「お待ちしておりました、小夜子さん。どうぞお乗りを」
「どうして、ここに……」
西洋薬局から出ると、そこには黒塗りの立派な双頭の馬車が私を待っていた。
横に直立不動で立っているのは、本邸の家令。
家を抜け出したことがバレている、背筋に嫌な汗が流れた。
「公爵様のご命令です」
返事の代わりに、家令は小さくため息を漏らした。
どうやら、私が家を抜け出したことも、鷹島さんに会いに来たことも、父・竹千代にはとうの昔に筒抜けだったのだ。
父の掌の上で転がされている恐怖に背筋が凍る思いがした。やはりあの人は恐ろしい。
「お迎えに上がりました」
断れるはずもなく、私は馬車へ乗った。
さっきまで幸せいっぱいのデェトをしていたはずなのに、今はしおしおと情けない姿で馬車の中で縮こまる。
「許可のない外出は控えてください。その上男性に会いに行くなど……結納もまだなのですよ」
「はい……ごめんなさい……」
家令のまっとうなお小言に返す言葉もない。しかし、母から受ける叱責はこんなものでは済まないだろう。
なんの言い訳もできない。それどころか「αに覚醒した瞬間、お相手の了承も得ずに印をつけました」「その後そのお相手に洋服を一式購入いただきました」と言わねばならない。叱責で済めば御の字のやらかしだ。
(なんて言おう。嘘を吐くわけにはいかないし)
頭の中でぐるぐると考えを巡らせている間にも、馬車は白金にある邸宅へ近づいていく。
もう小細工をするだけ無駄だ。鷹島さんはお許しくださったのだから、全てを明らかにして自分の罪を生涯かけて償う、と伝えよう。半ば投げやりな覚悟を決めた時、馬車は家にたどり着いた。
「ちゑ殿は体調を崩して入院され、公爵様も付き添いで出られております」
「えっ、お母様が……!?」
「抑制剤の副作用です。数日の入院で済むでしょう」
朝から具合が悪そうだったが、そこまでひどいとは。私が本能に駆られて家を出ている間にそんな状況になっていたなんて……自分の身勝手さが恥ずかしかった。
自分が甘い熱に浮かされ、鷹島さんの温もりに縋っていたその時、母は凍えるような痛みに耐えていたのだ。申し訳なさで胸がぎゅっと締め付けられる。
家令に促されるまま、重い足取りで馬車を降りる。
「旦那様がお戻りになるまで、離れから一歩も出ぬようにとのことです」
「……はい。わかりました」
家令はそれだけを言い残し、冷たく背を向けて本邸へと戻っていった。
一人残された私は、みすぼらしい離れへと足を踏み入れる。
いつもなら、母のいれるお茶の香りと、うっすらとした薬の匂いがするはずの空間。しかし今日の離れはしんと静まり返り、陽が落ち始めたせいもあって、ひどく薄暗くて冷たかった。
(お母様……)
心細さに身をすくませながら、着替えをするために自分の部屋へ向かおうと、軋む廊下を歩き出した、その時だった。
「随分と余裕なご身分ね」
背筋を凍らせるような、鋭く冷たい声。
同時に、肌をビリビリと刺すような強烈なαの覇気が、狭い空間を容赦なく圧迫した。
「え……」
顔を上げると、奥の薄暗い座敷に、およそこのボロ屋には似つかわしくない鮮やかな彩色の人影があった。
紅い絹の着物。艶やかに結い上げられた髪。
冨佐子様だった。
彼女は私の文机に腰を下ろし、手にした扇子で、トントンと苛立たしげに畳を叩いている。父や母が不在であることを知っていて、わざわざこの離れまで先回りしていたのだ。
「ふ、冨佐子様……どうして、こちらに……」
震える声で問いかけると、冨佐子様はピタリと扇子の音を止め、ゆっくりと立ち上がった。
その目は夜叉のように吊り上がり、暗い嫉妬と憎悪の炎をギラギラと燃やしている。
「どうして? よくそんなしらばっくれた口が叩けるわね。この泥棒狸」
冨佐子様はギリッと歯ぎしりをして、私を睨みつけた。その美しい顔は、黒い感情で歪んでいる。
「昨日の今日で鷹島の元へ行ったそうね。私への当てつけのつもり?」
「そんな、つもりは……」
「それにその服は何? まさか軍人如きに恵んでもらったんじゃないでしょうね?」
冨佐子様は私の肩をつかむと、ぎり……と力を籠める。
「は、放してください!」
「ただの捨て駒が、調子に乗るんじゃないわよ!」
ヒステリックな叫び声とともに、彼女はパチンと指を鳴らした。
すると、薄暗い廊下の影から、本邸の侍女たちが数人、音もなく現れた。
「え……っ、きゃあっ!」
逃げる間もなかった。
侍女たちに背後から両腕を乱暴に掴まれ、冷たい畳の上に押さえつけられる。
二人がかりの力に、運動もろくにできない私が抗えるはずもなかった。膝をつかされ、首を無理やり上へ向かせられる。
「は、ははな、して……やめて……」
「黙りなさい!」
冨佐子様が私の目の前に立ち、懐から『それ』を取り出した。
薄暗い部屋の中で、ギラリと鈍い光を放つ鋼の塊――分厚く重い、洋裁用の裁ち鋏だった。
「ひっ……」
「私に恥をかかせた罰を与えてあげる」
冨佐子様は冷酷に笑うと、私の長く伸びた黒髪の束を、乱暴に鷲掴みにした。
頭皮が引き攣り、痛みに涙が滲む。
「やめ……やめて……冨佐子様……!」
「気安く呼ぶんじゃないわ!」
耳元で、鋼が重なり合うおぞましい音が響いた。
「どうして、ここに……」
西洋薬局から出ると、そこには黒塗りの立派な双頭の馬車が私を待っていた。
横に直立不動で立っているのは、本邸の家令。
家を抜け出したことがバレている、背筋に嫌な汗が流れた。
「公爵様のご命令です」
返事の代わりに、家令は小さくため息を漏らした。
どうやら、私が家を抜け出したことも、鷹島さんに会いに来たことも、父・竹千代にはとうの昔に筒抜けだったのだ。
父の掌の上で転がされている恐怖に背筋が凍る思いがした。やはりあの人は恐ろしい。
「お迎えに上がりました」
断れるはずもなく、私は馬車へ乗った。
さっきまで幸せいっぱいのデェトをしていたはずなのに、今はしおしおと情けない姿で馬車の中で縮こまる。
「許可のない外出は控えてください。その上男性に会いに行くなど……結納もまだなのですよ」
「はい……ごめんなさい……」
家令のまっとうなお小言に返す言葉もない。しかし、母から受ける叱責はこんなものでは済まないだろう。
なんの言い訳もできない。それどころか「αに覚醒した瞬間、お相手の了承も得ずに印をつけました」「その後そのお相手に洋服を一式購入いただきました」と言わねばならない。叱責で済めば御の字のやらかしだ。
(なんて言おう。嘘を吐くわけにはいかないし)
頭の中でぐるぐると考えを巡らせている間にも、馬車は白金にある邸宅へ近づいていく。
もう小細工をするだけ無駄だ。鷹島さんはお許しくださったのだから、全てを明らかにして自分の罪を生涯かけて償う、と伝えよう。半ば投げやりな覚悟を決めた時、馬車は家にたどり着いた。
「ちゑ殿は体調を崩して入院され、公爵様も付き添いで出られております」
「えっ、お母様が……!?」
「抑制剤の副作用です。数日の入院で済むでしょう」
朝から具合が悪そうだったが、そこまでひどいとは。私が本能に駆られて家を出ている間にそんな状況になっていたなんて……自分の身勝手さが恥ずかしかった。
自分が甘い熱に浮かされ、鷹島さんの温もりに縋っていたその時、母は凍えるような痛みに耐えていたのだ。申し訳なさで胸がぎゅっと締め付けられる。
家令に促されるまま、重い足取りで馬車を降りる。
「旦那様がお戻りになるまで、離れから一歩も出ぬようにとのことです」
「……はい。わかりました」
家令はそれだけを言い残し、冷たく背を向けて本邸へと戻っていった。
一人残された私は、みすぼらしい離れへと足を踏み入れる。
いつもなら、母のいれるお茶の香りと、うっすらとした薬の匂いがするはずの空間。しかし今日の離れはしんと静まり返り、陽が落ち始めたせいもあって、ひどく薄暗くて冷たかった。
(お母様……)
心細さに身をすくませながら、着替えをするために自分の部屋へ向かおうと、軋む廊下を歩き出した、その時だった。
「随分と余裕なご身分ね」
背筋を凍らせるような、鋭く冷たい声。
同時に、肌をビリビリと刺すような強烈なαの覇気が、狭い空間を容赦なく圧迫した。
「え……」
顔を上げると、奥の薄暗い座敷に、およそこのボロ屋には似つかわしくない鮮やかな彩色の人影があった。
紅い絹の着物。艶やかに結い上げられた髪。
冨佐子様だった。
彼女は私の文机に腰を下ろし、手にした扇子で、トントンと苛立たしげに畳を叩いている。父や母が不在であることを知っていて、わざわざこの離れまで先回りしていたのだ。
「ふ、冨佐子様……どうして、こちらに……」
震える声で問いかけると、冨佐子様はピタリと扇子の音を止め、ゆっくりと立ち上がった。
その目は夜叉のように吊り上がり、暗い嫉妬と憎悪の炎をギラギラと燃やしている。
「どうして? よくそんなしらばっくれた口が叩けるわね。この泥棒狸」
冨佐子様はギリッと歯ぎしりをして、私を睨みつけた。その美しい顔は、黒い感情で歪んでいる。
「昨日の今日で鷹島の元へ行ったそうね。私への当てつけのつもり?」
「そんな、つもりは……」
「それにその服は何? まさか軍人如きに恵んでもらったんじゃないでしょうね?」
冨佐子様は私の肩をつかむと、ぎり……と力を籠める。
「は、放してください!」
「ただの捨て駒が、調子に乗るんじゃないわよ!」
ヒステリックな叫び声とともに、彼女はパチンと指を鳴らした。
すると、薄暗い廊下の影から、本邸の侍女たちが数人、音もなく現れた。
「え……っ、きゃあっ!」
逃げる間もなかった。
侍女たちに背後から両腕を乱暴に掴まれ、冷たい畳の上に押さえつけられる。
二人がかりの力に、運動もろくにできない私が抗えるはずもなかった。膝をつかされ、首を無理やり上へ向かせられる。
「は、ははな、して……やめて……」
「黙りなさい!」
冨佐子様が私の目の前に立ち、懐から『それ』を取り出した。
薄暗い部屋の中で、ギラリと鈍い光を放つ鋼の塊――分厚く重い、洋裁用の裁ち鋏だった。
「ひっ……」
「私に恥をかかせた罰を与えてあげる」
冨佐子様は冷酷に笑うと、私の長く伸びた黒髪の束を、乱暴に鷲掴みにした。
頭皮が引き攣り、痛みに涙が滲む。
「やめ……やめて……冨佐子様……!」
「気安く呼ぶんじゃないわ!」
耳元で、鋼が重なり合うおぞましい音が響いた。


