虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 蓄音機の音楽に身を任せた夢のような午後の時間はあっという間に過ぎ去り、穏やかな夕食を終えた後。私は二階の一番奥にある、広い客室を与えられた。
 天蓋のついた大きなベッドに、ふかふかの羽毛布団が敷かれている。クララさんが用意してくれた真っ白なネグリジェは、肌触りの良い極上の絹でできていた。
 血だらけになってしまった、鷹島さんから贈られた白いワンピースはクララさんが洗濯をしてくれるらしい。どんな服も素敵だけど、私にとって一番思い入れのある服。早くまた袖を通したいなと考えて、羽毛布団に包まる。
 
(こんなに幸せでいいのかな。本当に、お姫様になったみたい)

 ふんわりと沈み込むマットレスに身を横たえ、今日一日の信じられないような出来事を反芻していると――不意に、こつん、と控えめなノックの音が響いた。

「……起きているか?」

 鷹島さんだ。こんな夜にどうしたのだろう。
 私が起き上がる前に、静かに扉が開かれる。
 そこには、昼間よりもさらに白いシャツの胸元のボタンを開け、少しだけ荒い息をつく鷹島さんが立っていた。
 部屋に入ってきた瞬間、むせ返るような甘い匂いが室内に満ちる。それは熟れた果実と、夜に咲く花を混ぜ合わせたような、彼が発する強烈なΩのフェロモンだった。

「月守小夜子――」

 これはまずい。甘い芳香を嗅いだだけで歯が痒くなる。首筋にかぶりつきたい衝動をぐっとこらえるのが精いっぱいだ。
 起き上がろうとした私の肩を、大きな手がそっと押し留めた。昼間、私を優しくエスコートしてくれた彼の手は、今はひどく熱を持っていた。
 鷹島さんはそのまま横たわる私に覆いかぶさる。彼の重みでマットレスが軋み、ふたりの距離がぐっと縮まった。
 普段の氷のように冷たく理知的な面影はどこにもない。私を見つめる碧玉の瞳は、熱に浮かされたようにとろんと潤んでいた。

「……あなたの匂いが、濃い」
「ひゃっ……」
「同じ屋根の下にあなたがいると思うだけで、どうにかなってしまいそうだ」

 熱を帯びた指先が私の頬を撫で、そのまま首筋へと滑り落ちる。
 彼自身の首元からは、昼間はチョーカーで隠されていた赤黒い『番の印』が、生々しく色を濃くして浮かび上がっていた。私が噛み付いてつけた、あの小さな歯型だ。
 鷹島さんはうっとりとした表情で、すりすりと私の肩口に顔を擦り寄せてくる。彼の金の髪が私の首元をくすぐり、熱く甘い吐息が耳元にかかった。

「俺たちはもう、番になったのだろう……?」

 甘く、切なく、縋るようなその囁き。
 それを聞いた瞬間。私の内側で眠っていたαの獣が、どくんどくんと激しく脈打った。

(あぁ……もう、食べちゃいたい……!)

 視界カッと赤く染まる。
 目の前で無防備に熱を放ち、私を求めて震えるこの美しいオメガの服を剥ぎ取りたい。もう二度と私から離れられないように、その白い肌の隅々にまで私の匂いと牙を深く刻み込み、完全に支配してしまいたい。
 本能が、私に彼を『喰らえ』と強烈に命じていた。
 指先が震える。気付けば私の両手は、彼の広い肩に触れ、彼を受け止めようとしていた。
 ひんやりと冷たい鷹島さんの体温は、燃えるような私の体に心地よい。舌の上のアイスクリンのように、とろりと溶かしてしまいそうだった。

 欲しい、この人が欲しい。
 すべて食らいつくして、自分の巣に閉じ込めてしまいたい。私だけを見て、私無しでは生きられなくなって欲しい。

『あなたには、私のようになってほしくないの』

 熱に溶かされそうになったその時、母の声が蘇る。
 決して幸せとは言えない、母の形見の狭い生活。αとΩの運命に翻弄されて、愛の代わりに自由を失った母。そして、彼女をそうした原因である父の血を、私も引いている。

(そんな風には、なりたくない……!)

 私はぎゅっと目をつぶって滾る血を抑える。鷹島さんの温かい息が首筋にかかる度ぐらつきそうになるが、それでも必死に自分を抑え込んだ。

「駄目です、鷹島さん」
「……月守小夜子?」

 荒れ狂う呼吸を必死に整えながら、私は震える声で彼に告げた。

「私、あなたに相応しい人間になりたい。私が私自身を誇れるようになるまで、本能に任せてあなたを傷つけるようなことは……もう、したくないんです……」

 私の言葉を聞いた鷹島さんは、ゆっくりと顔を上げる。
 拒絶された悲しみではない。驚きと、そして……何か途方もなく尊いものを見たような、深い感動の色がその瞳に浮かんでいた。
 やがて彼は、泣きそうな、それでいて愛おしそうな顔で、ふわりと微笑んだ。

「それでは、いつまでもお預けじゃないか」
「が、がんばります! なるべく早く立派になりますので!」
「俺はあまり我慢できないぞ」

 鷹島さんは私の背中に腕を回し、壊れ物を扱うように、そっと、けれど力強く私を抱きしめてくれた。彼の大きな胸板から、早鐘を打つ心臓の音が伝わってくる。

「早くしないと、男としての俺があなたを襲ってしまう」
「ひゃあっ!? そ、それも、覚悟ができるまでお待ちください……!」
 
 鷹島さんは短くなった私の髪を、幼子をあやすように優しく撫でてくれる。
 喉の奥で、甘える獣のように低く喉が鳴るのがわかった。私の中のけだものが、赤子の様に甘えている。
 鷹島さんは私の首筋に顔を埋め、決して肌を傷つけないように、何度も何度も、愛を確認するような熱い口付けを落とし続けた。
 強烈な本能の疼きを抱えながら、それでも互いを思いやる理性が勝つ。
 少しだけ危険で、どうしようもなく甘い夜が、静かに更けていった。