虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 参謀本部、第二部長室。
 分厚い絨毯が敷かれた室内には、葉巻の煙と匂いが染み付いていた。
 謀略渦巻く軍の頭脳、その一角。この部屋の淀んだ空気の中では、恋の甘い香りなど容易に掻き消されてしまう。

「——以上が、アドラー男爵来日と、それに伴う警護配置案であります」

 俺は分厚い書類を机に置き、直立不動で敬礼をした。
 執務机の奥深くに身を沈めている伊津名少将は、手元にあるチェスの駒——漆黒のクイーンを指先で弄びながら、ふむ、と鷹揚に頷いた。

「ご苦労。隙のない見事な配置だ。戦勝祝賀会もあるが……当日お前は息子としてアドラー男爵の側にいてほしい。警備責任は他のものに任せるが、いいね?」
「問題ございません」

 深く頭を下げると、伊津名少将の硝子玉のような視線が、ふと柔らかく細められた。

「時に、鷹島大尉。君の婚約者の具合はどうかな?」
「穏やかに過ごしております。怪我も順調に回復に向かっております」
「そうか、それは良かった。彼女は辛い思いをしただろうからね」

 伊津名少将の労いの言葉に、俺は奥歯を噛み締めながら、もう一度深く頭を下げた。
 ——感謝してもしきれない。
 Ωである俺が軍にいられるのも、月守小夜子をあの地獄のような家から救い出し、誰も手出しできない場所に匿うことができているのも、すべては伊津名少将の強大な力と庇護のおかげなのだ。
 この人がいなければ、俺の立場では月守小夜子と出会うこともできなかっただろう。

「小夜子嬢とは仲良くしているかい?」
「はい。とても素直で純情な女性で、特に問題は起きていない認識です」
「そうか。はは、お前がそこまで言うとは、よほどうまくいったのだろう」

 伊津名少将の言葉に耳が赤くなるのを感じる。そこまで口を滑らせたつもりはないが、浮かれた気分が出てしまったのだろうか。
 伊津名少将は微笑み、弄んでいた漆黒のクイーンを、コトリと盤上の中央に置いた。

「彼女との婚約についてアドラー男爵と話す必要もあるだろう。お前には『息子』としての責任もしっかりと果たしてほしいんだ」
「……はい」
「警備の責任者を呼んである。戦勝祝賀会には月守公爵も出席されるので、小夜子嬢を巡る諍いも起こる可能性がある。お前とふたり、協力して遂行するように」

 伊津名少将がそう告げると、軽く指を鳴らす。
 その音を合図に重い扉が開かれた。

「失礼します、閣下」
「入りなさい」
 
 軍靴の音を響かせ、自信に満ち溢れた足取りで入ってきたその男を見ると、意思とは関係なく眉間にしわが寄る。
 よく日に焼けた肌に、赤褐色の髪。肩に輝く階級章は『少佐』の星が燦然と輝いている。

「……獅子王、ですか」
「獅子王少佐だ、鷹島大尉」
「日露戦争の勲功で少佐に昇格したのは知っているだろう。とはいえお前たちは兄弟も同然。仲良くするんだよ」

 伊津名少将が、楽しげに目を細めて紹介する。
 獅子王司——昔から何かと突っかかってきては競い合わされた苦手な男だ。その上見合いの席で月守小夜子に無体を働こうとした男でもある。あまり好ましい男ではない。
 だが、それはお互い様だろう。獅子王自体も不満そうに眉をひそめ、俺を見下ろすように鼻でふん、と嘲笑う音を立てた。

「あの子狸がαだったとはな。まったくそんな片鱗は見せなかったが……それならば、薄汚いΩのお前にはお似合いだろう」
「第二の性は関係ない。お前が月守小夜子との縁談から外されたのは、女性の扱いが最低だったからだ」
「外されたのではない! あんな子狸、俺の方から捨ててやったんだ!」
「『捨てる』、以前にお前の所有物だった事実はない」

 こいつといるといつもこうなる。大切な伊津名少将の前で子供の喧嘩じみた真似など見せたくないのに。
 
「ほらほら。そこまでにしなさい、ふたりとも」

 伊津名少将も困ったように笑っている。その姿は子供の喧嘩を見守る父の様だった。

(俺に父がいるとすれば、それはあなただ)

 恐れ多くてとても口には出せないが、俺の心は常に彼の元にあった。
 獅子王が吐き捨てた「薄汚いΩ」という言葉が、遠い日の泥の匂いと共に、俺の脳裏に古い記憶を呼び起こす。

 ——陸軍士官学校時代。
 士官学校にΩとして放り込まれた俺の毎日は、陰惨な暴力と屈辱の連続だった。
 血気盛んな少年たちは、群れの秩序を保つための『生餌』として俺を重宝した。練兵場の裏で、数人の生徒に囲まれ、軍靴で幾度となく泥の中に踏みにじられた。

『お前のような劣等種が、なぜ我々と同じ空気を吸っている』
『その甘ったるい匂いを消せ、吐き気がする』

 腹を蹴られ、顔を踏みつけられ、口の中が自らの血の味で満たされる。
 だが、俺は決して悲鳴を上げなかった。歯を食いしばり、どれほど骨が軋もうとも、無機質な人形のように彼らを睨み返し続けた。
 泣いて許しを乞えば、彼らの支配欲を満たすだけだ。感情を殺し、ただひたすらに痛みに耐える。そして自らの身体から流れる血と泥の悪臭で、忌まわしいΩの匂いを上書きする。それが、俺がこの狂った群れの中で見つけた、唯一の生き残る術だった。

『おはんら、何ばしちょっとか!?  男として恥ずかしくなかっか!?』
 
 凄惨な暴行は、いつも獅子王の怒鳴り声で止んだ。奴は誇りが高すぎて、群れで行動することを好まない。誰よりもΩを軽蔑しているのに、皮肉にもその矜持が俺を助けてくれた。

『よく耐えたね、シヅヲ。一言も声を上げないなんて、本当に強い子だ』 
 
 肋骨を折られ、泥だらけで立ち上がれなくなった俺の前に、一つの傘が差し出される。
 俺の心を救ってくれるのは、いつだって伊津名少将だった。
 彼は血と泥に塗れた俺の頭を、汚れることも厭わずに優しく撫でてくれた。
 生みの父にすら「汚点」として捨てられた俺を、初めて肯定し、人間としての存在価値を与えてくれる。たとえこの状況が彼が生み出した地獄だとしても、俺は構わなかった。

「仲良くできるかい? ふたりとも」
「……善処します」
「ご命令とあらば! この獅子王はいかな屈辱にも耐えて見せます!」

 その言葉を聞いて、伊津名少将は深く満足げに微笑んだ。
 カチリ、と。
 彼の手によって、漆黒のクイーンが盤上の中央へと進められる。そのすぐ目の前には、白のキングと、それを囲むおびただしい数の敵駒が配置されていた。
 伊津名少将の硝子玉のような瞳の奥で、微かに、ひどく冷たく昏い光が揺れたような気がしたが——葉巻の煙に巻かれ、それはすぐに俺の視界から消え去った。