虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

「その綺麗な服、いくらで買ったんだ? ちょっとお兄さんにも教えてくれよ」

 男の息から漂う、鼻をつくような安酒の匂い。薄汚れた手が、買ってもらったばかりの純白のワンピースへと伸びてくる。

(嫌……っ!)

 払いのけなければいけないのに、恐怖で喉が引き攣り、足が地面に縫い付けられたように動かない。
 男の指先が私の肩に触れようとした、その刹那だった。

「気安く触れるな」

 地を這うような低く冷ややかな声が、喧騒を切り裂いて響いた。
 次の瞬間、男の腕が背後から現れた大きな手によって、無造作に、しかし万力のような力で掴み上げられる。

「痛えっ!? なんだてめえは——ひっ!」

 悪態をつこうと振り返った男は、相手の姿を認識した途端に言葉を失った。
 長身から見下ろす碧玉の瞳には、一切の感情がない。ただそこに立っているだけで、肌が粟立つような圧倒的な威圧感が放たれていた。軍神と呼ばれる男の静かな、けれど底知れない怒気に触れ、男の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。

「……失せろ」
「くそっ! 連れがいたのかよっ!」

 男は悪態を突くと人ごみの中へと飛び出していく。色んな人にぶつかりながら、だんだんとその背は見えなくなっていった。

(……たった一言で)

 鷹島さんの背中は、どこまでも大きく、揺るぎなく堂々としていた。
 とてもじゃないけれど、彼が本能的に虐げられる側の『Ω』だなんて信じられない。誰の目から見ても、彼は他を平伏させる圧倒的な強者だった。
 それに比べて、自分ときたらどうだろう。

(私、また怯えてへたりこんで……これじゃあ、ちっともαらしくない……)

 酔っ払いに絡まれただけで、手も足も出ずにべそをかいている。
 鷹島さんのような本物の強さを前にすると、自分が『α』という優れた性を持っていることが、ひどく滑稽に思えてきた。
 情けなくて、惨めで、大好きな人にこんな無様な姿を見せてしまった。

「怪我はないか」
「っ……」

 鷹島さんが軍靴を鳴らして歩み寄り、私の目の前でスッと片膝をついた。私と同じ目線になるようしゃがみ込んで顔を覗き込まれた途端、張り詰めていた糸が切れ、目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちてしまった。
 私が泣き出したことに驚いたのか、鷹島さんの端正な顔がわずかに歪む。

「……すまない。怖かっただろう」

 私の目元にそっと柔らかな布が当てられた。
 不器用な、けれど壊れ物を扱うようなひどく優しい手つきで涙を拭ってくれる。その真っ白な手巾の隅に入った小さな刺繍を見て、私ははっと息を呑んだ。

「それ……」
「ああ。あの日、あなたが貸してくれたものだ」

 それは先日の見合いの日、獅子王大尉から私を救い出してくれた鷹島さんに、私が血を拭うために渡した手巾だった。
 綺麗に洗濯され、丁寧に糊付けまでされている。清潔な石鹸の匂いがふわりとした。

「返そうと思っていたのだが……また洗うから、後日でいいか?」
「い、いつでも……だいじょうぶ……です……」
 
 あの日から大切に持っていてくれた。そのことが嬉しくて、またじわりと涙がこぼれた。

「少し休憩しよう。あの薬局へ——」
「薬局?」
「いいものがある」
 
 鷹島さんが指さしたのは西洋薬局だった。薬局に行くほどの大けがはしていないけれど……と躊躇している私の背をそっと押して、中へ入る。
 大きな舶来の時計が時を刻む店内は、上流階級の客たちで賑わっている。スツールに腰を下ろして待っていると、白衣の青年給仕がよく冷えた銀の器をふたつ運んできた。

「この薬局は製造機を仕入れていてな。冷たい甘味なら、喉を通りやすいだろう」
「これは……」
「『アイスクリン』だ」

 脚のついた美しい銀の器には、雪のように真っ白で滑らかな氷菓がこんもりと盛られている。
 添えられた小さな銀の匙ですくって口に含むと、ひんやりとした冷たさの後に、濃厚な甘さがふわりと溶けて消えた。

「美味しい……こんなに冷たくて甘いもの、初めて食べました」
「そうか。ならよかった」

 張りつめていた心が甘い味と共に溶けていく。鷹島さんも私と同じアイスクリンを口に運んでいた。
 金髪碧眼の美人が西洋の文化をたしなむ姿は息を呑むほど美しい。私は食べる手を止めて鷹島さんに見とれてしまう。
 
「……何か?」

 鷹島さんが、冷たい甘味を味わう手を止めて怪訝そうに眉を寄せる。

「い、いえ……鷹島さんも甘いものがお好きなんだなと思ったら、なんだか、嬉しいなって思って」

 私が微笑みかけると、彼はすっと視線を逸らした。けれど、彫刻のように整った横顔の先——その耳たぶがほんのりと赤く染まっている。
 軍神と呼ばれる彼が、私のために怒り、焦り、そして不器用に照れている。こんなに穏やかで胸が甘く満たされる時間が、自分に訪れる日が来るなんて思わなかった。

「さて、次はどこへ行——」
「鷹島大尉殿!!」

 鷹島さんが言いかけた言葉は、バンッというけたたましいドアの開閉音に遮られた。
 入り口に立っていたのは、肩で息をする軍服姿の青年——鷹島さんの部下だろうか。周囲の客が何事かと驚いて振り返る中、彼は額の汗を拭うこともせず、真っ直ぐに私たちの卓へと歩み寄ってくる。

「至急、お耳に入れたい儀がございます」

 緊迫した声色。それだけで、只事ではないのが伝わってきた。
 軍人さんが鷹島さんの耳元に顔を寄せ、短い言葉を囁く。その瞬間、鷹島さんの纏う空気が、先ほどまでの不器用で穏やかなものから、冷徹な『軍神』のそれへと一変した。
 先ほどまでの柔らかかった碧玉の瞳が、氷のように鋭く研ぎ澄まされている。

「すぐに向かう」

 鷹島さんは短く応じると、卓の上に紙幣を置き、私に向かって頭を下げた。

「すまない。軍からの緊急の呼び出しだ。すぐに部下に車を手配させるから、あなたはそれで——」
「いえ! 一人で帰れますから……。鷹島さん、どうかお気をつけて」

 彼は一瞬だけ私の顔を見つめた後、足早に店を去っていった。
 こうして、まるで夢のように甘くて幸せだった私たちのお忍びデェトは、唐突な終わりを迎えたのだった。