虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 重厚な扉が開かれた先、広いエントランスには三人の男女が並んで頭を下げていた。
 ふくよかな初老の女性と、若い女性、どちらも洋装のお仕着せを着ている。そして厨房の料理人らしき恰幅の良い男性。全員が彫りの深い顔立ちをした異国の人間だ。
 
「彼らは日本政府に雇われ、この洋館を管理している屋敷付きの使用人たち。ここは独逸の軍事顧問の屋敷だからな、全員独逸人だ」
「Guten Morgen, Fräulein」
「あ、ぐ……ぐーてん、もるげん……」
 
 若い女中が綺麗な所作で挨拶をする。聞き慣れない異国の言葉の意味が理解できず、戸惑いながらも鸚鵡返しで挨拶をしてみた。
 言葉が拙すぎたのか、女中はくすりくすりと悪戯っぽく笑っている。

「クララ、意地悪をしてはいけないわ。申し訳ありません、お嬢様。我々は日本語が話せますので」
「ふふ。お嬢様ったらお人形のように固まっているものだから、可愛らしくて」
「私は女中のマルタ、この子は娘で見習いのクララと申します。こちらの彼は料理人のオットー」
「……どうも」
「お嬢様のように愛らしい人のお世話ができて、光栄ですわ」
 
 マルタさんは人当たりのいい笑顔の優しそうな女性だった。オットーさんは無口で無骨な雰囲気だが、不思議と怖さはない。
 実家では使用人たちにこんなに話しかけられることはなかった。皆、敷地内に住み着いている愛人親子を持て余し、時には奥様や冨佐子様の命令で虐げてきた。
 会えて嬉しい、そんな社交辞令が心に沁みた。
 
「……自分は昼食を作ってきます」
「お嬢様はお手当と入浴、そして髪を整えないとですね! クララにお任せください!」

 オットーさんはそういうと、厨房の方へと去っていく。それを見てクララさんが弾かれたように身を乗り出し、私の背を押して浴室へと誘う。

「あの、鷹島さんは——」

 鷹島さんはどうするのだろう。気がかりで後ろを振り返ると、鷹島さんはマルタさんと何か話しているようだった。 
 
『――コンラート坊ちゃま。おかえりなさいませ』

 私にはその言葉の意味はわからなかった。けれど、その声に滲む深い愛情と、祈るような懐かしさだけは痛いほどに伝わってきた。
 鷹島さんは少しだけ影のある、ひどく複雑な顔をして、それでも静かに一礼を返した。
 何の話をしているのだろう、と不思議に思っている間に、クララさんに背を押されて私はその場を離れた。

 ◇ ◇ ◇

 案内された浴室は、これまで私が知っていた「お風呂」とは全くの別世界だった。
 床には精緻な模様が描かれたタイルが敷き詰められ、部屋の中央には、猫足が支える真っ白な磁器のバスタブが鎮座している。
 クララさんはまず冨佐子様に傷つけられた左腕を優しく確認していく。

「——あら、もうほとんど塞がってる。痛みはありますか?」
「少しだけ痛みますが、我慢できる程度です」
「これなら跡は残らなそう。お若いと回復力も凄いですね!」

 私は貧弱で、怪我の治りも早い方では無かった気がするが……α性に目覚めたからだろうか。
 怪我の程度が酷くないとわかると、クララさんはくるりと振り返ってバスタブにお湯を張る。彫金が施された真鍮の蛇口から、熱いお湯がなみなみと注がれる。
 温かいお湯が、私の左手にこびりついていた血と泥、そして昨夜の恐怖と冷え切った心を、すべて優しく洗い流していってくれた。

「せっかくうちに来てくれたんですから、独逸式でおもてなししますね!」

 クララさんはそう言うと、バスタブにカミツレとハーブを入れていく。湯気とともに優しい香りが浴室中に広がっていく。

「クナイプ神父という人が、お湯とハーブによる自然療法を提唱したのです。詳しくはわからないですけど、あったかいお湯でいい匂いに包まれたら、元気出ると思いません?」
「ふふ、そうですね。体が芯から温まるようです」

 そう言っている間に、クララさんは天然海綿と薔薇の匂いの石鹸を手にした。
 壊れ物を扱うかのように、血や泥のついた肌を清め、磨いてくれる。陽に当たらない生活が長く続いたせいで不健康に白い肌が、陶磁器のように美しく光り輝く。
 湯上がりには、全身に香油を塗ってもらった。そして昨夜乱暴に切り裂かれてしまった不揃いな髪を丁寧に梳いて整えてもらい、用意されていた真新しい服に袖を通す。

「コンラート様が『太陽のような人が来る』っておっしゃってたので、向日葵色のドレスを用意しました!」
 
 用意されたのはふわふわと裾の広がる、明るい橙色のワンピースだった。上質な生地が肌に滑らかに沿い、少しだけ背伸びをしたような美しい意匠が施されている。
 大きな鏡の前に立つと、昨日まで薄汚れたボロ屋で怯えていた自分が嘘のように、まるで魔法にかけられたかのような姿があった。

「『世界の色を丸ごと塗り替えるような、鮮烈な印象の女性』って言ってましたよ!」
「鷹島さん、そんな風に思ってくれていたなんて……」

 生まれてこの方、そんなふうに言われたことは一度もない。自他ともに認める陰気で内気な性格は、人にいい印象を与えることはなかった。太陽なんて、そんな素晴らしいものにはなれない。そう思っていたけれど……

(鷹島さんが望むのなら、誰かを照らす存在になれるのなら、私はそうなりたい)

 鏡の中に映るのは、首元で揃えられた短い髪の、小さな女の子。見慣れた黒髪に、黒い瞳。困ったように下がった眉毛は、気弱そうな印象を与える。
 けれど、もう下は向かない。
 瞳は真っ直ぐに前を向いていた。

 ◇ ◇ ◇
 
「コンラート様ー! ムッティ(お母さん)! お嬢様の準備が整いましたよ!」
「クララ、大声を上げない!」

 元気いっぱいなクララさんに引き連れられ、居間へ足を進める。
そこには私服に着替えた鷹島さんが、マルタさんと何か話していた。私が現れたのに気づくと、ドイツ語での会話をやめて私に向き直る。

「ごめんなさい。お邪魔してしまいましたか?」
「いえいえ。お嬢様のことを聞いていたのですよ」

 鷹島さんのいつもは丁寧に整えている髪は無造作に下され、白いシャツはボタンを少し外してゆったりと着こなしている。
 隙のない軍人ではなく、一人の青年としての彼を初めて見た気がして、心臓がトクリと跳ねる。

「どんな話をしてたんですか?」
 
 彼は橙色のワンピースを着た私を見て、一瞬だけ言葉を失ったように目を瞬かせ、それから熱を孕んだ碧玉の瞳を細めて、優しく微笑んだ。

「あなたは本当に、世界の色を変える人だ。と——」