた母親のような、ふんわりとした笑みを浮かべていた。

「学校生活は楽しめているかしら? 冨佐子が静養に入ってしまって、少し寂しい思いをさせているかもしれないわね」
「あ……いえ、その……」
「そうそう、良いところでお会いしたわ。あなたの婚約者様のお父様が来日されているでしょう? 弟君もいらっしゃるのはご存じ?」
「鷹島さんに弟君!?」
「ふふ。知らなかったのね。あなたと歳も近いようだし、私も普魯西のことを聞いてみたくて。お茶会にご招待したの。あなたもお手伝いしてくださる?」

 貴子様の言葉は、どこまでも優しく、棘一つなかった。
 
「は、はい……是非」
「鷹島殿もお呼びしたかったけれど、彼の警備という名目でしか来れないと言われてしまって……それでもかまわないかしら?」
「た、鷹島さんが問題ないのであれば、私は、気にしませんが……」

 てっきりひどい嫌がらせを受けると思っていた私は、拍子抜けしてしまう。
 あたふたする私を見て、貴子様は穏やかな目でほほ笑んでいた。

「では週末に。ちゑ殿もお呼びしてますから、気負わずにね」

 正妻主催のお茶会に愛人親子の呼び出し……気負わないわけにはいかないが、貴子様の笑顔で押し切られてしまう。
 「それでは、私は先に帰ります」と言って去る貴子様をあっけに取られて見送る。何もかもが変わってしまった世界の中で、また新たな展開が待ち受けていそうだった。

 ——その時、私は気づいていなかった。
 優しく微笑む貴子様の、袖の陰に隠された手が、わななきながら硬く握りしめられていたことに。
 美しく整えられた爪が手のひらに深く食い込み、彼女自身の赤い血が、たらり、たらりと流れ落ちていることに。
 彼女のどす黒い憎悪は、消え去ったわけではない。ただ見えないところで、静かに、そして禍々しく煮詰まっているだけだということに、まだ気づくことができなかった。