表門に停まった車のエンジン音が止み、砂利を踏みしめる規則正しい足音が、離れへと近づいてきた。
革靴の重い音。まさか、鷹島さんが来てくれたのだろうか。
「失礼する。誰かいるかな」
透き通った声が離れの玄関から聞こえる。家令が離れまで通したらしい。
今は母がいないので、来訪者の対応ができるのは私だけだ。慌てて床に散らばった髪を片付け、肩掛けを羽織って血を隠す。髪型を整えている暇はない。恥ずかしいが、このままで出るしかなさそうだ。
「た、ただいま参ります!」
少しの期待を込めて玄関扉を開けたが、そこに鷹島さんはいなかった。
軍服の上に立派な外套を羽織り、人の良さそうな笑みを浮かべた黒髪の男性。伊津名少将ひとりだけ。
「い、伊津名少将……」
「小夜子さん。突然申し訳ないね。少し、鷹島大尉の件でお話ししたいことがあってね」
「あ、あの……申し訳ありません。今は父も母も不在にしておりまして……」
今は父も母もおらず、客人の対応をすることはできなかった。
せっかく来てもらったのに申し訳ないと、おずおずと頭を下げる。
「構わない。私は君と話がしたくて来たのだから。鷹島シヅヲの将来の妻である、君と」
「……え?」
『妻』、その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
これまで私は、公爵家の出来損ないか、政略の道具としてしか扱われてこなかった。ひとりの独立した女性として、向き合ってくれる大人は、彼が初めてだった。
伊津名少将の後ろに控える家令と目線を合わせると、静かに頭を下げる。どうやら家の人間からも了承を得ているらしい。
「少し時間をいただけるかな?」
「は、はい……! どうぞ……」
『私』の、初めてお客様だ。
慌ててお辞儀をして迎えると、「緊張しなくていいよ」と伊津名少将は穏やかに笑っていた。
◇ ◇ ◇
急いでお茶を淹れたものの、私の手はまだ微かに震えていた。
カタカタと音を立てる安物の茶碗を、小さな座卓に置く。先日、本邸の豪華な応接間で、最高級の玉露と見事な茶器でもてなされた彼を、こんな隙間風の吹くボロ屋の離れで、しかも安茶でもてなすことになるとは。
何より、今の私は肩のあたりで不揃いに髪を切り裂かれた、酷い有様だ。恥ずかしさで顔から火が出そうになり、思わずうつむく。
「……申し訳ありません。こんな、狭い部屋で……お見苦しい姿まで晒してしまって……」
「いや、いい香りだ」
伊津名少将は全く気にする素振りを見せず、美味しそうに安茶をすすった。
「手は大丈夫かい?」
「えっ」
「血の匂いがするし、髪はばっさりと切られている。……何があったのか、聞かせてもらってもいいかな?」
その声はひどく優しく、不思議な響きがあった。
普段なら、家族の恥を外に漏らすことなど絶対にしない。しかし、彼が纏う空気は、不思議と私の強張った心を解きほぐしていく。
「実は——」
気付けば私は、堰を切ったように全てを打ち明けていた。
明朝に家を抜け出して鷹島さんに会いに行ったこと、母が入院してしまったこと、その隙をついて現れた冨佐子様に髪を切られたこと、そして手を深く切ってしまったこと。
自分でも驚くほど口が回る。言わなくていいことまで言ってしまいそうで恐ろしかった。
「鷹島さんに……」
けれど、鷹島さんに番の印をつけたことは口に出せなかった。
自分が責められるのは仕方ない、どんな罰だって受けるつもりだ。だが鷹島さんがΩであることを、伊津名少将が知っているかもわからない。私の言葉で鷹島さんが傷つくことは耐えられない。理性が、回る舌を止めた。
「鷹島大尉が、何か?」
「いえ……なにも。とても優しくしていただきました。あの、服も買ってもらったのですが……汚してしまって」
「彼は気にしないよ。それよりも君が傷ついてしまった事の方が、私も彼も苦しい」
伊津名少将はそう言うと、懐の中の手巾を裂いて手に巻いてくれた。男性に触れられるのに慣れておらず、心臓が早鐘を打つ。だというのに、しとどに流れていた血が、嘘のようにぴたりと止まる。
「血が、止まった……?」
「ただの応急処置と……あとは秘密にしておこう。衛戍病院に紹介状を書くから、そこできちんと見てもらうんだよ」
「あ、ありがとうございます……」
「お母様が戻るまでは、この家からも避難したほうがいいかもしれないね」
「でも、結納前に——」
「緊急事態だ、世間様も許してくれるさ。すぐに手配する。迎えは——ふふ、鷹島大尉にさせようね」
私に行く場所なんてない。そう思っていたのに、とんとん拍子に話が進んでいく。
伊津名少将は不思議な人だった。人生の全てを彼の舵取りで変えられてしまいそうな、そしてそれに不安を抱かせないような。抗えない魅力があった。
「それにしても……『Ω』が、軍神・鷹島を誑かした。冨佐子嬢はそう思って君を迫害したわけか」
「は、はい……」
「おかしいね」
伊津名少将は鋭い光を瞳の奥に宿し、クスリと笑った。
「君は、どこからどう見ても立派な『α』なのに」
「っ——!」
伊津名少将の言葉に心臓が冷える。
私がαに覚醒したのはほんの数刻前。鷹島さん以外の誰にも気づかれていないのに、この人は一体いつその情報を手に入れたのだろうか。
「そんなに怯えなくていい」
私の動揺を見透かしたように、伊津名少将は静かに目を細めた。実年齢とはかけ離れた若々しい顔立ちに、歴戦の将としての冷徹で深い光が宿る。
「廻天隊の情報はすべて私に来るようになっている。『君がαの片鱗を見せた』、と鷹島大尉から報告を受けただけだ、何もおかしなことはないだろう?」
「……っ」
口ぶりからするに、鷹島さんは私と番になったことは告げていないようだ。
ホッと胸を撫で下ろしながらも、私は慎重に頷いた。いつかは報告しなければならないが、それは鷹島さんと相談してからにしたい。うっかり口を滑らせて余計なことを言わないようにしなければ。
「その、通りです。でも、私は第二の性に目覚めていなくて……それが、突然」
「第二の性の目覚めはいつだって突然だよ。ほんの些細な切っ掛けが、運命を決めるものさ」
伊津名少将は冷めたお茶を一口飲み、静かに茶碗を置いた。
「とはいえ、私も鷹島大尉も君はΩになると思っていた。だからこそ、鷹島大尉は君を気にかけていたのだろうし」
「え……?」
「Ωの迫害はよくあることだ。彼も相当に苦労したからね」
伊津名少将の纏う空気が、ふっと冷たく、重いものに変わった。
「鷹島大尉はΩだ」
知っていた。けれど、伊津名少将が重く口を開くと、まるでΩであることが大罪のように感じる。
「将来彼の妻となる君に、しっかりと伝えるべきだと思っていてね。Ωの軍人など許されない。なのになぜ、彼は軍に所属しているのか。知りたくはないかい?」
私は、こくりと頷いた。あの人のことなら、どんなことでも知りたい。
私の決意を宿した目を見て、伊津名少将は満足そうに微笑んだ。
そして、ゆっくりと口を開いた。
革靴の重い音。まさか、鷹島さんが来てくれたのだろうか。
「失礼する。誰かいるかな」
透き通った声が離れの玄関から聞こえる。家令が離れまで通したらしい。
今は母がいないので、来訪者の対応ができるのは私だけだ。慌てて床に散らばった髪を片付け、肩掛けを羽織って血を隠す。髪型を整えている暇はない。恥ずかしいが、このままで出るしかなさそうだ。
「た、ただいま参ります!」
少しの期待を込めて玄関扉を開けたが、そこに鷹島さんはいなかった。
軍服の上に立派な外套を羽織り、人の良さそうな笑みを浮かべた黒髪の男性。伊津名少将ひとりだけ。
「い、伊津名少将……」
「小夜子さん。突然申し訳ないね。少し、鷹島大尉の件でお話ししたいことがあってね」
「あ、あの……申し訳ありません。今は父も母も不在にしておりまして……」
今は父も母もおらず、客人の対応をすることはできなかった。
せっかく来てもらったのに申し訳ないと、おずおずと頭を下げる。
「構わない。私は君と話がしたくて来たのだから。鷹島シヅヲの将来の妻である、君と」
「……え?」
『妻』、その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
これまで私は、公爵家の出来損ないか、政略の道具としてしか扱われてこなかった。ひとりの独立した女性として、向き合ってくれる大人は、彼が初めてだった。
伊津名少将の後ろに控える家令と目線を合わせると、静かに頭を下げる。どうやら家の人間からも了承を得ているらしい。
「少し時間をいただけるかな?」
「は、はい……! どうぞ……」
『私』の、初めてお客様だ。
慌ててお辞儀をして迎えると、「緊張しなくていいよ」と伊津名少将は穏やかに笑っていた。
◇ ◇ ◇
急いでお茶を淹れたものの、私の手はまだ微かに震えていた。
カタカタと音を立てる安物の茶碗を、小さな座卓に置く。先日、本邸の豪華な応接間で、最高級の玉露と見事な茶器でもてなされた彼を、こんな隙間風の吹くボロ屋の離れで、しかも安茶でもてなすことになるとは。
何より、今の私は肩のあたりで不揃いに髪を切り裂かれた、酷い有様だ。恥ずかしさで顔から火が出そうになり、思わずうつむく。
「……申し訳ありません。こんな、狭い部屋で……お見苦しい姿まで晒してしまって……」
「いや、いい香りだ」
伊津名少将は全く気にする素振りを見せず、美味しそうに安茶をすすった。
「手は大丈夫かい?」
「えっ」
「血の匂いがするし、髪はばっさりと切られている。……何があったのか、聞かせてもらってもいいかな?」
その声はひどく優しく、不思議な響きがあった。
普段なら、家族の恥を外に漏らすことなど絶対にしない。しかし、彼が纏う空気は、不思議と私の強張った心を解きほぐしていく。
「実は——」
気付けば私は、堰を切ったように全てを打ち明けていた。
明朝に家を抜け出して鷹島さんに会いに行ったこと、母が入院してしまったこと、その隙をついて現れた冨佐子様に髪を切られたこと、そして手を深く切ってしまったこと。
自分でも驚くほど口が回る。言わなくていいことまで言ってしまいそうで恐ろしかった。
「鷹島さんに……」
けれど、鷹島さんに番の印をつけたことは口に出せなかった。
自分が責められるのは仕方ない、どんな罰だって受けるつもりだ。だが鷹島さんがΩであることを、伊津名少将が知っているかもわからない。私の言葉で鷹島さんが傷つくことは耐えられない。理性が、回る舌を止めた。
「鷹島大尉が、何か?」
「いえ……なにも。とても優しくしていただきました。あの、服も買ってもらったのですが……汚してしまって」
「彼は気にしないよ。それよりも君が傷ついてしまった事の方が、私も彼も苦しい」
伊津名少将はそう言うと、懐の中の手巾を裂いて手に巻いてくれた。男性に触れられるのに慣れておらず、心臓が早鐘を打つ。だというのに、しとどに流れていた血が、嘘のようにぴたりと止まる。
「血が、止まった……?」
「ただの応急処置と……あとは秘密にしておこう。衛戍病院に紹介状を書くから、そこできちんと見てもらうんだよ」
「あ、ありがとうございます……」
「お母様が戻るまでは、この家からも避難したほうがいいかもしれないね」
「でも、結納前に——」
「緊急事態だ、世間様も許してくれるさ。すぐに手配する。迎えは——ふふ、鷹島大尉にさせようね」
私に行く場所なんてない。そう思っていたのに、とんとん拍子に話が進んでいく。
伊津名少将は不思議な人だった。人生の全てを彼の舵取りで変えられてしまいそうな、そしてそれに不安を抱かせないような。抗えない魅力があった。
「それにしても……『Ω』が、軍神・鷹島を誑かした。冨佐子嬢はそう思って君を迫害したわけか」
「は、はい……」
「おかしいね」
伊津名少将は鋭い光を瞳の奥に宿し、クスリと笑った。
「君は、どこからどう見ても立派な『α』なのに」
「っ——!」
伊津名少将の言葉に心臓が冷える。
私がαに覚醒したのはほんの数刻前。鷹島さん以外の誰にも気づかれていないのに、この人は一体いつその情報を手に入れたのだろうか。
「そんなに怯えなくていい」
私の動揺を見透かしたように、伊津名少将は静かに目を細めた。実年齢とはかけ離れた若々しい顔立ちに、歴戦の将としての冷徹で深い光が宿る。
「廻天隊の情報はすべて私に来るようになっている。『君がαの片鱗を見せた』、と鷹島大尉から報告を受けただけだ、何もおかしなことはないだろう?」
「……っ」
口ぶりからするに、鷹島さんは私と番になったことは告げていないようだ。
ホッと胸を撫で下ろしながらも、私は慎重に頷いた。いつかは報告しなければならないが、それは鷹島さんと相談してからにしたい。うっかり口を滑らせて余計なことを言わないようにしなければ。
「その、通りです。でも、私は第二の性に目覚めていなくて……それが、突然」
「第二の性の目覚めはいつだって突然だよ。ほんの些細な切っ掛けが、運命を決めるものさ」
伊津名少将は冷めたお茶を一口飲み、静かに茶碗を置いた。
「とはいえ、私も鷹島大尉も君はΩになると思っていた。だからこそ、鷹島大尉は君を気にかけていたのだろうし」
「え……?」
「Ωの迫害はよくあることだ。彼も相当に苦労したからね」
伊津名少将の纏う空気が、ふっと冷たく、重いものに変わった。
「鷹島大尉はΩだ」
知っていた。けれど、伊津名少将が重く口を開くと、まるでΩであることが大罪のように感じる。
「将来彼の妻となる君に、しっかりと伝えるべきだと思っていてね。Ωの軍人など許されない。なのになぜ、彼は軍に所属しているのか。知りたくはないかい?」
私は、こくりと頷いた。あの人のことなら、どんなことでも知りたい。
私の決意を宿した目を見て、伊津名少将は満足そうに微笑んだ。
そして、ゆっくりと口を開いた。


