翌朝、文子は昭陽北舎の居室で、志乃に捕まった。
志乃も文子と同じく、この東宮妃の殿舎への登殿を許されている身である。
東宮妃の紬路、典侍の志乃、そして内裏初の女陰陽師の文子。
三人は、女学校時代からの親友同士だった。
「最近、後宮が乱れてるのよねえ」
志乃は朝から遠慮なく居室へ入り込むなり、いかにも聞けと言わん許りの溜息を吐いた。
悩みを抱えて来たというより、悩みごと丸ごと文子へ預けに来たのだろう。
「花札とか賭け事も始まっちゃって。もう手が付けられなくってェ」
文子は筆を置き、文机から顔を上げた。
夢のせいで、ろくに眠れていない。
目元には険が残り、眉間には知らぬ間に皺が寄っている。
朝から人の悩みを受け止める顔ではない。
手首には、赤土の苧環から伸びた細い糸の感触が、まだ残っている気がした。
「それは、あなたが典侍だからではなくて?」
「ひどーい」
「事実でしょう」
志乃は明るく、飄々として、妙に人懐こい。
どうにも締まりがない。
その志乃が、典侍である。
典侍とは、本来なら七殿五舎の秩序を支える役目だ。
尚侍を助け、女房たちを束ね、帝妃たちの間を乱れなく取り持つ。
帝妃とはいえ、後ろ盾となる実家の格には差がある。
尚侍に、帝妃の家筋へものを言えるだけの出自と官の重みがあれば、誰も表立っては逆らえない。
だが現在、間の悪いことに、後宮を束ねるべき尚侍さえも不在だった。
御代替わりが急であったため、摂家から迎えるべき華族令嬢の頭数が不足している。
右大臣家が、大臣職を占め過ぎたのだ。
まして左大臣家さえ、元を辿れば先の太政大臣の血を分けた次男の家である。
後宮を締めるために高い家筋の姫を据えようにも、どこを見ても似た血脈へ行き着いてしまう。
上に立って場を締める、家格の高い姫がいない。
帝妃も女房たちも、それをよいことに浮ついている。
どう考えても、収まりようがなかった。
「最近ね、物の怪が出たって言う妃が多いの」
志乃は、いかにも困ったという顔をした。
その眉の下がり方。
袖の合わせ目をいじる指。
用件を言う前から、もう文子を巻き込む気で、困り顔を拵えている。
まただ。
文子へ何か押し付ける気なのだと、大概判った。
「夜に何かが通ったとか、隅で女が泣いていたとか、灯りが青くなったとか。昨日の梅壺さまもそうだったでしょう?」
内裏の七殿五舎は春の池に落ちた花びらのように、見た目ばかりが美しい。
その下では、すでに水が腐り、濁り始めていた。
「あれは仮病に近いって、自分で言ってたじゃない」
「近いけど、全部が全部そうとは限らないと思うの」
文子は、すぐには返事ができなかった。
昨日までなら、帝妃たちが我がままを通すために、物の怪だの凶兆だのと騒いでいるのだと思っていた。
実際、梅壺女御の一件はそうだろう。
けれど、すべてが姫たちの我がままとは限らない。
今朝の文子には、その疑いを捨て切ることができなかった。
まして昨夜の夢を思い出すと、笑い飛ばす気にはなれなかった。
鬼神は、朝に目を覚ましたときには跡形もなく消えていた。
寝具の中に残っていたのは、手首へ結ばれた赤土の苧環の糸だけ。
その先は几帳の下をくぐり、部屋の外へ伸びていた。
ところが朝の光が濃くなるにつれ、糸は途中でふつりと途切れ、見えなくなってしまった。
――俺の居所まで辿り着け。
――夢の中ではなく、現の足で来い。
完全な夢なら、糸が引かれた形跡など残らない。
もし現のものなら、朝陽に解ける筈もない。
ならばあれは、夢と現の境を渡って来たものだ。
そして、あの鬼神が後宮の闇を通って文子のもとへ来たのなら、他にも似たものが入り込んでいないとは限らなかった。
それに鬼神は言っていた。
――物の怪を俺に寄越せ、と。
後宮に巣食う物の怪。
祓い切れぬ恨み。女たちの妬み。
恐れ、執着が形を持ったもの――。
そう思いついた途端、後宮の浮ついた噂が、急に別の色を帯びて見えた。
ただの作り話なら、それでよい。
帝の寵を奪い合うための言い訳なら、誰かが叱れば済む。
だが、もし本当に、女たちの思惑を餌にして何かが育っているのなら。
「……確かに、すべてを戯言と決め付けるのは危ういわね」
文子がそう言うと、志乃の顔がぱっと明るくなった。
大きな煌めく瞳を輝かせ、うんうんと忙しなく頷く。
「でしょう?」
その瞬間、文子は己の失言を悟った。
まだ、志乃の頼みを請け負った訳ではない。
慎重に検める必要がある、と言った心算だった。
だが、その一言で志乃の依頼心に足場を与えてしまった。
困り顔の奥で、何をどう頼めば通るか、もう算段が立ち始めている。
「ねえ、文子。後宮を取り締まってよ!」
「は?」
思考が一拍、止まった。
物の怪の話をしていた筈だ。
それがなぜ、後宮全体の取り締まりになるのか。
否。
帝の寵を奪い合うための言い訳なら、誰かが叱れば済む。
文子自身、そう考えたばかりだった。
それでも、その「誰か」に自分を数え入れてはいなかったのだ。
志乃の中では、その「誰か」が最初から文子だったらしい。
「……今、何と?」
「後宮を取り締まって、って言ったの」
「あなたの仕事でしょう」
「私こんなだからさあ、誰も聞きやしないのよねえ」
堂々と言うことではない。
反省の色など、爪の先ほどもなかった。
志乃には、矜持を傷付けられた様子など丸きりない。
悪びれもせず、にじり寄るように文子の方へ膝を進めて来る。
「注意しても、はいはい志乃ちゃん、で終わり。梅壺なんか、あなたは典侍でしょう、わたくしは女御ですわ、って顔をするし」
志乃は扇をぱたぱたと動かした。
その所作は、暑い日の猫の尾のように忙しなく、却って本人の気楽さを際立たせている。
「でも、文子は女学校でも風紀委員だったじゃないの。誰も文句の付けようがない首席卒業だし」
「そんな昔のことを……」
「こう、扇を持って、すっと立って、あなた方、後宮の品位を何と心得ますの、って言いそう」
志乃は、わざわざ背筋を伸ばし、文子の真似らしきものまでしてみせた。
扇を音もなく開き、口元のみを隠す。
伏せた睫毛の下から、相手へ視線を流す。
それからほんの僅かに、つんと可愛らしく顎を上げた。
所作のみを見れば、典侍としての品は申し分なく備わっている。
難は、たとえ後宮であれ女学校以来の顔見知りが多く、中身が志乃だと知れ渡っていることだった。
確かに、文子は才媛の誉れ高く、女学校始まって以来の成績で卒業した。
確かに、廊下を走るな、帯を崩して庭へ出るなと、下級生たちを注意した覚えもある。
だが、それを後宮へ持ち込まれる筋合いはない。
ましてや帝妃たち相手に、風紀委員よろしく睨みを利かせろなど、冗談ではなかった。
女学校のお転婆令嬢たちと、帝の寵を争う妃たちでは、面倒の質が違いすぎる。
「だって、今の後宮には嫌われ役が必要なのよ」
「……嫌われ役?」
「そう。皆に嫌われても、場を締める人。ばらばらの帝妃たちの共通の敵! そしたら皆、少しは仲良くなるんじゃない」
勝手な理屈だ。
勝手な理屈だが、志乃は本気で言っている。
帝妃たちは互いに競い、女房たちは噂を運び、誰も上から場を締めない。
ならば、いっそ皆が等しく嫌う相手を置けば、後宮の空気が一つに纏まる。
おそらく志乃の頭の中では、そのような雑な算段が出来上がっているのだろう。
そして、その役に文子を据える気なのだ。
女学校でもずっと、困ったことがあれば文子や紬路に頼って切り抜けてきたように。
「文子なら、立派な嫌われ役になれるわ!」
褒めている顔だった。
心底、友人を信じている顔だった。
だから余計に腹が立つ。
「志乃」
「なあに」
「今の言葉、普通なら絶交ものよ」
志乃は一瞬だけ目を丸くし、それからにこりと笑った。
志乃も文子と同じく、この東宮妃の殿舎への登殿を許されている身である。
東宮妃の紬路、典侍の志乃、そして内裏初の女陰陽師の文子。
三人は、女学校時代からの親友同士だった。
「最近、後宮が乱れてるのよねえ」
志乃は朝から遠慮なく居室へ入り込むなり、いかにも聞けと言わん許りの溜息を吐いた。
悩みを抱えて来たというより、悩みごと丸ごと文子へ預けに来たのだろう。
「花札とか賭け事も始まっちゃって。もう手が付けられなくってェ」
文子は筆を置き、文机から顔を上げた。
夢のせいで、ろくに眠れていない。
目元には険が残り、眉間には知らぬ間に皺が寄っている。
朝から人の悩みを受け止める顔ではない。
手首には、赤土の苧環から伸びた細い糸の感触が、まだ残っている気がした。
「それは、あなたが典侍だからではなくて?」
「ひどーい」
「事実でしょう」
志乃は明るく、飄々として、妙に人懐こい。
どうにも締まりがない。
その志乃が、典侍である。
典侍とは、本来なら七殿五舎の秩序を支える役目だ。
尚侍を助け、女房たちを束ね、帝妃たちの間を乱れなく取り持つ。
帝妃とはいえ、後ろ盾となる実家の格には差がある。
尚侍に、帝妃の家筋へものを言えるだけの出自と官の重みがあれば、誰も表立っては逆らえない。
だが現在、間の悪いことに、後宮を束ねるべき尚侍さえも不在だった。
御代替わりが急であったため、摂家から迎えるべき華族令嬢の頭数が不足している。
右大臣家が、大臣職を占め過ぎたのだ。
まして左大臣家さえ、元を辿れば先の太政大臣の血を分けた次男の家である。
後宮を締めるために高い家筋の姫を据えようにも、どこを見ても似た血脈へ行き着いてしまう。
上に立って場を締める、家格の高い姫がいない。
帝妃も女房たちも、それをよいことに浮ついている。
どう考えても、収まりようがなかった。
「最近ね、物の怪が出たって言う妃が多いの」
志乃は、いかにも困ったという顔をした。
その眉の下がり方。
袖の合わせ目をいじる指。
用件を言う前から、もう文子を巻き込む気で、困り顔を拵えている。
まただ。
文子へ何か押し付ける気なのだと、大概判った。
「夜に何かが通ったとか、隅で女が泣いていたとか、灯りが青くなったとか。昨日の梅壺さまもそうだったでしょう?」
内裏の七殿五舎は春の池に落ちた花びらのように、見た目ばかりが美しい。
その下では、すでに水が腐り、濁り始めていた。
「あれは仮病に近いって、自分で言ってたじゃない」
「近いけど、全部が全部そうとは限らないと思うの」
文子は、すぐには返事ができなかった。
昨日までなら、帝妃たちが我がままを通すために、物の怪だの凶兆だのと騒いでいるのだと思っていた。
実際、梅壺女御の一件はそうだろう。
けれど、すべてが姫たちの我がままとは限らない。
今朝の文子には、その疑いを捨て切ることができなかった。
まして昨夜の夢を思い出すと、笑い飛ばす気にはなれなかった。
鬼神は、朝に目を覚ましたときには跡形もなく消えていた。
寝具の中に残っていたのは、手首へ結ばれた赤土の苧環の糸だけ。
その先は几帳の下をくぐり、部屋の外へ伸びていた。
ところが朝の光が濃くなるにつれ、糸は途中でふつりと途切れ、見えなくなってしまった。
――俺の居所まで辿り着け。
――夢の中ではなく、現の足で来い。
完全な夢なら、糸が引かれた形跡など残らない。
もし現のものなら、朝陽に解ける筈もない。
ならばあれは、夢と現の境を渡って来たものだ。
そして、あの鬼神が後宮の闇を通って文子のもとへ来たのなら、他にも似たものが入り込んでいないとは限らなかった。
それに鬼神は言っていた。
――物の怪を俺に寄越せ、と。
後宮に巣食う物の怪。
祓い切れぬ恨み。女たちの妬み。
恐れ、執着が形を持ったもの――。
そう思いついた途端、後宮の浮ついた噂が、急に別の色を帯びて見えた。
ただの作り話なら、それでよい。
帝の寵を奪い合うための言い訳なら、誰かが叱れば済む。
だが、もし本当に、女たちの思惑を餌にして何かが育っているのなら。
「……確かに、すべてを戯言と決め付けるのは危ういわね」
文子がそう言うと、志乃の顔がぱっと明るくなった。
大きな煌めく瞳を輝かせ、うんうんと忙しなく頷く。
「でしょう?」
その瞬間、文子は己の失言を悟った。
まだ、志乃の頼みを請け負った訳ではない。
慎重に検める必要がある、と言った心算だった。
だが、その一言で志乃の依頼心に足場を与えてしまった。
困り顔の奥で、何をどう頼めば通るか、もう算段が立ち始めている。
「ねえ、文子。後宮を取り締まってよ!」
「は?」
思考が一拍、止まった。
物の怪の話をしていた筈だ。
それがなぜ、後宮全体の取り締まりになるのか。
否。
帝の寵を奪い合うための言い訳なら、誰かが叱れば済む。
文子自身、そう考えたばかりだった。
それでも、その「誰か」に自分を数え入れてはいなかったのだ。
志乃の中では、その「誰か」が最初から文子だったらしい。
「……今、何と?」
「後宮を取り締まって、って言ったの」
「あなたの仕事でしょう」
「私こんなだからさあ、誰も聞きやしないのよねえ」
堂々と言うことではない。
反省の色など、爪の先ほどもなかった。
志乃には、矜持を傷付けられた様子など丸きりない。
悪びれもせず、にじり寄るように文子の方へ膝を進めて来る。
「注意しても、はいはい志乃ちゃん、で終わり。梅壺なんか、あなたは典侍でしょう、わたくしは女御ですわ、って顔をするし」
志乃は扇をぱたぱたと動かした。
その所作は、暑い日の猫の尾のように忙しなく、却って本人の気楽さを際立たせている。
「でも、文子は女学校でも風紀委員だったじゃないの。誰も文句の付けようがない首席卒業だし」
「そんな昔のことを……」
「こう、扇を持って、すっと立って、あなた方、後宮の品位を何と心得ますの、って言いそう」
志乃は、わざわざ背筋を伸ばし、文子の真似らしきものまでしてみせた。
扇を音もなく開き、口元のみを隠す。
伏せた睫毛の下から、相手へ視線を流す。
それからほんの僅かに、つんと可愛らしく顎を上げた。
所作のみを見れば、典侍としての品は申し分なく備わっている。
難は、たとえ後宮であれ女学校以来の顔見知りが多く、中身が志乃だと知れ渡っていることだった。
確かに、文子は才媛の誉れ高く、女学校始まって以来の成績で卒業した。
確かに、廊下を走るな、帯を崩して庭へ出るなと、下級生たちを注意した覚えもある。
だが、それを後宮へ持ち込まれる筋合いはない。
ましてや帝妃たち相手に、風紀委員よろしく睨みを利かせろなど、冗談ではなかった。
女学校のお転婆令嬢たちと、帝の寵を争う妃たちでは、面倒の質が違いすぎる。
「だって、今の後宮には嫌われ役が必要なのよ」
「……嫌われ役?」
「そう。皆に嫌われても、場を締める人。ばらばらの帝妃たちの共通の敵! そしたら皆、少しは仲良くなるんじゃない」
勝手な理屈だ。
勝手な理屈だが、志乃は本気で言っている。
帝妃たちは互いに競い、女房たちは噂を運び、誰も上から場を締めない。
ならば、いっそ皆が等しく嫌う相手を置けば、後宮の空気が一つに纏まる。
おそらく志乃の頭の中では、そのような雑な算段が出来上がっているのだろう。
そして、その役に文子を据える気なのだ。
女学校でもずっと、困ったことがあれば文子や紬路に頼って切り抜けてきたように。
「文子なら、立派な嫌われ役になれるわ!」
褒めている顔だった。
心底、友人を信じている顔だった。
だから余計に腹が立つ。
「志乃」
「なあに」
「今の言葉、普通なら絶交ものよ」
志乃は一瞬だけ目を丸くし、それからにこりと笑った。



