「鬼神と契るとは、怒りも飢えも、荒魂も和魂も、すべてを晒し合うということだ」
鬼神の言う契りとは、肌よりも深いところへ触れるものなのだろう。
名を渡す。
気配を刻む。
そして、互いの奥底にあるものを、見なかったことにはできなくなる。
その眼差しが、そう告げていた。
「お前は、それを受けるのか」
「……受けます」
答えた瞬間、鬼神の目の奥で昏い火が点った。
満足ではない。
嘲りでもない。
文子の覚悟を、舌の上で味わっているような眼差しだった。
「俺が荒魂に傾けば、人など容易く裂くぞ」
「裂かせません」
「だが、和魂のみでは鬼神の強さは鈍る。――物の怪を喰わせろ」
文子の背に、冷たいものが走った。
喰わせろ、という一語が、夢の闇の中で牙のように光った。
「後宮は女の園だが、花園ではない。寵を失う恐れ、選ばれぬ怒り、奪われた者の恨みが澱んでいる」
几帳の奥の闇が、言葉に合わせて深くなった気がした。
知っている、と文子は思った。
あの七殿五舎には、花の香より先に沈んだ息がある。
「もう肥え始めているぞ。嫉妬を喰って育つ物の怪がな。――それを俺に喰わせろ」
手首に結んだ赤い糸が、寝具の内側でひやりと肌へ食い込む。
捕らえたのは自分の筈だった。
なのに今は、鬼神の言葉が文子を深く絡め取っている。
鬼神は腕を退けない。
むしろ、言葉で更に近付いてくる。
恐ろしい条件を突き付けているはずなのに、その響きは甘美な誘いに似ていた。
「見つけた物の怪を、俺に寄越せ。……恨みの澱。呪いの芯。人にも妖にも戻れぬものの残り香」
寄越す。
その一語が、腹の底へ沈んだ。
鬼神に物の怪を与える。
つまり、飢えを満たす。
本当に、鬼神を御せるだろうか。
否、御すなどと、考えること自体が思い上がりではないのか。
「物の怪を喰えば、俺の荒魂は強くなる」
淡々と告げられるほど、恐ろしかった。
脅しではない。
これは契約の中身なのだ。
強くなる。
ならば、その強さが文子の手に余った時、誰が止めるというのだ。
「お前が俺を御し、和魂もそれ以上に保て。荒ぶる力のみが勝れば、俺は鬼に堕ちる。荒魂を抱えたまま和魂を勝らせることができれば、俺の神格は増す。……お前も強くなる」
鬼神を強くする。
けれど、強くしすぎれば鬼に堕ちる。
力を与えながら、手綱を離さない。
喰わせながら、呑まれない。
そんなことが、人の身にできるのか。
それは、互いの喉元へ手を掛けたまま、同じ刃を握るような契りだった。
どちらかが僅かに誤れば、相手を傷つけてしまうのだ。
なるほど。
女に鬼神との式神契約など無理だと、彼らが嗤った理由も判らないではない。
「荒魂が勝れば、俺はお前を喰う」
「……わたくしに、あなたを育てろと?」
「違う」
鬼神の黒髪が、文子の頬の横へ落ちた。
触れてはいない。
だが、触れられる寸前の距離が、却って息を浅くする。
「俺を選べ、陰陽姫」
文子の指が、寝具の上で握られた。
逃げたいのか、掴みたいのか、自分でも判らない。
「荒魂を恐れていては式神契約は成らない。俺の飢えまで引き受けて、陰陽師として使い切るのだ」
鬼神は恐れるなと言っているのではない。
恐れたまま、それでも手綱を握れと言っている。
喰われるかもしれない。
それでも喰わせ、御し、和魂へ引き戻せと。
無謀だ。
だが、文子が欲しかったのは、初めから安全な道ではなかった。
安全で済むのなら、疾うに洞見の異能を手土産に、どこぞの家へ入っていた。
異能の強さを重宝され、向こうから差し出された無難な婚姻を結び、どこぞの屋敷の奥で一生を終えていた。
けれど、文子はそのために観えるのではない。
授かった天与の異能は、華族の家の繁栄に使われるべきものではない。
陰陽師として国に仕え、民を守る。
そのためにこそ、文子の才はある。
「求めろ、文子。俺と契りたいのだろう」
鬼神は、文子を女陰陽師として見ている。
危うい契約を結ぶ相手として、試している。
文子は、ゆっくりと頷いた。
それを見届けると、鬼神は苧環の糸へ指を掛けた。
文子の手首に結ばれていた赤い糸を、そっと解く。
「解くのですか」
鬼神は答えなかった。
ただ、文子の手首を取り、もう一度、同じ糸を結び直す。
先ほどよりも緩く。
けれど、決して外れぬ形に。
捕らえるための結び目ではない。
逃がさぬための縄でもない。
選んだ者同士を結ぶ形に、再度結ばれていた。
「これは道標だ」
結び目に、冷たい指先が触れる。
その瞬間、糸が脈を得たように顫えた。
我が庵は 三輪の山もと 恋しくは
とぶらひ来ませ 杉立てる門
ふと、鬼神の唇が古い和歌の形を擦った。
恋しくば、訪ねて来い。
待つのではない。
呼ばれるのでもない。
「辿って来い、文子」
「……喰わせる怪異は、わたくしが選びます」
「ほう」
「祓えば済むものは祓う。鎮めれば戻れるものは鎮める。そうして輪廻の輪へ戻します」
憐れみで鎮まるものまで、鬼神の飢えに投げ込む心算はない。
すべてを喰らわせれば、次の生へ送れる筈のものまで、ここで断ち切ってしまう。
「人にも妖にも戻れぬほど、歪みの強いもののみを、あなたへ渡します」
文子は鬼神を睨み返した。
喰わせるものを選ぶのは、鬼神ではない。
文子だ。
それが、この契約の条件だ。
未来を観る力を持つ文子だが、この鬼神との未来は当然観えない。
それでも観えないからといって、選択しない責任を持たないとは性分に合わない。
「わたくしの許しなく、勝手に喰らうことは許しません」
「俺に禁を掛けるか」
「契約ですから」
鬼神は暫く、文子を見下ろしていた。
やがて、その目許に、興を含んだ翳りが差す。
「強い。しかも、迷った魂には情けを残す優しさもある」
「真名を」
「まだ早い」
鬼神は、文子の手首へ絡んだ苧環の糸を指で擦った。
「俺の居所まで辿り着け。夢の中ではなく、現の足で来い。そこで名を問え。そこで契れ」
鬼神の言う契りとは、肌よりも深いところへ触れるものなのだろう。
名を渡す。
気配を刻む。
そして、互いの奥底にあるものを、見なかったことにはできなくなる。
その眼差しが、そう告げていた。
「お前は、それを受けるのか」
「……受けます」
答えた瞬間、鬼神の目の奥で昏い火が点った。
満足ではない。
嘲りでもない。
文子の覚悟を、舌の上で味わっているような眼差しだった。
「俺が荒魂に傾けば、人など容易く裂くぞ」
「裂かせません」
「だが、和魂のみでは鬼神の強さは鈍る。――物の怪を喰わせろ」
文子の背に、冷たいものが走った。
喰わせろ、という一語が、夢の闇の中で牙のように光った。
「後宮は女の園だが、花園ではない。寵を失う恐れ、選ばれぬ怒り、奪われた者の恨みが澱んでいる」
几帳の奥の闇が、言葉に合わせて深くなった気がした。
知っている、と文子は思った。
あの七殿五舎には、花の香より先に沈んだ息がある。
「もう肥え始めているぞ。嫉妬を喰って育つ物の怪がな。――それを俺に喰わせろ」
手首に結んだ赤い糸が、寝具の内側でひやりと肌へ食い込む。
捕らえたのは自分の筈だった。
なのに今は、鬼神の言葉が文子を深く絡め取っている。
鬼神は腕を退けない。
むしろ、言葉で更に近付いてくる。
恐ろしい条件を突き付けているはずなのに、その響きは甘美な誘いに似ていた。
「見つけた物の怪を、俺に寄越せ。……恨みの澱。呪いの芯。人にも妖にも戻れぬものの残り香」
寄越す。
その一語が、腹の底へ沈んだ。
鬼神に物の怪を与える。
つまり、飢えを満たす。
本当に、鬼神を御せるだろうか。
否、御すなどと、考えること自体が思い上がりではないのか。
「物の怪を喰えば、俺の荒魂は強くなる」
淡々と告げられるほど、恐ろしかった。
脅しではない。
これは契約の中身なのだ。
強くなる。
ならば、その強さが文子の手に余った時、誰が止めるというのだ。
「お前が俺を御し、和魂もそれ以上に保て。荒ぶる力のみが勝れば、俺は鬼に堕ちる。荒魂を抱えたまま和魂を勝らせることができれば、俺の神格は増す。……お前も強くなる」
鬼神を強くする。
けれど、強くしすぎれば鬼に堕ちる。
力を与えながら、手綱を離さない。
喰わせながら、呑まれない。
そんなことが、人の身にできるのか。
それは、互いの喉元へ手を掛けたまま、同じ刃を握るような契りだった。
どちらかが僅かに誤れば、相手を傷つけてしまうのだ。
なるほど。
女に鬼神との式神契約など無理だと、彼らが嗤った理由も判らないではない。
「荒魂が勝れば、俺はお前を喰う」
「……わたくしに、あなたを育てろと?」
「違う」
鬼神の黒髪が、文子の頬の横へ落ちた。
触れてはいない。
だが、触れられる寸前の距離が、却って息を浅くする。
「俺を選べ、陰陽姫」
文子の指が、寝具の上で握られた。
逃げたいのか、掴みたいのか、自分でも判らない。
「荒魂を恐れていては式神契約は成らない。俺の飢えまで引き受けて、陰陽師として使い切るのだ」
鬼神は恐れるなと言っているのではない。
恐れたまま、それでも手綱を握れと言っている。
喰われるかもしれない。
それでも喰わせ、御し、和魂へ引き戻せと。
無謀だ。
だが、文子が欲しかったのは、初めから安全な道ではなかった。
安全で済むのなら、疾うに洞見の異能を手土産に、どこぞの家へ入っていた。
異能の強さを重宝され、向こうから差し出された無難な婚姻を結び、どこぞの屋敷の奥で一生を終えていた。
けれど、文子はそのために観えるのではない。
授かった天与の異能は、華族の家の繁栄に使われるべきものではない。
陰陽師として国に仕え、民を守る。
そのためにこそ、文子の才はある。
「求めろ、文子。俺と契りたいのだろう」
鬼神は、文子を女陰陽師として見ている。
危うい契約を結ぶ相手として、試している。
文子は、ゆっくりと頷いた。
それを見届けると、鬼神は苧環の糸へ指を掛けた。
文子の手首に結ばれていた赤い糸を、そっと解く。
「解くのですか」
鬼神は答えなかった。
ただ、文子の手首を取り、もう一度、同じ糸を結び直す。
先ほどよりも緩く。
けれど、決して外れぬ形に。
捕らえるための結び目ではない。
逃がさぬための縄でもない。
選んだ者同士を結ぶ形に、再度結ばれていた。
「これは道標だ」
結び目に、冷たい指先が触れる。
その瞬間、糸が脈を得たように顫えた。
我が庵は 三輪の山もと 恋しくは
とぶらひ来ませ 杉立てる門
ふと、鬼神の唇が古い和歌の形を擦った。
恋しくば、訪ねて来い。
待つのではない。
呼ばれるのでもない。
「辿って来い、文子」
「……喰わせる怪異は、わたくしが選びます」
「ほう」
「祓えば済むものは祓う。鎮めれば戻れるものは鎮める。そうして輪廻の輪へ戻します」
憐れみで鎮まるものまで、鬼神の飢えに投げ込む心算はない。
すべてを喰らわせれば、次の生へ送れる筈のものまで、ここで断ち切ってしまう。
「人にも妖にも戻れぬほど、歪みの強いもののみを、あなたへ渡します」
文子は鬼神を睨み返した。
喰わせるものを選ぶのは、鬼神ではない。
文子だ。
それが、この契約の条件だ。
未来を観る力を持つ文子だが、この鬼神との未来は当然観えない。
それでも観えないからといって、選択しない責任を持たないとは性分に合わない。
「わたくしの許しなく、勝手に喰らうことは許しません」
「俺に禁を掛けるか」
「契約ですから」
鬼神は暫く、文子を見下ろしていた。
やがて、その目許に、興を含んだ翳りが差す。
「強い。しかも、迷った魂には情けを残す優しさもある」
「真名を」
「まだ早い」
鬼神は、文子の手首へ絡んだ苧環の糸を指で擦った。
「俺の居所まで辿り着け。夢の中ではなく、現の足で来い。そこで名を問え。そこで契れ」



