「ハインリヒ・フォン・アドラー男爵を知っているかな?」
「はえ?」
てっきり鷹島さんの過去を教えてくれると思ったのに、伊津名少将から出てきたのは思わぬ人物の名前だった。
「えっと……『アドラー少佐』ですか?」
「そうか、その名の方が一般的だね。17年前に陸軍大学校で教鞭をとられていた、普魯西出身の軍事顧問だ」
「陸軍近代化の父——ですよね。授業で習ったことは、ありますが……」
「彼が教鞭をとっていたとき、私も陸軍大学にいたんだ。懐かしいな」
学校で聞きかじった程度の知識だけれど、伊津名少将は満足げに頷いてくれた。遠い日に思いをはせているのか、目尻がきゅっと細くなる。
「14年前に独逸に帰国されてからは活躍目覚ましく、今は少将だそうだ。それに叙爵もされて、男爵になっているんだよ」
「はい……で、でも、それが、鷹島さんとなんの……」
「ハインリヒ氏は、彼の父親なんだ」
伊津名少将は軍服の詰襟を少しだけ緩める。そして穏やかな口調で語り始めた。
「鷹島大尉の本名は、コンラート・アドラーというんだ」
窓から差し込む夕暮れ時の赤い光が、伊津名少将の横顔を照らしている。離れの座敷は空虚な静寂に包まれていた。
「母親は日本人女性でね。外交官の娘として独逸に渡り、そこでハインリヒ氏と運命的な出会いをしたそうだよ」
【運命】、その言葉が恐ろしくて肩がはねる。目に見えないその呪いが、母を地獄の底に叩き落したのだから。
「そして子供——コンラートが十歳になる頃、軍事顧問として訪日することになり、家族全員でこの国へやってきた。しかしちょうどその時期、コンラートがΩ性に目覚めてしまった」
「Ωに……」
「優秀なα、誇り高き普魯西軍人のハインリヒ氏にとって、自分の息子がΩであることなど汚点だったのだろう。彼は息子の第二の性を、息子自身を、受け入れることができなかった」
少将の冷淡な言葉が、私の耳の奥でじりじりと痛んだ。
無条件に愛してくれていたはずの父親から、ある日突然拒絶される。血の繋がりよりも、Ωという性のヒエラルキーが優先される残酷さ。十歳の子供にとって、それがどれほどの絶望だったか。
「コンラート少年があまりにも哀れでね、僭越ながら声をかけさせてもらったんだ」
少将は硝子玉のような瞳で、じっと私を見つめた。
「コンラートを母方の実家・鷹島家に養子に出す提案をしたんだ。私が後見人となって面倒を見る、と伝えたら渋々ながらも了承してくれたよ」
「では、鷹島シヅヲというお名前は——」
「和名だね。ちなみにシヅヲという名は私がつけたんだよ。あまり喋らない、静かな子だったから」
「は、はあ……」
伊津名少将はにこにこと笑っている。軍人らしからぬ表情にあっけにとられつつも、慈愛に満ちた雰囲気にのまれて、心がじんわりと暖かくなってしまう。
彼の言葉は違和感なく胸に流れ込み、信じてしまう。そんな不思議な魅力がある。
「——同じころ、私は各地でαの素養がある子供たちへ教育を施していた。いずれαだけの精鋭部隊、『廻天隊』を創り上げようと思ってね。……だが、αだけを集めても、互いに牙を剥き合ってまともな統率がとれなかった」
αとは、群れの長たる資質を持つものである。それ故に自己主張が強く、折れず曲がらず従わず、と「兵」としては扱いづらい。高い能力を持っていても、αだけで部隊を結成しないのはそれが理由とされている。
「そこで私は一計を案じたんだ。αの群れの中に、Ωを入れよう、と——」
ひゅっ、と喉が鳴る音がした。
それはつまり、群れの秩序を保つための『生餌』だ。自分より劣っている存在が、虐げてもいい存在が近くにいることで標的は彼に絞られる。
そして、この話に出てくるΩの少年とは——
「鷹島さんを、生贄にしたってことですか……?」
「それはよくない言い方だ。コンラート——鷹島大尉も私の立派な生徒だよ。実際に有能だった、まわりのαたちを圧倒するたび、αの闘争心をよく煽り、彼らは自然と切磋琢磨していった」
それは、鷹島さんの血のにじむような努力の元にある平穏だと、何も知らない私でも容易に想像がついた。
Ω性の生きづらさなら、母の姿を見ていれば嫌でもわかる。ただΩというだけで劣っていると扱われ、身と心を擦り切らせる地獄。それを、あの誇り高い鷹島さんが――暴力と血の匂いに満ちた軍隊の真っ只中で、生餌として扱われながら、どれほどの屈辱を重ねて耐え忍んできたのだろう。
「『使える』と思ってね。彼を陸軍幼年学校に入れ、士官として育てた。そして彼は立派に育ち、先の戦争では日章旗を敵地に掲げるほどの活躍をしてみせた」
伊津名少将の声は穏やかなままだった。一人の人間の尊厳と人生を「道具」として扱っている、そんなことを話しているのに、そこに欠片ほどの罪悪感すら抱いていない。
それを聞いた瞬間、お腹の底がスッと冷えるのを感じた。
(この人が、嫌いだ——)
私は、目の前の男を心の底から軽蔑した。
人を軽蔑するなんて、生まれて初めての経験だった。奇妙で不思議な感覚が全身を駆け巡る。今までなら、軍の将校様を前にそんなことは夢にも思わなかったはず。
恐怖で息が詰まり、畳に額を擦り付けて怯えることしかできなかったはずだ。
しかし今は、違った。
伊津名少将の悪気のない言葉を聞くたびに、私の中に眠る『本能』が、皮膚を突き破って剥き出しになっていくような感覚がする。
恐怖など微塵もない。むしろ、目の前で澄ました顔をしているこの男の首根っこを、今すぐ上から押さえつけてしまいたいような——酷く冷たくて、残酷な衝動。
自分が自分ではないような、得体の知れないこの血の滾りが何なのか、私自身にもわからない。
ただ、確かなことが一つだけある。
「帰ってください」
私の中で、今まで大人しく丸まっていた何かが、静かに牙を剥き始めていた。
「はえ?」
てっきり鷹島さんの過去を教えてくれると思ったのに、伊津名少将から出てきたのは思わぬ人物の名前だった。
「えっと……『アドラー少佐』ですか?」
「そうか、その名の方が一般的だね。17年前に陸軍大学校で教鞭をとられていた、普魯西出身の軍事顧問だ」
「陸軍近代化の父——ですよね。授業で習ったことは、ありますが……」
「彼が教鞭をとっていたとき、私も陸軍大学にいたんだ。懐かしいな」
学校で聞きかじった程度の知識だけれど、伊津名少将は満足げに頷いてくれた。遠い日に思いをはせているのか、目尻がきゅっと細くなる。
「14年前に独逸に帰国されてからは活躍目覚ましく、今は少将だそうだ。それに叙爵もされて、男爵になっているんだよ」
「はい……で、でも、それが、鷹島さんとなんの……」
「ハインリヒ氏は、彼の父親なんだ」
伊津名少将は軍服の詰襟を少しだけ緩める。そして穏やかな口調で語り始めた。
「鷹島大尉の本名は、コンラート・アドラーというんだ」
窓から差し込む夕暮れ時の赤い光が、伊津名少将の横顔を照らしている。離れの座敷は空虚な静寂に包まれていた。
「母親は日本人女性でね。外交官の娘として独逸に渡り、そこでハインリヒ氏と運命的な出会いをしたそうだよ」
【運命】、その言葉が恐ろしくて肩がはねる。目に見えないその呪いが、母を地獄の底に叩き落したのだから。
「そして子供——コンラートが十歳になる頃、軍事顧問として訪日することになり、家族全員でこの国へやってきた。しかしちょうどその時期、コンラートがΩ性に目覚めてしまった」
「Ωに……」
「優秀なα、誇り高き普魯西軍人のハインリヒ氏にとって、自分の息子がΩであることなど汚点だったのだろう。彼は息子の第二の性を、息子自身を、受け入れることができなかった」
少将の冷淡な言葉が、私の耳の奥でじりじりと痛んだ。
無条件に愛してくれていたはずの父親から、ある日突然拒絶される。血の繋がりよりも、Ωという性のヒエラルキーが優先される残酷さ。十歳の子供にとって、それがどれほどの絶望だったか。
「コンラート少年があまりにも哀れでね、僭越ながら声をかけさせてもらったんだ」
少将は硝子玉のような瞳で、じっと私を見つめた。
「コンラートを母方の実家・鷹島家に養子に出す提案をしたんだ。私が後見人となって面倒を見る、と伝えたら渋々ながらも了承してくれたよ」
「では、鷹島シヅヲというお名前は——」
「和名だね。ちなみにシヅヲという名は私がつけたんだよ。あまり喋らない、静かな子だったから」
「は、はあ……」
伊津名少将はにこにこと笑っている。軍人らしからぬ表情にあっけにとられつつも、慈愛に満ちた雰囲気にのまれて、心がじんわりと暖かくなってしまう。
彼の言葉は違和感なく胸に流れ込み、信じてしまう。そんな不思議な魅力がある。
「——同じころ、私は各地でαの素養がある子供たちへ教育を施していた。いずれαだけの精鋭部隊、『廻天隊』を創り上げようと思ってね。……だが、αだけを集めても、互いに牙を剥き合ってまともな統率がとれなかった」
αとは、群れの長たる資質を持つものである。それ故に自己主張が強く、折れず曲がらず従わず、と「兵」としては扱いづらい。高い能力を持っていても、αだけで部隊を結成しないのはそれが理由とされている。
「そこで私は一計を案じたんだ。αの群れの中に、Ωを入れよう、と——」
ひゅっ、と喉が鳴る音がした。
それはつまり、群れの秩序を保つための『生餌』だ。自分より劣っている存在が、虐げてもいい存在が近くにいることで標的は彼に絞られる。
そして、この話に出てくるΩの少年とは——
「鷹島さんを、生贄にしたってことですか……?」
「それはよくない言い方だ。コンラート——鷹島大尉も私の立派な生徒だよ。実際に有能だった、まわりのαたちを圧倒するたび、αの闘争心をよく煽り、彼らは自然と切磋琢磨していった」
それは、鷹島さんの血のにじむような努力の元にある平穏だと、何も知らない私でも容易に想像がついた。
Ω性の生きづらさなら、母の姿を見ていれば嫌でもわかる。ただΩというだけで劣っていると扱われ、身と心を擦り切らせる地獄。それを、あの誇り高い鷹島さんが――暴力と血の匂いに満ちた軍隊の真っ只中で、生餌として扱われながら、どれほどの屈辱を重ねて耐え忍んできたのだろう。
「『使える』と思ってね。彼を陸軍幼年学校に入れ、士官として育てた。そして彼は立派に育ち、先の戦争では日章旗を敵地に掲げるほどの活躍をしてみせた」
伊津名少将の声は穏やかなままだった。一人の人間の尊厳と人生を「道具」として扱っている、そんなことを話しているのに、そこに欠片ほどの罪悪感すら抱いていない。
それを聞いた瞬間、お腹の底がスッと冷えるのを感じた。
(この人が、嫌いだ——)
私は、目の前の男を心の底から軽蔑した。
人を軽蔑するなんて、生まれて初めての経験だった。奇妙で不思議な感覚が全身を駆け巡る。今までなら、軍の将校様を前にそんなことは夢にも思わなかったはず。
恐怖で息が詰まり、畳に額を擦り付けて怯えることしかできなかったはずだ。
しかし今は、違った。
伊津名少将の悪気のない言葉を聞くたびに、私の中に眠る『本能』が、皮膚を突き破って剥き出しになっていくような感覚がする。
恐怖など微塵もない。むしろ、目の前で澄ました顔をしているこの男の首根っこを、今すぐ上から押さえつけてしまいたいような——酷く冷たくて、残酷な衝動。
自分が自分ではないような、得体の知れないこの血の滾りが何なのか、私自身にもわからない。
ただ、確かなことが一つだけある。
「帰ってください」
私の中で、今まで大人しく丸まっていた何かが、静かに牙を剥き始めていた。


