虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

「貴方のやっていることを軽蔑します。もうお帰り下さい」

 びりびりと空気が震える。シンと静まり返った部屋に、自分でも驚くほどの冷たい声が響いた。
 言葉とともに私の内側から漏れ出した名状しがたい『圧』を浴びて、伊津名少将は一瞬、目を丸くする。しかしすぐにいつもの底知れない笑顔に戻り、怒れる私を冷めた目で見つめ返してくる。
 気を悪くしたかもしれない、けれど私の内にある獣は一切の恐怖を感じていなかった。睨み合いが続き、庭では桜の花がひらひらと散る。
 やがて伊津名少将は、肩を震わせ——「ははは!」と、楽しそうに笑い出した。

「素晴らしい」
「え……」
「君は思っていたよりも、逸材なのかもしれないね」

 彼は薄く微笑んだまま、どこか狂気すら孕んだ表情を浮かべて私を見た。

「『ご命令』の通り、今日は退散するとしようかな。また会おう、小夜子さん」

 知らない間に夜が来ていたらしい。
 伊津名少将は余裕の笑みを一切崩さぬまま、夜桜の舞う闇に溶けていく。
 車のエンジン音が遠ざかり、静寂が戻った瞬間。私の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。

「あ……」

 膝から力が抜け、畳の上にへたり込む。
 自分が先ほどまで纏っていた、あの恐ろしい獣のような覇気はすっかり霧散していた。代わりにどっと押し寄せてきたのは、猛烈な恐怖と、自己嫌悪。

「私、なんてことを……!」

 伊津名少将は私の身を案じて手当てをしてくれた、鷹島さんのことを教えてくれたし、何より聞いた話が本当なら、鷹島さんにとっては大切な後見人だ。軍での絶対的な上官であり、彼を導く親のような存在でもあるだろう。
 
「鷹島さんの上官に対して、あんな失礼なことを……」

 伊津名少将から私の暴言を聞けば、鷹島さんはきっと私に幻滅するだろう。私のことを、恩知らずで傲慢な女だと思うに違いない。
 もう、彼とは会えなくなるかもしれない。
 その事実が、鋏を向けられた時よりもずっと深く私の胸を抉った。
 血に染まった純白のワンピースを脱ぐ気にもならず、痛む左手を抱えてひとりぼっちの家の中、部屋の隅で膝を抱えて夜を泣き明かした。

◇  ◇  ◇

 翌朝。
 泣き疲れてまどろんでいた私は、表門のほうから聞こえる騒々しい音で目を覚ました。
 何か怒鳴り声のようなものが聞こえ、足音が真っ直ぐに離れへと向かってくる。

(また冨佐子様かな……いや、あの件を知った家令かも……)

 何にせよ、私を折檻しに来たに違いない。
 青ざめながら身をすくませていると、玄関の戸が荒々しく開かれた。

「月守小夜子!」

 そこに立っていたのは、太陽の光を背負った、長身の軍服姿の男性だった。
 息を乱し、肩を上下させている。その金糸の髪と碧玉の瞳を見た瞬間、信じられない思いで涙が溢れた。

「た、鷹島……さん……」

 鷹島さんは私の切り裂かれた髪と、血に染まった左手、そして汚れたワンピースを見た瞬間——その端正な顔が苦痛に歪む。

「やはり、家まで送るべきだった」
「い、いえ……あの……姉との喧嘩ですので……」
「伊津名少将から事情は聞いている。貴方を保護しに来た。母君が戻られるまで、俺と共にここを出よう」

 鷹島さんは私の血のついた手をそっと包み込むと、大きな手で私を抱え上げる。

「ど、どこに行くんですか……!?」
「麻布の——まあ、行けばわかる」
「でも……」

 私は鷹島さんに、お姫様の様に抱えられていた。
 父の了承もなく、二度も外出をしていいのだろうか。冨佐子様の折檻を思い出すと恐ろしくなる。
 けれど「大丈夫だ。悪いようにはしないから」と優しく囁く鷹島さんの声を聞いていると、なけなしの勇気が少しだけわいてくる。冨佐子様との関係は修復不能で、これ以上は互いに害を与えるだけだ。距離を開けることは互いのためになるだろう。

「……お世話に、なります」
「わかった。ではこのまま連れていく」
 
 私が何かを言う間もなく、彼は私を連れて足早に離れを出る。
 本邸の家令や使用人たちが私を連れて行かせるまいと抑え込もうとするが、鷹島さんのひと睨みで体が固まってしまう。
 鷹島さんはそのまま、待たせてあった黒塗りの車へと私を乗せた。

 ◇ ◇ ◇
 
 車は緑豊かな高台へと向かって滑るように走っていく。
 隣に座る鷹島さんは、無言のままそっと手を握ってくれた。
 大きくて、少し冷たい、男の人の手。その感触が不安を溶かしていく。

「あの……伊津名少将は、なんと……?」

 恐る恐る尋ねると、鷹島さんは静かに答えた。

「冨佐子嬢があなたを傷つけたと。本邸の者も誰も止めに入らないため、至急保護に向かえと命令を受けた」

 それだけだった。
 私が伊津名少将に暴言を吐いたことは、どうやら伝えられていないらしい。
 安堵と同時に、底知れない少将の思惑に薄気味悪さを覚える。けれど今は、隣にいてくれる鷹島さんの体温だけが私の縋るすべてだった。
 
 やがて車は深い木立を抜け、重厚な鉄格子の門をくぐって停まった。

「手をどうぞ、フロイライン」
「ひゃっ、ひゃい……」

 エスコートされて車を降りた私は、目の前にそびえ立つ建物を見上げて息を呑んだ。
 そこにあったのは、急勾配の屋根に、白壁と黒い木組みの意匠が美しい、異国情緒あふれる巨大な洋館だった。手入れの行き届いた庭の木々は朝露に濡れて輝き、アーチ状の窓にはめ込まれた精緻なステンドグラスが、朝の光を受けて宝石のようにきらきらと光を落としている。

「ここは……」
「軍事顧問が住む洋館だ。今はちょうど交代の時期で空いているので、伊津名少将から使用許可をいただいた」

 まるで、西洋の御伽噺に出てくる『お城』のようだ。
 濃紺の軍服姿で玄関扉の鍵を開ける鷹島さんの姿は王子様の様——

「……月守小夜子?」
「はっ!」

 鷹島さんの姿に見とれすぎた。かけられた声に慌てて返事をすると、鷹島さんの口角が少し上がっている。
 笑っている、のかもしれない。
 不器用な姿に思わず笑みがこぼれる。

「中を案内する」

 そう言うと、鷹島さんは静かに扉を開けた。