虐げられた小狸姫は冷徹軍神さまの番

 番の印が刻まれた瞬間、私の体内を荒れ狂っていた(ラット)は、嘘のようにスッと引いていった。
 赤く染まっていた視界は正常に戻り、むせ返るような甘い香りも、今はただ温かく落ち着く匂いへと変わっている。
 病室には、気まずいほどの重い沈黙が流れていた。

(……私、なんてことを……)

 我に返った途端、背筋に氷を当てられたような悪寒が走った。
 大きくはだけた鷹島さんのシャツ。その真っ白で屈強な項には、私がくっきりと立てた歯型と、そこから滲む赤い血が、残酷なほど鮮明に浮かび上がっていた。
 数年前の見合いで、印をつけようとする獅子王大尉のことが恐ろしかったくせに。助けてくれた鷹島さんに恋い焦がれたくせに。私がやったことは、彼と全く同じだ。
 いや、実際に無理やり牙を立て、実行に移してしまった分、自分の方がずっと最悪で、おぞましい。

「ご、ごめんなさい……!」

 私は弾かれたように彼から離れ、冷たい床に崩れ落ちた。
 震える手で顔を覆う。自分の中に眠っていた怪物の本性が恐ろしかった。

「わ、私……なんてことを……いかな罰も受けます。貴方からすぐに離れます。婚姻のことはお気になさらず、公爵家には、私から父に——」
「逃げるのか」

 頭上から降ってきたのは、氷のように冷たく、低い声だった。
 顔を上げると、シャツの胸元を合わせた鷹島さんが、静かな碧玉の瞳で私を見下ろしていた。

「それを、俺の言葉のせいにするのか」
「え……」
「自らの行いの責任を、俺に負わせるな。あなたの本心はどこにある。きちんと伝えるんだ」

 厳しく、けれど一切の逃げ道を許さない正論だった。
 責任と言う言葉で逃げようとした私を、翡翠の瞳はどこまでも追いかけてくる。

 ――あなたの本心はどこにある。

 彼の言葉が、胸の奥を激しく叩く。
 怖い。けれど、もう後戻りはできない。私は床に手をついたまま、必死に顔を上げ、彼の目を見つめ返した。

「……貴方を、私のものにしたいです」

 頭を下げながらその身が欲しいと願う。みっともなくて、悍ましくて、強欲で……けれど間違いなく、私の本心。
 生まれて初めて人に打ち明けた『我儘』だった。
 鷹島さんの反応を見るのが怖い。沈黙に耐えられず、恐る恐る頭を上げると、鷹島さんはそっぽを向いていた。
 
「あの……」
 
 よく見ると鷹島さんの耳が真っ赤に染まっている。

「……ッ」

 彼は大きな手で口元を覆い、バツが悪そうに視線を逸らす。

「……Ich liebe dich」

 聞き慣れない、異国の言葉。
 けれど、その響きはひどく甘く、祈りのように優しかった。

「あの……それはどういう……」
「なにも関係はない。とにかく、話はここまでだ」

 私が意味を問うと、鷹島さんはすっと顔色を戻していつもの冷静な表情に戻っていた。
 先ほどまでの熱も、むせかえるような芳香も、嘘のようになくなっている。
 夢だったのだろうかと錯覚しそうだが、床に這いつくばる私の姿が私の罪を現していた。

「私は、このまま帰ります……」
「いや。このまま買い出しをする。あなたにも付き合うように」
「買い出し、ですか?」
「そうだ。いつまでも座っていないで、早く立て」

 鷹島さんの言葉は冷たかったが、私が立ち上がれるよう手を差し出してくれている。
 恐る恐るその手を握ると、初めて会った時と同じでほんのりと冷たかった。

 ◇ ◇ ◇

 鷹島さんと共に病室を出て、私たちは帝都の中心地である銀座へと向かった。
 市電は相変わらず混雑していたけれど、朝のようにぎゅうぎゅう詰めにはならなかった。鷹島さんが大きな胸板で私をかばってくれていたのだと知ったのは市電を降りてから。
 慌ててお礼と謝罪を言おうとした私を置いて、鷹島さんは軍靴の音を響かせて銀座の町を進んでいってしまう。

「あの……買い出し、とおっしゃっていましたが」

 立ち並ぶ華やかな商店を前に、私は戸惑って鷹島さんを見上げた。
 彼が私を連れてきたのは、軍の備品を買うような場所ではなく、きらびやかな呉服店や洋装店が軒を連ねる銀座の大通りだったからだ。

「ああ。あなたのものを買う」
「えっ!?  そ、そんな、私は何も……!」
「あなたは自分のものを欲しがらないから、先日も侍女の服を着ていたのか?」
「それは……」
 
 鷹島さんは私の事情をうっすらと察しているようだった。
 実家で冷遇され、新しい着物など何年も買ってもらえなかった私のために、わざわざ『買い出し』という口実を作って連れ出してくれたのだ。その不器用で真っ直ぐな優しさが、じんわりと胸に染みる。

「あの呉服店はどうだ。好きな物を選ぶといい」
「で、ですがもったいないです! 今着ているもので十分ですから……」

 慌てて首を振る。これ以上、彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
 しかし、視線を泳がせた先——隣の洋装店のショーウィンドウに飾られていた一着の服に、思わず釘付けになってしまった。
 それは、真っ白で清楚なワンピースだった。上質な生地に繊細なレースがあしらわれており、まるで絵本に出てくるお姫様が着るような服。

(こんな綺麗な服……王子様みたいな鷹島さんの隣で着られたら、どんなに素敵だろう)

 身の程知らずな妄想が膨らみ、すぐに打ち消そうと目を伏せる。しかし、鷹島さんは私の視線の先を正確に捉えていた。

「あれがいいのか」
「えっ、違います! ただ、綺麗だなと思っただけで——」
「入るぞ」
「た、鷹島さん!?」

 有無を言わさず私の手を取ると、彼は洋装店に入っていく。
 カラン、と涼やかなベルの音を響かせて店に足を踏み入れると、瀟洒な洋装に身を包んだ女性店員たちが一斉にこちらを振り向いた。
 立派な軍服姿で、彫刻のように整った顔立ちの鷹島さんを見て、彼女たちの目がぱっと輝く。一方、隣で彼に手を引かれている私の貧相な身なりに気付くと、一瞬だけ怪訝そうな戸惑いの色が浮かんだのがわかった。

「いらっしゃいませ。どのようなお品をお探しでしょうか?」
「表に飾ってある白いワンピースを。彼女に試着させてやってくれ」
「かしこまりました。お嬢様、こちらへ——」
 
 鷹島さんの低く通る声に、店員さんはうっとりとした瞳で頷き、私を奥の試着室へと案内してくれた。