窓の外から聞こえる微かな小鳥の囀りで、俺は静かに意識を浮上させた。
薄暗い客室。シーツの擦れる微かな音と共に、腕の中にすっぽりと収まる小さな温もりが、規則正しい寝息を立てている。
真っ白な絹のネグリジェに包まれた月守小夜子が、俺の胸にすり寄るようにして眠っていた。
(……可愛い)
ヒートによる発情のまま、夜這いをかけてみたつもりが……結局は何もせず、ただ互いの熱と匂いを確かめ合うように抱きしめ合ったまま、朝を迎えた。
無防備にまどろむ彼女の、短く切り揃えられた黒髪をそっと撫でる。
小さく、折れてしまいそうな身体。しかし、俺を支配するαでもある。
——初めて会った日のことを、俺は今でも鮮明に覚えている。
北海道の将校クラブで行われていた見合いの席。獅子王に無遠慮に値踏みされ、怯えた小動物のように震えていた。
獅子王が無体を働こうとしたので仲介に入ったとき、初めて彼女の瞳を見た。
射干玉の夜のような瞳に、陽光を浴びた涙が反射してきらきらと煌めいていた。世界がまるで彼女の色に変わっていくような、鮮烈な印象。
一目見た瞬間から、俺の魂はあの瞳に縫い付けられていた。
獅子王と揉めた際についた傷をぬぐってくれた手巾。清潔な石鹸の匂いの中に、花の香りがした。この匂いに包まれたい。同僚の見合い相手という、道ならぬ恋。早々に諦めなければならないのに、泣きそうな顔をした彼女を抱きしめたくて仕方がなかった。
その夏のうちに俺は戦場へと赴くことになった。命を賭した戦いだが、どこか安堵している自分がいた。
(彼女以外をこの腕に抱く日が来てしまうくらいなら、清らかな想いのまま消えていきたい——)
空を埋め尽くす榴弾砲の耳をつんざく轟音と、吹き飛ぶ泥土。俺はその凄惨な泥濘の中で、己がΩであるという忌まわしい事実を隠し通しながら戦わねばならなかった。
敵兵の返り血を頭から被り、むせ返るような鉄の匂いと硝煙の悪臭で、自らの発情の甘い匂いを上書きする。白兵戦の最中に不意に訪れる熱の疼きを消し飛ばすため、敵を殺す。時には誰よりも前に出て戦った。
人間としての感情を完全に殺し、ただ人形のように銃を持つ。
狂わなければ、あの戦場で生き残る術などなかった。
けれど、死線の淵で意識が遠のきそうになるたび、激しい熱が俺を襲う度、凄惨な闇の中で俺を引き戻したのは、あの澄んだ黒い瞳だった。あなたが差し出してくれた白い手巾だけが、血みどろの暗闇を歩き続ける俺にとっての唯一の道標だった。
右目を失い、返り血で全身を赤黒く染めて敵陣を蹂躙する俺は『金色の鷹』と呼ばれ、いつしか軍神として称えられた。
そして、天は俺に光をくれた。
忘れようとしていた彼女との縁談の話が来た時、戦場で闇に染まった世界が色づいたようだった。
『よく来られた、伊津名少将。鷹島大尉』
白金の一等地に位置する豪著な屋敷。金の屏風が飾られた、この国の支配者の巣。その中で、彼女は小さく震えていた。
(……なんだ、あの姿は)
彼女は、本邸の使用人すら着ないような古いボロ着物を纏い、水を被ったかのように濡れていた。
愛人の娘とは聞いていたが、冷遇されているなんてものではない。これではまるで公開処刑だ。公爵も、なぜか同席していたもう一人の娘もそのことに疑問を抱いていないようで、それが余計に不気味だった。
彼女がなぜここまで虐げられているのか、理由は大方察せられた。愛人である母親がΩだからだ。
血の繋がりから、彼女自身もΩであると信じて疑っていないのだろう。
(それでも、構わない……)
男のΩである俺が、Ωの娘を娶る。
それは、この国の根幹を成す家父長制と第二の性のヒエラルキーに対する、完全な反逆だ。優秀なαの血を残すための道具として扱われるΩ同士の婚姻など、世間が許すはずもない。軍神という今の地位すら危うくなるだろうし、何より、俺がひた隠しにしてきたΩという秘密が暴かれる危険すらある。
(彼女をこの薄汚い家から助け出す)
迷いなど、最初から一欠片もなかった。
俺は一言も発することなく立ち上がると、一直線に部屋の一番隅へと向かった。
「……え?」
近づく足音に驚き、彼女が顔を上げる。
俺はその目の前で、一切の躊躇なく片膝をついた。
そして、彼女の小さな手を、祈るようにそっと包み込んだのだった。
彼女がΩなら、それでいい。他の身勝手なαどもに見下され、蹂躙されるくらいなら、いっそ俺がそのすべてを奪い、守り抜く。
「あなたに会いたかった」
◇ ◇ ◇
——結局、俺の予想はまったくの大外れだった。
彼女はα性に目覚め、突如俺の項に印をつける、小さなけだものだったのだ。
(……俺としたことが、なすすべもなく印をつけられるとは)
俺を支配する、小さな番。
彼女の寝顔を見つめながら、俺は愛おしさに耐えきれず、その白い額にそっと唇を落とした。
微かに身じろぎした小夜子は、安心したように俺の温もりへ擦り寄ってくる。今すぐ激しく抱きしめ、跡を残したい。男としての激情が揺れ動かされるが、安心しきって身をゆだねてくる彼女の寝顔を見てどうにか耐える。
「朝か……」
ベッドを抜け出し、隣の着替え室へと移る。
糊の効いた軍服に袖を通し、第一ボタンまで隙なく留める。
腰に軍刀を佩き、鏡の前で軍帽を被った瞬間。俺の若草色の瞳から甘い熱は完全に消え去り、冷徹な『軍人』としての仮面が完成した。
「行ってくる、月守小夜子」
扉越しに愛しい名前を口の中で転がし、俺は静かに部屋を後にした。
薄暗い客室。シーツの擦れる微かな音と共に、腕の中にすっぽりと収まる小さな温もりが、規則正しい寝息を立てている。
真っ白な絹のネグリジェに包まれた月守小夜子が、俺の胸にすり寄るようにして眠っていた。
(……可愛い)
ヒートによる発情のまま、夜這いをかけてみたつもりが……結局は何もせず、ただ互いの熱と匂いを確かめ合うように抱きしめ合ったまま、朝を迎えた。
無防備にまどろむ彼女の、短く切り揃えられた黒髪をそっと撫でる。
小さく、折れてしまいそうな身体。しかし、俺を支配するαでもある。
——初めて会った日のことを、俺は今でも鮮明に覚えている。
北海道の将校クラブで行われていた見合いの席。獅子王に無遠慮に値踏みされ、怯えた小動物のように震えていた。
獅子王が無体を働こうとしたので仲介に入ったとき、初めて彼女の瞳を見た。
射干玉の夜のような瞳に、陽光を浴びた涙が反射してきらきらと煌めいていた。世界がまるで彼女の色に変わっていくような、鮮烈な印象。
一目見た瞬間から、俺の魂はあの瞳に縫い付けられていた。
獅子王と揉めた際についた傷をぬぐってくれた手巾。清潔な石鹸の匂いの中に、花の香りがした。この匂いに包まれたい。同僚の見合い相手という、道ならぬ恋。早々に諦めなければならないのに、泣きそうな顔をした彼女を抱きしめたくて仕方がなかった。
その夏のうちに俺は戦場へと赴くことになった。命を賭した戦いだが、どこか安堵している自分がいた。
(彼女以外をこの腕に抱く日が来てしまうくらいなら、清らかな想いのまま消えていきたい——)
空を埋め尽くす榴弾砲の耳をつんざく轟音と、吹き飛ぶ泥土。俺はその凄惨な泥濘の中で、己がΩであるという忌まわしい事実を隠し通しながら戦わねばならなかった。
敵兵の返り血を頭から被り、むせ返るような鉄の匂いと硝煙の悪臭で、自らの発情の甘い匂いを上書きする。白兵戦の最中に不意に訪れる熱の疼きを消し飛ばすため、敵を殺す。時には誰よりも前に出て戦った。
人間としての感情を完全に殺し、ただ人形のように銃を持つ。
狂わなければ、あの戦場で生き残る術などなかった。
けれど、死線の淵で意識が遠のきそうになるたび、激しい熱が俺を襲う度、凄惨な闇の中で俺を引き戻したのは、あの澄んだ黒い瞳だった。あなたが差し出してくれた白い手巾だけが、血みどろの暗闇を歩き続ける俺にとっての唯一の道標だった。
右目を失い、返り血で全身を赤黒く染めて敵陣を蹂躙する俺は『金色の鷹』と呼ばれ、いつしか軍神として称えられた。
そして、天は俺に光をくれた。
忘れようとしていた彼女との縁談の話が来た時、戦場で闇に染まった世界が色づいたようだった。
『よく来られた、伊津名少将。鷹島大尉』
白金の一等地に位置する豪著な屋敷。金の屏風が飾られた、この国の支配者の巣。その中で、彼女は小さく震えていた。
(……なんだ、あの姿は)
彼女は、本邸の使用人すら着ないような古いボロ着物を纏い、水を被ったかのように濡れていた。
愛人の娘とは聞いていたが、冷遇されているなんてものではない。これではまるで公開処刑だ。公爵も、なぜか同席していたもう一人の娘もそのことに疑問を抱いていないようで、それが余計に不気味だった。
彼女がなぜここまで虐げられているのか、理由は大方察せられた。愛人である母親がΩだからだ。
血の繋がりから、彼女自身もΩであると信じて疑っていないのだろう。
(それでも、構わない……)
男のΩである俺が、Ωの娘を娶る。
それは、この国の根幹を成す家父長制と第二の性のヒエラルキーに対する、完全な反逆だ。優秀なαの血を残すための道具として扱われるΩ同士の婚姻など、世間が許すはずもない。軍神という今の地位すら危うくなるだろうし、何より、俺がひた隠しにしてきたΩという秘密が暴かれる危険すらある。
(彼女をこの薄汚い家から助け出す)
迷いなど、最初から一欠片もなかった。
俺は一言も発することなく立ち上がると、一直線に部屋の一番隅へと向かった。
「……え?」
近づく足音に驚き、彼女が顔を上げる。
俺はその目の前で、一切の躊躇なく片膝をついた。
そして、彼女の小さな手を、祈るようにそっと包み込んだのだった。
彼女がΩなら、それでいい。他の身勝手なαどもに見下され、蹂躙されるくらいなら、いっそ俺がそのすべてを奪い、守り抜く。
「あなたに会いたかった」
◇ ◇ ◇
——結局、俺の予想はまったくの大外れだった。
彼女はα性に目覚め、突如俺の項に印をつける、小さなけだものだったのだ。
(……俺としたことが、なすすべもなく印をつけられるとは)
俺を支配する、小さな番。
彼女の寝顔を見つめながら、俺は愛おしさに耐えきれず、その白い額にそっと唇を落とした。
微かに身じろぎした小夜子は、安心したように俺の温もりへ擦り寄ってくる。今すぐ激しく抱きしめ、跡を残したい。男としての激情が揺れ動かされるが、安心しきって身をゆだねてくる彼女の寝顔を見てどうにか耐える。
「朝か……」
ベッドを抜け出し、隣の着替え室へと移る。
糊の効いた軍服に袖を通し、第一ボタンまで隙なく留める。
腰に軍刀を佩き、鏡の前で軍帽を被った瞬間。俺の若草色の瞳から甘い熱は完全に消え去り、冷徹な『軍人』としての仮面が完成した。
「行ってくる、月守小夜子」
扉越しに愛しい名前を口の中で転がし、俺は静かに部屋を後にした。


