「お嬢様ー! さみしいです!」
「どうかお健やかに。マルタはここに居ますから、ご縁があったらまたいらしてくださいませ」
「……また、お会いできますように」
ほんの数日だけを過ごした場所だけれど、離れるときは胸が締め付けられそうだった。
鷹島さんの用意してくれた車がエンジン音を立てて待ってくれている。
何も持たずに来た時とは違い、今は服やお化粧品、オットーさんの作ってくれたお菓子など、沢山のお土産を持たされている。この荷物は、お屋敷で過ごした思い出の重さだ。私には多すぎる荷物をぎゅっと抱きしめて、深くお辞儀をして皆と別れた。
「ちゑ殿ももう戻られているらしい」
森のような道を抜けて、車からの景色は街並みへと動いていく。鷹島さんはじっと前を見つめながら、静かに告げた。
「本当ですか!? 母の容体は……」
「抑制剤の副作用だ。強い貧血のようなもので、適切な治療をすれば何の問題もない。俺もΩだからわかる」
「……そう、なんですね。母が無事なら、安心できます」
母の様子を告げる鷹島さんの横顔はどこか遠い目をしている。おそらくはご自身の身にも起こったことがあるのだろう。Ωの苦しみ、それがどれほどのものなのかは、もう私にはわからない。
苦しみを分かち合えないことが、心に穴が空くほど寂しかった。
「もうすぐ着く。ちゑ殿に挨拶をしたいところだが……病み上がりで気を使わせるのもよくないな」
「そう言えば、母とはまだ会ってなかったですもんね」
「結納の際に改めて挨拶をしよう。伊津名少将も、ちゑ殿と話すのを楽しみにしている」
伊津名少将、あまり会いたい人ではないけれど……
鷹島さんの穏やかな表情を見るに、彼とっては血のつながった『アドラー男爵』よりも愛し敬う人なのだろう。
(鷹島さんは私を助けてくれた。私は鷹島さんを、助けられるのかな……)
そんな不安を抱えているうちに、車はついに家にたどり着いた。鷹島さんと熱く抱擁をした後、勇気を出してひとり門をくぐる。
(何を言われても、嫌なことはちゃんと嫌だって言おう。自分の意志を、ちゃんと伝えるところから……)
勇気を出すために、今日は明るい紅色の着物を着ている。いつもなら明るい色の服を着れば、冨佐子様に生意気と罵られ衣服を剝がされるが、今日はあえて着てきた。何を言われても、戦うつもりで。
ぎゅっと帯を握りしめ、玉砂利を踏みしめる。ここは鬼の巣窟。でも、私はもう、めそめそと泣いたりしない。
けれど、私の目に飛び込んできたのは、予想だにしない光景だった。
「お帰りなさいませ、小夜子お嬢様」
門を抜けた先で、使用人たちがずらりと一堂に並んでいたのだ。
いつもなら私とすれ違っても挨拶ひとつせず、完全に無視を決め込むか、聞こえよがしに舌打ちをするような者たちばかり。それが今、恭しく頭を下げて私を出迎えている。
てっきり、後ろに父がいるのかと思って振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「小夜子お嬢様。ようこそお帰りくださいました」
戸惑って立ち尽くす私に歩み寄ってきたのは、月守家の家令だった。私を決して公爵の娘としては扱わなかった彼が、どういうわけか今は「お嬢様」と敬ってくる。
彼が示す先には本邸の屋敷があり、私はどこへ行ったらいいのかわからず戸惑った。
「あの……離れは、あちらですが……」
「滅相もございません。小夜子様のお部屋は、本邸にご用意しております。お母上もすでにお待ちでございますよ」
私が庭の隅へ続く土の道を指差すと、家令は大げさに首を振って、本邸の奥へと私を促した。
磨き上げられた板張りの廊下。どこか冷たくも清々しい、上質ない草の匂い。足を踏み出すたびに鳴る鴬張りの音が、静かな屋敷の中に吸い込まれていく。
今まで、呼び出されなければ足を踏み入れることを許されなかった本邸の奥へ、私は家令の先導で歩いていく。すれ違う者たちは皆、壁際で深く頭を下げた。
(なにが、起きているの……?)
案内されたのは、美しく手入れされた中庭を見渡せる、広大な座敷だった。
見事な掛け軸が飾られた床の間に、螺鈿細工が施された座卓。玉露のお茶の匂いと、上品なお香の匂いが混じる空間で、着物姿の母が居心地悪げに座って待っていた。
「お母様、具合はいかがですか!?」
「それよりも前に言うことがあるでしょう。勝手に家を抜け出したかと思えば、結納前の婚約者の元に外泊? あなたいったい、何を考えて——」
「そ、そんなことよりも!」
環境はがらりと変わっているのに、母は何一つ変わっていない。神経質そうに眉をひそめて、まずは私の無断外出のお説教だ。慌てて話題を逸らすと、私が言葉を返すと思っていなかったのか、母は驚いたように目を丸くして黙ってしまった。
「あの、いったい何があったんですか……?」
「私からご説明させていただきます」
私が尋ねると、母の代わりに家令が返事をする。
「旦那様より、小夜子様とちゑ様をこのお部屋へご案内し、丁重におもてなしするよう厳命を受けております」
「私たちを……?」
「はい。我が月守家の血を引くαには、それに相応しい対遇をせよ、とのことです」
「で、でも、それじゃあ奥様や冨佐子様が嫌がるのでは……」
「冨佐子様は田舎で静養されております。それに、旦那様より『格付けは済んだ』と——」
それは、私が冨佐子様をαの圧で失神させたことを言っているのだろうか。
これまで徹底して自分の子供としては扱わなかったくせに、αに目覚めた途端に掌返し。怒る気もなくなるほどの身勝手さに、体から力が抜ける。
「それでは、私共は外で控えております」
「あ、そんなつきっきりでなくても……いいですよ……」
「そういうわけにはまいりません」
静かにふすまが閉められ、私と母は広すぎる座敷に取り残された。
しんと静まり返った部屋の中で、私はゆっくりと艶やかな柱や、手触りの良い真新しい畳にそっと触れた。
つい先日まで、私たちは庭の隅のあばら家で、這いつくばるようにして生きてきた。それが今や、本体の奥座敷で使用人を控えさせているのである。
「なんだか、変なことになってしまいましたね……」
「『αひとりで家が興せる、Ωひとりで家が潰れる』、第二の性というのは、そういうものよ」
母の言う通りだった。
αという存在はこの国において特権的で、抗いがたい力を持っているのだ。
これから私を待ち受けているのは、冷遇された愛人の娘ではなく、紛れもない『公爵令嬢』として扱われる生活だった。
「どうかお健やかに。マルタはここに居ますから、ご縁があったらまたいらしてくださいませ」
「……また、お会いできますように」
ほんの数日だけを過ごした場所だけれど、離れるときは胸が締め付けられそうだった。
鷹島さんの用意してくれた車がエンジン音を立てて待ってくれている。
何も持たずに来た時とは違い、今は服やお化粧品、オットーさんの作ってくれたお菓子など、沢山のお土産を持たされている。この荷物は、お屋敷で過ごした思い出の重さだ。私には多すぎる荷物をぎゅっと抱きしめて、深くお辞儀をして皆と別れた。
「ちゑ殿ももう戻られているらしい」
森のような道を抜けて、車からの景色は街並みへと動いていく。鷹島さんはじっと前を見つめながら、静かに告げた。
「本当ですか!? 母の容体は……」
「抑制剤の副作用だ。強い貧血のようなもので、適切な治療をすれば何の問題もない。俺もΩだからわかる」
「……そう、なんですね。母が無事なら、安心できます」
母の様子を告げる鷹島さんの横顔はどこか遠い目をしている。おそらくはご自身の身にも起こったことがあるのだろう。Ωの苦しみ、それがどれほどのものなのかは、もう私にはわからない。
苦しみを分かち合えないことが、心に穴が空くほど寂しかった。
「もうすぐ着く。ちゑ殿に挨拶をしたいところだが……病み上がりで気を使わせるのもよくないな」
「そう言えば、母とはまだ会ってなかったですもんね」
「結納の際に改めて挨拶をしよう。伊津名少将も、ちゑ殿と話すのを楽しみにしている」
伊津名少将、あまり会いたい人ではないけれど……
鷹島さんの穏やかな表情を見るに、彼とっては血のつながった『アドラー男爵』よりも愛し敬う人なのだろう。
(鷹島さんは私を助けてくれた。私は鷹島さんを、助けられるのかな……)
そんな不安を抱えているうちに、車はついに家にたどり着いた。鷹島さんと熱く抱擁をした後、勇気を出してひとり門をくぐる。
(何を言われても、嫌なことはちゃんと嫌だって言おう。自分の意志を、ちゃんと伝えるところから……)
勇気を出すために、今日は明るい紅色の着物を着ている。いつもなら明るい色の服を着れば、冨佐子様に生意気と罵られ衣服を剝がされるが、今日はあえて着てきた。何を言われても、戦うつもりで。
ぎゅっと帯を握りしめ、玉砂利を踏みしめる。ここは鬼の巣窟。でも、私はもう、めそめそと泣いたりしない。
けれど、私の目に飛び込んできたのは、予想だにしない光景だった。
「お帰りなさいませ、小夜子お嬢様」
門を抜けた先で、使用人たちがずらりと一堂に並んでいたのだ。
いつもなら私とすれ違っても挨拶ひとつせず、完全に無視を決め込むか、聞こえよがしに舌打ちをするような者たちばかり。それが今、恭しく頭を下げて私を出迎えている。
てっきり、後ろに父がいるのかと思って振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「小夜子お嬢様。ようこそお帰りくださいました」
戸惑って立ち尽くす私に歩み寄ってきたのは、月守家の家令だった。私を決して公爵の娘としては扱わなかった彼が、どういうわけか今は「お嬢様」と敬ってくる。
彼が示す先には本邸の屋敷があり、私はどこへ行ったらいいのかわからず戸惑った。
「あの……離れは、あちらですが……」
「滅相もございません。小夜子様のお部屋は、本邸にご用意しております。お母上もすでにお待ちでございますよ」
私が庭の隅へ続く土の道を指差すと、家令は大げさに首を振って、本邸の奥へと私を促した。
磨き上げられた板張りの廊下。どこか冷たくも清々しい、上質ない草の匂い。足を踏み出すたびに鳴る鴬張りの音が、静かな屋敷の中に吸い込まれていく。
今まで、呼び出されなければ足を踏み入れることを許されなかった本邸の奥へ、私は家令の先導で歩いていく。すれ違う者たちは皆、壁際で深く頭を下げた。
(なにが、起きているの……?)
案内されたのは、美しく手入れされた中庭を見渡せる、広大な座敷だった。
見事な掛け軸が飾られた床の間に、螺鈿細工が施された座卓。玉露のお茶の匂いと、上品なお香の匂いが混じる空間で、着物姿の母が居心地悪げに座って待っていた。
「お母様、具合はいかがですか!?」
「それよりも前に言うことがあるでしょう。勝手に家を抜け出したかと思えば、結納前の婚約者の元に外泊? あなたいったい、何を考えて——」
「そ、そんなことよりも!」
環境はがらりと変わっているのに、母は何一つ変わっていない。神経質そうに眉をひそめて、まずは私の無断外出のお説教だ。慌てて話題を逸らすと、私が言葉を返すと思っていなかったのか、母は驚いたように目を丸くして黙ってしまった。
「あの、いったい何があったんですか……?」
「私からご説明させていただきます」
私が尋ねると、母の代わりに家令が返事をする。
「旦那様より、小夜子様とちゑ様をこのお部屋へご案内し、丁重におもてなしするよう厳命を受けております」
「私たちを……?」
「はい。我が月守家の血を引くαには、それに相応しい対遇をせよ、とのことです」
「で、でも、それじゃあ奥様や冨佐子様が嫌がるのでは……」
「冨佐子様は田舎で静養されております。それに、旦那様より『格付けは済んだ』と——」
それは、私が冨佐子様をαの圧で失神させたことを言っているのだろうか。
これまで徹底して自分の子供としては扱わなかったくせに、αに目覚めた途端に掌返し。怒る気もなくなるほどの身勝手さに、体から力が抜ける。
「それでは、私共は外で控えております」
「あ、そんなつきっきりでなくても……いいですよ……」
「そういうわけにはまいりません」
静かにふすまが閉められ、私と母は広すぎる座敷に取り残された。
しんと静まり返った部屋の中で、私はゆっくりと艶やかな柱や、手触りの良い真新しい畳にそっと触れた。
つい先日まで、私たちは庭の隅のあばら家で、這いつくばるようにして生きてきた。それが今や、本体の奥座敷で使用人を控えさせているのである。
「なんだか、変なことになってしまいましたね……」
「『αひとりで家が興せる、Ωひとりで家が潰れる』、第二の性というのは、そういうものよ」
母の言う通りだった。
αという存在はこの国において特権的で、抗いがたい力を持っているのだ。
これから私を待ち受けているのは、冷遇された愛人の娘ではなく、紛れもない『公爵令嬢』として扱われる生活だった。



