文子姫の式神婚 〜悪役令嬢の後宮陰陽師は、鬼神の執着から逃げられない〜

 夜が、几帳の隙間から(にじ)んで来た。

 燈台(とうだい)の芯は先細り、油を吸い尽くしかけた火が青白く痩せ、時折、火先を(ふる)わせる。
 眠りに落ちる寸前、文子(あやこ)は自分の手首に結んだ苧環(おだまき)の糸へ触れた。

 闇の奥から、夜毎(よごと)のあの気配が近付いて来ている。
 今宵こそ、逃がさない。
 文子(あやこ)は寝具の中で、目だけを開けた。

 畳を踏む音はない。
 衣()れもない。

 几帳の幅筋(のすじ)へ目を落とす。
 垂れた二筋の紐が、灯りの下で淡い影を引いている。

 その向こうに、影が立った。
 昨日より近い。
 一昨日よりも、さらに。

 人の形をしていた。
 とても背が高く、闇の中に角めいたものを(いただ)いている。

 文子(あやこ)は息を殺したまま、枕の下へ隠した苧環(おだまき)の糸端を探った。

 夢の中だ。
 ならば、道理も作法も、(なか)ばはこちらのものだ。
 眠る前から枕元へ忍ばせていた糸の端を、指に絡める。

 影が几帳を越えようとした瞬間、糸を放った。
 赤土を含ませた苧環(おだまき)の糸は、闇の中を細く走り、鬼神の手首へ絡みつく。
 一度。
 二度。

 寝具の中から身を起こし、手元の糸を引き寄せる。
 きゅっと結んだ。

 捕らえた。

 そう思った途端、鬼神が笑った。

 次の瞬間、視界が揺れる。
 気付けば文子(あやこ)は寝具へ押し戻され、両肩の横へ鬼神の手が置かれていた。

 鬼神が、腕の中に()めるようにして、文子(あやこ)を見下ろしている。

 長く艶やかな黒髪が肩から滑り落ち、重い気配が覆い被さる。
 夜そのものが形を得たように、文子(あやこ)の視界を覆った。

「こんなもので俺を捕まえようと思ったか。小手先の子ども騙しで」

 低く落とされた言葉に、喉の奥がひやりとした。

 苧環(おだまき)の糸のことを言っているのだろう。
 夢の中だというのに、左手首へ結んだ糸の感触がある。
 細い(はず)の糸が、今は文子(あやこ)の脈まで縛っているようだった。

「……捕まえる心算(つもり)など」
「では、何だ」

 鬼神は、文子(あやこ)の顔の両脇についていた腕を、す、と緩めた。

 それで逃げ場が増えたように見えた。
 だが次の瞬間、両肘が寝具へ落ちる。
 腕一本分あったはずの距離が、二の腕の長さほどに縮まった。

 近い。

 間近(まぢか)で見る鬼神の角は、左右へ分かれて額からすらりと伸びていた。

 獣のものとも、鹿のものとも違う。
 夜の中で鈍く(つや)めいている。
 あれで穿(うが)たれれば、肉など容易く裂けるだろう。
 張って来た虚勢も見透かされ、貫かれ、きっとその奥まで(あば)かれる。

 鬼神の片手がゆるりと伸び、文子(あやこ)の手首に結ばれた糸を、指先で軽く持ち上げる。

 糸を引かれたのではない。
 隠していた願いの方を、直接引き出されたような気がした。

「古い手を使う。……はっ」

 短く漏れたそれは、怒気ではなかった。
 文子(あやこ)は糸を握りしめたまま、息を詰める。

 鬼神は、面白がっていた。

「糸で男を縛るなど、ずいぶん可愛らしい真似をする」
「……男ではありません。鬼神です」
「そうだな」

 絡め取られた自らの手首を、鬼神は興を引かれたように持ち上げた。

「まあ、人のことは言えないな。俺も相手の姫を、よく味わってからにしようと思っていた」
「……何を?」

 几帳の内は狭い。
 眠りの中の(はず)なのに、鬼神の髪からは濡れた土にも似た匂いがした。
 苧環(おだまき)に付けた、赤土の匂いかもしれなかった。

「式神契約を」

 文子(あやこ)は、はっきりと言った。

「わたくしと、式神契約を結びなさい。……正体を知らぬ相手と夢の中で(ちぎ)るほど、わたくしは軽くありません」

 鬼神の手が、文子(あやこ)の眼を(のぞ)くように頬へ当てられる。

「鬼に命じるか」
「願い出ております」
「ずいぶん偉そうな願いだ。……式は、つまり使鬼(しき)だ。お前は鬼にものを申しておる」

 言った後で、自分でも大胆が過ぎたと思った。
 だが、引けない。

 陰陽寮の男たちが笑っていた。
 女と(ちぎ)る鬼神があるものか、と。

「意味を知った上で言っているか?」
「式神契約のことです」
「そうだな、式神契約のことだ。……鬼を使役する覚悟はあるか」

 鬼神は更にゆっくりと身を低め、几帳の内の闇ごと文子(あやこ)を覆うように近付いた。
 (ひたい)が触れそうなほど近くなり、逃げ場は寝具の縁にさえ残っていない。

 九字を切ることはできた。
 夢から覚めようと、奥歯が痛むほど食いしばることもできた。

 けれど、そのどちらも意味を成さぬ気がした。

 この鬼神を前にしてなお目を()らさず、命じる者としてここに在れるか。
 試されているのだと、文子(あやこ)は悟った。

「俺の荒魂(あらたま)も、お前を求めている……」

 文子(あやこ)は動かなかった。

 近付くほど、鬼神の気配が肌へ触れる。
 冷たいのに、熱い。

 雨を含んだ土。
 夜に焚かれた香。
 (はら)われ損ねた恨みの奥で、(なお)(くすぶ)る火。

 そのすべてが、文子(あやこ)の息の内側へ忍び込んでくる。
 鬼神は、文子(あやこ)の意思の硬さを測るように(のぞ)き込んだ。
 恐ろしい(はず)なのに、目を()らせない。